先日、途中まで読んで感想のようなものをUPした『日出処の天子』。読了いたしました。(先日の記事はこちら

ラストシーン、覚えていたけど、でもこうして改めて目の前に絵が提示されると……本当に、本当に、王子の孤独が胸に沁みる。

摂政という地位につき、「わたしはこの国を自分の思い通りに動かしてみせる」と言いながら、その理由は「何かしていないと生きる気がしないから」というだけのこと。

「なんでもできる」「私にはできぬことなどない」と言いながら、けれどそのことごとくが無駄であることを、王子は知っている。

なんでもできる力があっても、本当に欲しいもの=「毛人(えみし)の心」「母の愛」は手に入らない。

♪なんでもできると人は言うけれど 魔女っ子メグは 一人ぼっち♪

何の力もない人間が欲しいものを手に入れられないよりも、力がありながら決して欲しいものを手に入れられない方が、その絶望は深い。

何のための力か。

何のために生きるのか。

「ちょうど仏がなに者をも救わぬとわかっていながら なおかつ仏の姿をかいま見るように」

王子の「力」、「生き様」は特殊に見えて、でもその実、誰でもこのようなものかもしれない。

何を成し遂げても、何を成し遂げなくても、結局誰も死を免れず、最終的にはすべての事柄が「無」に帰す。

生きて成したことすべて、ことごとく、無駄であるということ……。

それでも、人は生きていく。

生きているから、何かを成す。

何かしていなければ、生きている気がしないから……。


王子は毛人の心を手に入れられない。毛人は王子とともに歩くことを拒絶して、でも、王子自身もまた、彼の心を欲しがる女達を拒絶している。

毛人の妹刀自古。推古天皇の娘大姫。どちらも形ばかりは「王子の妃」で、どちらも王子を愛してしまっている。

その力の強さゆえに王子の孤独は深いけれど、でも二人の女もまた報われぬ思いを抱いて、孤独な日々をそれでも生きていく。

うん。たぶん、それは責め苦でもあり、同時に「生きる支え」でもあるのだろう。

報われなくとも、人を恋うるということは。

何かを、求めるということは。

「いや、かいま見るのではなく見ざるをえないのだ。

 見ざるをえないというその気持ち自体がもはや“救い”ということなのか?

 それが仏を信じるという事なのか?」