雪組シアタードラマシティ公演『カラマーゾフの兄弟』を観てまいりました。

昨日、12月14日の12時公演。

まだ、幕が開いて2公演目の初々しい(?)舞台です。……って、そんなこと全然気にしないで行ったんだけどね。この公演がいつからいつまでやってるのか、チケットを取った時に確認して以来、すっかり意識の外でしたから。

12月25日、クリスマスまでやってます。

千秋楽にはフィナーレで賛美歌とかもやってくれるかも。

でもロシア正教のクリスマスは12月25日じゃない、って『ブラッディ・マンデイ』で音弥くんが言ってたなぁ(笑)。

前置きはこのくらいにして。

――うん、なかなか良かったです。作品として、よくできてたと思う。

トウコちゃんの舞台だと、トウコちゃんがいかに良いか、トウコちゃんの魅力が生きる舞台になっているか、ということを主眼にして観てしまったりもするのだけど、雪組はすごく久しぶりで、特にごひいきのスターさんがいるわけでもないので(あえて言えば未来さん好きだけど)、「お話」中心に観てしまいました。

なんたって『カラマーゾフの兄弟』ですもんねぇ。

しかも亀山さんの新訳本を「参照」ということになっているわけですし。

幕開きは、予想通り裁判のシーン。

父殺しの嫌疑で裁判を受けるミーチャの「俺は無実だ!」というところから始まる。

出演者、登場人物の顔見せ的プロローグ。

そして次がちょっと意外な、スメルジャコフの誕生シーン。

物語は、スメルジャコフの母リザヴェータが誰の子かわからない子どもを産み落として死んでいるところから始まるのですね。

今回のお芝居で、スメルジャコフの扱いはとっても大きいです。まぁ原作でも彼は「父殺し」において「キー」となる人物ですが、「スメルジャコフってこんなにおいしい役だったんだ」(笑)。

だって最初からこう怪しくて、魔的というか、「黒っぽい」イメージでいわくありげなんだもん。宝塚では主役はどんなに悪くてもやっぱり「ヒーロー」を脱しきれないので、2番手や3番手の人の演ずる「黒い役」の方が往々にして魅力的で「おいしい」のよね。

今回スメルジャコフを演じた彩那音さんが何番手なのか知らないけど……。

「スメルジャコフってこんなにイケメンなんや!」っていうのが、また新鮮な驚き(笑)。

あの膨大な話を2時間でやらなくちゃならないので、「わかりやすく」なっているところが多々。

スメルジャコフに関して言えば、最後にイワンに真相を告げるところで、「はっきり言い過ぎ」だし、「母親を汚されたことへの恨み」という動機がかなり強調されています。

原作ではスメルジャコフの父親が誰か、というのはあくまでも「ほのめかし」であって、断言はされていない。まぁ、スメルジャコフが「フョードルだと信じている」はありだろうけれども、スメルジャコフもまた「カラマーゾフの兄弟なのだ」ということが、しっかりと前面に出ていましたね。

「ほのめかし」だからこそハラハラどきどきする、「ほのめかし」だからこそ読者は「ああかこうか」と想像をふくらませられるので、「説明しすぎやなぁ」と思ってしまったけど、お芝居では仕方のないところでしょうね。

原作を読んでいない人にもストーリーをわかってもらおうと思ったら、あまり曖昧なことばかり言ってられない。

でもミーチャの「恥辱」がなかったのは残念。

カテリーナから借りたお金をずっと返さずに持っていたということ。それに対するミーチャの「恥辱」の感覚というのは、ミーチャという人間をよく説明するものだと思うのだけど。

……まぁ「恥辱だから言えない」、をずっとやってると芝居が2時間で終わらないからしょうがない。

あと、イワンの描き方も。

最初から「イワンの影」が登場するの、すごくいい表現だと思ったんだけど、イワンのカテリーナに対する愛情が最初からストレートに表されているのがなんともくすぐったい。

カテリーナがマリンカの花かぁ。

それを歌うかぁ、イワン。

2幕の頭が「大審問官」というタイトルだったので、「え?あれをやるの?」と思ったら全然違ったし。

イワンがモスクワで革命の同志達と「皇帝を倒そう!民衆を救おう!我らは神をも裁く大審問官!」などとぶちあげるシーンでした。

うーん、イワンって、原作ではそーゆー人じゃないよね?

あの人あんまり、社会と関わり持ちそうじゃないっていうか、「思想」はあっても「行動」はなさそうな感じなんだけどな。「頭ばっかり」の人っぽいやん。「虐げられる子ども」にシンパシィはあっても、「虐げられる民衆」にシンパシィがあるのかどうか。

「皇帝を倒す」は、「もう一つの“父殺し”」である、と亀山さんが言ってらしたりもするので、そのへんの絡みもあるんでしょうね。「思想」上の「父殺し」と、「現実」の「父殺し」。

でもやっぱり、最後の裁判のシーンで「これがおまえの救おうとした民衆の姿だ!」っていうのは、違和感あったなぁ。

真相を知ったイワンの苦悩は、そーゆーところにはないと思うんだけど。

「“真相”というものは必ずしも歓迎されない」「人は自分の信じたいものだけを信じる」というのは、確かに『カラマーゾフの兄弟』の裁判シーンから感じられることで、ドストエフスキーも「言いたかったこと」なのかもしれないけど……でも、はっきり説明されちゃうと違和感あるんだよなぁ。

ラストシーンはミーチャとグルーシェニカのハッピーエンドで、「シベリアだろうとどこだろうとあんたがいれば天国よ」的なラブシーン。

宝塚だから、そういうふうに終わるのはあたりまえ。「必ず最後に愛は勝つ~♪」(笑)。

いや、その、ハッピーエンド自体をけなす気は全然なくて、それはそれで良かったんだけど、ここでまたミーチャがしゃべりすぎるっていうか。

説明しすぎるっていうか。

「人はみんな色々な罪を背負ってうんぬん」と説教めいたことを言ってくれるのが、なんだか落ち着かない。

そーゆーことは観た人間がそれぞれに感じればいいことで、もうミーチャは裁判のところで「俺にも殺意があった。だから俺は有罪だ」と言ってしまっているんだから、あとはどーんと構えてグルーシェニカを抱きしめてればいいんだ……と私は思った。

「原罪意識」というのは、非キリスト教徒にはどうもなぁ。

原作だとアリョーシャやゾシマ長老が「救い」になっていて、ラストもアリョーシャと子ども達の感動的な、「それでも人間には希望がある」みたいなシーンで終わる。

ドストエフスキーが「私の主人公」と呼んだアリョーシャは、芝居じゃとっても影が薄いですが。

なるほど、アリョーシャがいないと「罪」ばかりがクローズアップされてしまうのかな。

アリョーシャが「ミーチャの無実を信じている」というのはミーチャにとってはちゃんと「救い」になっているけど、もっと全体的にというか、根源的にというか……。「アリョーシャを主人公だ」というドストエフスキーの気持ちが、ちょっとわかったような。

フィナーレは、テクノ・ポップス。

かと思ったらテクノ風「トロイカ」に「カチューシャ」。

「♪雪の白樺な~みき~♪」に「りんごの花ほころび♪」ですね。

日本人の「ロシア」ってここ止まり?みたいな(笑)。

でも今の若い子はどっちも知らなかったりするかもな。ロシアといえば「トロイカ」「カチューシャ」って、年寄りの発想かも……(汗)。

あと、「黒い瞳」もあった。未来さんが歌ってくれて。

さすがのうまさだったわぁ。

というところで、明日はスター篇です。