「橋本治さんとGacktさんの共通点」第2弾です(笑)。

『橋本治と内田樹』の中に、「橋本さんはパブリックな人」っていうキーワードが出てくるんですよね。もう、いつまで『橋本治と内田樹』からの話やねん、って感じですけど。

それだけ「橋本治研究家」にとっては有用な資料なんだとお思いください。内田先生、ありがとう(はあと)。

それで、先日BIGLOBEのGacktさんのインタビューを読んで、「ああ、Gacktさんもほんっと、パブリックな人だなぁ」と思ったの。

「日本人としての責任」とか「大人が夢を与えないと、いい子どもたちが育たない」とかいう発言。

こーゆーことをしっかり発信する「大人」って、今少ないよねぇ。

インタビューの最後に、「今まで応援してくれたファンが、“自分が選んだ人は間違いじゃなかった”と思ってもらえるように」とかいう言葉もあるんだけど、このインタビューを読んでほんとに改めて、「ああ、私は間違ってなかった!」と思ったもの。

なんというか、社会に対する向き合い方というのかな。

責任感。

使命感。

「自分は色々なものを背負っている」という意識。

外国に行くと、「日本人」だっていうことを強く意識させられるでしょ。別に、自分一人が「日本」を構成してるわけでも、「もっともステレオタイプな日本人」というわけでもなく、「日本人の代表みたいな扱いされるのはメーワクだ」と思うんだけど、でも外国の人からしたらやっぱり私は「日本人」で、私が何か恥ずかしい振る舞いをしたら、それはすなわち「日本人ってマナーがなってない」と「日本人全体」の評価を下げることにもなる。

普段、そーゆーことって意識しないけど、「日本人」だけでなく、どこの会社の人間かとか、どこの学校の学生かとか、あるいはどこの家の人間か、とか。

自分が何か恥ずかしいことをしたら、それは自分が属するものの名をも汚すことになるっていう感覚。

そーゆー「社会的なしがらみ」が「個」を抑圧するっていうので、もうみんな「家」だの「学校」だの「会社」だのに「帰属意識」なんか持ってないかもしれないんだけど――そしてそれは、「いいこと」ももたらしたんだろうけれど。

「男として恥ずかしい」とか言うと、「“らしさ”の強要だ!」みたいにも言われてしまうし。

でもね。

そーゆー、「生身の個人」としてだけでない、何かこう、「社会的役割」みたいなものについて、「自分は○○なんだから、こんなことをしたら恥ずかしい」みたいな気持ちって、持っていてしかるべきだと思うんだ。

「自分は首相なんだから、こんな字も読めないんじゃ恥ずかしい」とか(笑)。

「一国の総理大臣なんだから、“辞~めた”で政権を投げ出したら恥ずかしい」とか(爆)。

それって、自分の「仕事」とか「社会的役割」に対する「誇り」あってのことだと思うし。

食品偽装とか、警察官が飲酒運転するとか、そーゆーのも「社会に対する責任感」の欠如なんだろうし、なんで「責任感」がなくなるかっていったら、結局「自分の仕事に対する誇り」がないからなんだろう。

「自分自身に対する誇り」とか。

橋本さんもGacktさんも「表現者」だけど、ただ自分を表現したいっていうんじゃなくて、「自己実現」なんていう狭いもんじゃなくて、「それを表現することで社会的責務を果たす」っていう意識を持ってらっしゃると思う。

「それが仕事になる」っていうのは、本来そーゆーことだし。

社会が「あなたのしていることには価値がある」と認めてくれなかったら、それは「仕事」じゃなくてただの「趣味」だからね。

私の書いてるこの文章みたいに(笑)。

いやしくもプロなら、「自分だけ」じゃないのは当たり前、ときっとお二人はおっしゃるでしょう。

消えろ、アマチュア!と(爆)。

だってね。

橋本さんは『窯変源氏物語』で夕霧の漢詩まで創作しちゃうんだよ。紫式部もそんなこと面倒だから「夕霧は漢詩を書きました」で済ませてるのに、橋本さんは「その漢詩がどーゆーものかを提示しなかったら本物じゃないな」で漢詩を書いてしまう。

そのために、勉強する。

「それをしなかったら本物じゃない」。そのために「努力する」「勉強する」なんていうのは、橋本さんにとっては当たり前のことなんだ。

Gacktさんもね、そーゆーとこ、ほんとおんなじだしね。

むしろ「なんでみんな努力しないんだ?」って言うでしょう。

「プロなら当たり前。本物を目指すなら努力なんか当たり前」と。

ね。

消えろ、アマチュア!!!

「プロ」であるということは、「誇り」に裏打ちされた「責任感」があるということで、そーゆーものは「自分一人」では生まれないんでしょう。

「社会との関わり」という意識がないと。