と言っていた子がいたなぁ、と『狼少年のパラドクス』を読んで思い出した。
大学の同級生がそんなことを言っていたんだ。
もちろん、「盲腸炎にでもなって明日の試験、パスしたい」という意味ではなく、「社会の“盲腸”になりたい」という話だったんだけど。
盲腸って、なんであるのかわからない、なくてもいいような器官だって言われてるでしょ。
盲腸というか、正確には「虫垂」かもしれないけど。
虫垂炎になれば切っても支障がない、「なくても大丈夫」な器官で、でもみんなそれを持って生まれてくる。
表面的には役に立ってるのかどうかわからないけど、でもちゃんと「組織の一部になっている」みたいな。
そーゆーものにわたしはなりたい、と友達は言っていたのだった。
「でも炎症を起こしたら切って捨てられちゃうから、炎症を起こさないようにしないとね」と突っ込んだかどうか覚えてないけど(笑)。
言いたいことはよくわかるな、と思った。
私もそうだな、って。
「実際的な有用物」とは別の次元で生きていたいと思ってた。社会にとっての「ハンドルの遊び」みたいな存在として。
新解さんによる「遊び」の意味は「機械の連動して動く部分に設ける、運動をゆるやかに起こさせるための余裕」。
一見無駄に見えるような隙間、「遊び」が、実は動きをなめらかにしている、みたいな。
世の中が全部「実際的に役に立つもの」ばっかりだったら息苦しくてつまらない。
もちろん、「遊び」ばっかりだと世の中動いていかないから、両方がないといけないわけだけど。
私は「遊び」に属する存在でいたいと思っていた。
たぶん、見事にそーゆー存在になっているような気がする。少なくとも、「お金にならない」無駄なことばっかりやってるし、掃除洗濯といった「有用」なことは最低限にとどめて、役立たずなことばかりに力をつぎ込んでいる。
私がそのように「遊び」でいられるのは、きちっと「有用な存在」でいてくれる旦那様あってのことだけれども。(いつもありがとう。穀潰しでごめんなさい)
「仙人になりたい」と言ってた子もいたなぁ。
霞を食って生きていられるのだったら、「食い扶持を稼ぐ」を気にしないで存分に「遊び」でいられるもの。
私は物が捨てられなくて、「役に立つんだか立たないんだかわからない、きっと捨てちゃっても私が“寂しい”と思うだけ」というようなガラクタが山ほどあって、しかもそれが整理されずに部屋の中に雑然と存在する。
モデルルームとかホテルとか行くと、ガラクタが全然なくてすっきりしてて、そりゃ綺麗でいいな、とは思うけど、でも本当に「無駄なものは全然ない」という部屋に住んだら、きっと私は落ち着かない。
だって私自身がそーゆー「ガラクタ」だもんね。
あんまり役には立たないけど、でもないと寂しいな、という「ガラクタ」に、私はなりたい。
社会・政治
2 Comments
私は、歌を歌ってきたし
返信削除歌を教える人生を送り続けているのですが
実は、道を踏み間違えたんです
学生の頃、この歌をどう歌おう
最初にこの曲を与えられた人は
どうやってこの曲を歌ったんだろうなどと
分析したり、考えたり、思いを巡らしていました
そこまでは、よかったんですよね。。。
ところが"歌そのものになりたい"っていう感覚
メロディをどう歌ってやれば、イチバンその歌が生きるのか
どう表現すれば、この詩の意味が伝わるのか
そういったものに捉われるようになって
自分の歌を聞かせるとかっていう
そういう欲を無くしちゃいましたとさ。。。
結局、バランス(配分)なんですけどね
��Cat's oh!様
返信削除「歌そのものになりたい」って素敵ですね!
最近の歌手って「何を歌ってもおんなじ」というか、「一本調子」というか、表現の幅がないな、って私は思ってるんですけど……あれは「歌を表現する」ではなくて、「自分を表現する」になっているからなのでしょうか?
おっしゃる通り、「バランス」ではあると思うのですけど。
「それを他の誰でもない、自分が歌っている」という意味での「自分の表現」と、「歌われている物語を表現する」という部分と……。
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