『Requiem et ReminiscenceⅡ』予習コンテンツ「Story」の第2週が公開されています。

最初の「人の記憶」という部分。

「ああ、やっぱりGacktさん好きだぁ」と思ってしまった。

この文章をGacktさん本人が書いてらっしゃるのか、別の人が書いているのか「文責」が明示されていないけど、でも別の人が書いているとしても、コンセプトがGacktさんの手になるものであるのは間違いのないことで。

『「記憶」と「意志」こそが人の存在である』とか、『無限の時の中で記憶も思い出も生き続ける」』とか、「ああ、やっぱりおんなじこと考えてる」と思って嬉しくなった。

私がGacktさんを好きになったきっかけは映画『MOON CHILD』で、あれを見た時、もったいなくも私、「この人、私と同じこと考えてる!」って思ったんだ。

それで慌ててCDを聞いたら、そこで歌われている物語もやっぱり「同じこと考えてる」だった。

その「同じこと」っていうのは、端的に言えば『Dears』の歌詞そのもので、この予習コンテンツの「人の記憶」と題された部分、「奴」と「マリア」の間で交わされるやりとり。

人はみんな死ぬ。

私も、私の大切な人も、みんないなくなる。

自分が「無」になってしまうのが、子どもの頃からずっと怖くてたまらない私にとって、「それでも“想い”は残る」と考えることが、唯一残された一筋の希望、“光”のようなものだった。

いつか、この世界そのものが「無」に帰する時が来ても、それでも、私や他の命が「生きていた」という事実は消えないということ。

もしも、神のような存在がこれまでに存在した「時間」を一望に見られるとしたら、人が生きて死んでいったその一瞬は――砂粒よりも小さいであろうその一瞬一瞬は、それでも、その命の輝きを“永遠に”きらめかせているのだろうと。

信じているというより、そうだったらいい、とずっと思ってる。

そうだったらいいと思うから、「そういうことにしとこう」って。

「永遠」というのは、「なにかがずっと続く」ということではなくて――、私達が生きていたことが、たとえば神様にずっと覚えていてもらえるということではなくて、「たとえ全部無になっても、この一瞬の価値は変わらない」っていうことなのだろうと、いつの頃からか私は考えるようになっている。

生きていくうえで実感する「かけがいのない一瞬」というのは、その「かけがえのなさ」ゆえに「永遠」なのだろうなと。

そして、そういう「永遠の一瞬」をたくさん実感するために、この限られた人生を大切に生きなくちゃ、と背中を押してくれるのも、Gacktさんの紡いでくれる物語。

♪この世界が朽ち果てても
 きっとまた出逢えるよ
 いつかまためぐり逢える日まで♪ (『memories』)

どんな神様の言葉より信じられるんだ。

きっと、この命は無駄じゃないって。