大阪府教委が、小・中学校へのケータイの持ち込みを全面的に禁止する、と決めたとかいう話で。

そーゆーこと、府全体で「禁止!」って決めないといけない時代なのね、と思った。

そもそも私は「なんで小学生や中学生にケータイが必要なのよ?」と思っている頭の古い人間なので、「そんなもん学校に持ってきちゃいけないって、当たり前やん」って思う。

でもまぁ、もう中学生じゃケータイは持ってるのが当たり前で、校則として「持ってこない」になっててもそんなの有名無実らしいということは、知ってはいる。

特に中学生女子で「ケータイ持ってない子」って、「DSを持ってない小学生男子」と同じぐらい希少価値で、「友達と話が合わない・繋がれない可哀相な子」みたいな立場に置かれてるんだろうなぁ、って。

うちの息子も、サンタさんにDSをもらったとたん、俄然友達と遊ぶようになったもんなぁ。すごい効果だと思った。

でも、DSは学校に持ってっちゃダメでしょ。

勉強用のDSソフトを授業で使う学校もあるでしょうけど、普通はダメだと思う。

学校は学習の場であって、ゲームをするとこじゃないから。

百歩譲って「休み時間は何しても勝手」だとしても、「なんで学校でまでDSをしなくちゃいけないの?」って私は思う。

ケータイの場合、「登下校の安全」のために親が持たせるということもあるんだろうけど、私立の遠い学校に行ってるんじゃなきゃ、そうそう帰りが遅くなることもないっていうか、一旦家に帰ってから遊びに行けというか。

冬だと部活終えて帰る頃には真っ暗だけど、でも「安全」のためならGPS付き防犯ブザーでもいいんだし、今ドキ中学生がケータイを持ち歩いてるのは、絶対防犯メインなんかじゃないでしょ?

むしろケータイのせいで危ない目に遭ってるぐらいなもので。

「行き帰り」と「休み時間」は「自由な時間」で何をしてようと勝手。だからケータイを持って行って何が悪い、と今ドキの子どもは考えるんだろうなぁ。

もう、私なんかホント「頭が古い」から、「そもそもなんで親はケータイを買い与えるんだ?」とか、「なんで学校にまで持って行かせるんだ?」って思うけど。

最初に子どもにケータイを買った親はどこのどいつだ、おまえのせいだぞ、ぐらいに思う(笑)。

ただ。

今回の大阪府教委の決定理由として、「ケータイ依存度が高い子ほど学習時間が少ない」ということが挙げられてるんだけど、それはちょっと、ズレてると思う。

だって、学校に持ってかなくても家でばんばん、夜中までメールのやりとりしてたら、「学習時間が少ない」のは変わらないでしょ。

まさか、「せめて授業中くらい勉強してほしいからケータイを持ってこないでください(=授業中でも平気でメールを打ったりネットを見たりしている)」っていう、そんなすごい事態に学校はなってるのかしら……。

そうだとしても、ケータイをなくしたから子どもが授業を聞くようになるかっていうと、そこは別問題のような気がするし。

ケータイって、ドラえもんの秘密道具的に言えば、「どこでも自分んちカプセル」みたいなもんだと思う。

「自分んち」どころか、「自分の部屋」というのが正確だろうけど。

昔だったら、電話って家に一つしかなくて、家族の取り次ぎというものがあった。あんまり長電話してると、「大事な電話がかかってきたらどーするの?」って怒られたり、みんなが集まるリビングにある電話では、「家族には内緒にしておきたい話」とかできなかったし。

わざわざ公衆電話まで行ってかけてた、とかいう思い出を持っている人も、私ぐらいの年代ならいるんじゃないかな。

今だと、家族全員がケータイを持ってて、みんな家にいるのに「ご飯できたよ」ってメールで知らせるって話も聞く。

そこまで「個人主義」で「バラバラ」なのかぁ、ってびっくりするけど。

ケータイを持っていると、どこにいても半径1m以内は「自分の部屋」みたいになる。

喫茶店で友達と会ってしゃべっているところに、ケータイに電話が入って、目の前の友達をほったらかしてずっと電話してる、っていうの、あれって、「電話してる人」はもう「喫茶店」にいないんだよね。「自分の部屋」にいる。

電車の中でケータイでしゃべってる人に違和感を覚えるのは(って、もう覚えない人の方が多いかもしれないが)、「同じ電車に乗ってるのに、その人はその“場”を共有していない」っていうのが気持ち悪いからじゃないかと思う。一人で「自分の部屋」にいるわけだから。

その場にいるのに、その場にいない。

ウォークマンの登場からかなぁ、こーゆーの。

電車に乗ってても、「自分だけの世界」。

それでだんだん、電車の中でものを食べるのとか、化粧をするのとか、平気になってきて。

プライベートとパブリックの境界線ってものがどんどんなし崩しになっている。

学校にケータイを持ってっちゃいけないっていうの、そっちの意味でダメだと私は思うのよ。

学校はパブリックな場所なんだから、自分だけの「プライベート」を持ち込むな、ってこと。

たとえ休み時間でも、「場」とか「時間」ってものを周りと共有しないのは間違ってるだろうと。

『橋本治と内田樹』の中に、「学校の先生と生徒の関係が一対一の直の関係になってる」って話が出てきたんだけど、ケータイの出現でますますその傾向に拍車がかかったんだろうな、と思う。

みんな、いつでもどこでも「プライベート」なのが当たり前になって、「先生と生徒」なんていう「パブリック」な関係がもうわからないんだろうな。

人間関係が全部もう、「プライベート」と「プライベート」のぶつかり合いになってるのかもしれない。

「親しき仲にも礼儀あり」っていう言葉も死語かな。

人と接する時って、やっぱり「自分むき出しの裸」じゃなくって、TPOに合わせた「衣装を着る」ことが必要なんだと思う。どんなに仲が良くたって、そうそう他人の裸なんて見たいもんじゃないし(笑)。

「パブリックな衣装を着る」っていうのは、相手との「うまい距離感を保つ」ってことでもあって、そーゆーことがわからなくなったから、子どもも大人も人間関係がぐちゃぐちゃになってるんじゃないかしらん。

なんか、この間中学生の女の子を持つ友達から話を聞いて、「うへぇ」って思ったもん。女子は友達関係のトラブルがほんと多いらしくて、でも聞いてると「なんでそうなるの?」なんだよねぇ。「割り切る」とか「距離を保つ」とか、あっていいのに、って。

しかも女の子だけじゃなく、男の子も似たようなもんだという話を聞かされて。

「それ、まさしく“女の腐ったような奴”やん!」と思わず言ってしまった。

Gacktさん聞いて気合い入れ直せよっ、みたいな(笑)。

世の中全部おかしくなってるのは、みんな「パブリックの概念がなくなった」ことに起因してるような気がするなぁ。