昨日の話の続き。

橋本治さんの『ひらがな日本美術史』の1巻で、「日本人は“流れ”を楽しむのが好きだ」というようなことが出てきていた。

それは、ストーリー・マンガの元祖ともなるような、『伴大納言絵巻』について書いてあった章だったと思うのだけれど、「絵巻物」というのは、「流れていくもの」なのである。

右から左へ、時間が流れていく。

明確に線で「コマ」が区切られているわけではないけれども、描かれる絵の内容は右から左へと流れていって、読む方は右から左へと視線を進めながら(あるいは巻物になっているのを繰りながら)「物語の流れ」を追っていく。

日本人は「流れ」が好きで、「茶の湯」とか「連歌」といったものも「流れ」を楽しむものだと。

今日、私はたまたま息子の習っている先生のお茶会に行ってきたのだが(息子は小学校入学時から茶道教室に通っていて、今日も手伝いに行っていた)、「茶道」って、知らない人間にはとっても不思議な、「なんでお茶を飲むだけのためにこんなめんどくさいことをしなくちゃならないんだろう?」というようなものだ。

あれは、「お茶を飲むこと」を楽しむものではなくて、「流れ=プロセス全体」を楽しむものなのですね。

茶室に入った瞬間(あるいは入る前)から、掛けられた書や絵画を楽しみ、活けられた花を楽しみ、お茶を点てるいちいちのプロセスを楽しみ……。

その空間、時間そのものを楽しむのが「茶道」というものなのだ。


ペットボトルのお茶が何種類も売っている現在、「急須でお茶を入れたことがない」人というのも、もしかしたらいるかもしれない。

私達の今の生活は、「プロセス」なしの「結果」ばかりが溢れていて、魚は最初から「切り身」になって並んでいるし、田んぼも畑も見たことなくてもお米やきゅうりを食べることができ、「服」だってわざわざ「既製服」と言う必要もないぐらい、「できあがってる服」を買うのがほとんどだろう。

電気製品の中身はブラックボックスで、何がどうなって動くのかさっぱりわからないし、そんなこと知る必要もない。

「できあがっていく過程」というものは見えなくて、ただ「できあがったもの」だけが大量に目の前にある。


それを「作っている」人々でさえ、「流れ全体」は知らなかったりするのだ。

ベルトコンベアに乗って流れてくる商品の、一部分だけを作る。ある人はひたすら同じ個所のネジを締め、ある人は同じ一つの部品だけをひたすらに組み込み、ただ「目の前の作業」だけを素早く正確に行うことだけを求められる。

全体の流れは見えない。

そんなもの見なくていい、という働き方を強制されている人が、きっといっぱいいる。

人間自身が、連続する「流れ」から切り離されて、「点」として存在させられている世の中。


「今」しかない人々が増えていくのは、あたりまえのことかもしれない。


『ひらがな日本美術史』の2巻には、「“流れている時間を描く”のは日本の絵画の常識だ」という文章も出て来る。

絵巻物ではない、「一幅の絵」であっても、「時間が流れている」。

「切り取られた一瞬」ではなく、「流れ」を描くのが日本の絵の常識らしい。

おお~っ、すげーじゃん!と思ってしまう。

日本のストーリー・マンガが異常な発達を遂げたのは、絵巻物(をはじめとする日本の絵画)が、そもそも「流れ」を描くものだったからだろうと、橋本さんは書いている。

そこに時間は流れて、であればこそ「ドラマ」は生まれる。

今、「ケータイでマンガを読む」ということもできるようになった。

ケータイ画面は小さいから、一度に表示されるのは1コマだけである。

あれは果たして、「マンガ」なんだろうか?

「複数のコマから成り立つ画面」という「流れ」から、一つ一つのコマを取り出して、それを連続的に見せる。

紙に描かれたマンガと、ストーリーは変わらない。読み進む順番も変わらない。

でも、「複数のコマ」をいっぺんに視界に入れて、「流れ」を把握しながら「一つ一つ」を追うのと、「流れ」は見えなくて最初から「一つ一つ」見るのとでは、何かが違うような気がする。

独立した「点」の羅列は、果たして「線」と同じものなのだろうか?

今、「線」という言葉を新解さんでひいたら、「〔幾何学で〕時間と共に(連続的に)動く点の描く図形」と書いてあった。

ただの「点の集合」じゃないんだ。

そこに、時間は流れている。


流れゆくもの、移ろいゆくもの。

それをこそ美しいと思い、楽しんでいた日本人なのにね。