大阪のひき逃げ事件の犯人が捕まって、彼が事件後、ごく普通に別の職について大阪で暮らしていたことについて、怒るよりも呆れてしまった。

「致命的に想像力がないのだな」と思ったのだけれど、昨日この事件のことを「ちちんぷいぷい」で取り上げていて、その際名越先生が、「“時間の流れ”がなくて、本当に“今”しかない人たちがいる」とおっしゃっていた。


名越先生がそう発言する前に、リンゴさんが、「たとえばある仕事をしててダメだとなったらパッとやめて、全然違う方面へ行って、以前の交友関係もばっさり切っちゃって、ほんとに“リセット”してしまう人がいますよね」というようなことをおっしゃった。

それを踏まえての、名越先生の「彼らには“今”しかない」。

「“今”さえ良ければいい」という言い方には、「めんどくさい過去とか、あんまり良くなりそうにない未来」の存在が「暗黙の前提」として入っているように思うけれども、ある種の人々にとって、「過去」はリセットできる「関係のないもの」で、「未来」もまた、「今」とは断絶した、「関係のないもの」なのだ。

過去から未来に続く時間の流れの中で「今」を大事にするとか、「今」が楽しければいい、というのではなくて、ただ「今」だけがある。

ああ、そういうことなのかぁ、となんだか納得してしまった。

「想像する」というのは、やっぱり「これからどうなるかあれこれ考える」だったり、「あの時ああしていればこうなったかも」だったり、「時間的な拡がり」を必要とするものだろう。

「今」見えているだけのことではなくて、「今」は見えないけれども「未来」には見えるかもしれないものや、「過去」にはあったかもしれないものを考える。

そしてそういうふうに「想像を拡げる」ためには、「今まで見てきたもの」という蓄積が必要で、「過去」を「関係のないもの」としてしまったら、「それを踏まえての推理」であるような「想像」は、非常に難しいものになってしまうだろう。

人を轢いて、「逃げないと捕まる」という非常に狭い範囲での「想像」はできる。

「このまま車を走らせたら被害者は死ぬだろうな」という狭い範囲での「想像」はできていて、「その場」をやりすごせてしまったら、もうそれは「過去」になって、「関係がない」。

だから、平気で普通に過ごせていたんだろうな。

「まだ捕まる可能性はある」ということを、まさか考えなかったとは思えないんだけれども、仕事を変わって「過去」をリセットしたら、「自分がひき逃げをした」という事実も、もしかしてどっか遠いところに行ってしまったのかもしれない。

捕まってしまえば平気で「このままだと死ぬなと思った」などと白状してしまう「当事者性のなさ」は、きっとそういうことなんだろう。 


そーゆー「リセット」感覚というのは、ゲームとかパソコンのせいだけじゃなくて、世の中全体が、「そーゆー近視眼的な感じ」になってしまっているせいなんじゃないかな。

目先の利益ばっかりで、「長い目でものを見る」なんてことが、もう美徳とは思われないでしょう?

過去の記憶に執着し、「悠久の時の流れ」などという言葉にたまらないロマンを感じる私には、「時の流れがない人々」というのはちょっと、信じられないけれども。