昨日の午後3時半頃、届いたばかりのCDを聞いていると、何やら大音量でメッセージを流しながら行く迷惑な車があった。

衆院解散も当分なさそうだし、最近やたらに来ていた廃品回収車でもなさそうで、「何だってんだ、一体」と思ってよく聞いてみると「キリスト様がなんたらかんたら」「地獄がどーのこーの」と言っている。

キリスト教の街宣車。

聖書を持って戸別訪問というのはたまに来るけど、街宣車が来たのは初めてのような気がする。驚いてしまった。

やっと赤ちゃんが寝てくれた、という家もあるかもしれないのに、大音量で通りを行きやがって、おまえらこそ地獄に堕ちるぞ。

一口にキリスト教と言っても色々あるんだろうけれども、「街宣車」で触れ回るってゆーのはなんだかな。

でもそのように「布教」して「人に押しつける」ことこそが「宗教」というものか。

各人の「心の問題」ではなくて、共同体を成り立たせる共有幻想が「宗教」というものだろう。「まつりごと」の語源は「神を祀る」ことだし。

土地の神、共同体の神を祀り、その共同体の平穏・繁栄を願うことが「政治」の起源なんだろう。みんながそれぞれバラバラなものを崇めていたら、共同体が成り立たない。

今は、それは「神様」ではなくて「公共の福祉」という概念ではないかと思うのだけど。


おばあちゃんが亡くなって、この間四十九日の法要が終わって、その間には7日ごとに法要があった。

あの世で閻魔大王の裁きを受けるのは五七日(ごなのか)らしい。そして四十九日に六道中のどの世界に生まれ変わるか決まるんだそうだ。

法要のたびに、お坊さんが短い法話をしてくださる。

それ自体はありがたいし、心に沁みる部分も多々あったのだけど、しかし基本的に私は無神論者なので、そんなに阿弥陀様とか浄土とか、信じてるわけでもないんだよなぁ。

信じてない人間が「南無阿弥陀仏」って唱えてていいのかな、と思いながら法要の席に連なっていた。

死者はどこにいるのかと言ったら、生きている者の胸の内にいるとしか思えない。

昔、「魔法使いチャッピー」か何かで、「成仏できないおばあさん」の話が出てきた。チャッピーの世界観が仏教だったかどうかはわからないので、「成仏」というか、「天国に行けない」という話だったのかもしれないけど、そのおばあさんは生前人に好かれていなかったので、死んでも誰にも泣いてもらえなかった。

誰にも泣いてもらえないと、その魂は成仏できずにこの世とあの世の境をうろうろしていなければならない、とかいう話で(もしかしたら「地獄に落ちる」だったかもしれない)、チャッピーがおばあさんのために泣いてくれる人を探すとか、なんかそーゆー話だった(たぶん)。

閻魔大王の裁きよりも、残された人のそのような裁きの方がよほど怖い。 


私は別に宗教的なお葬式はしてもらわなくてもいいし、戒名とかもいらないんだけど、そーゆーことを言うとかえって家族が迷惑するのかなぁ。どーなんだろ。

ただ何かの拍子に思い出して、「けったいなヤツだったけど、嫌いじゃなかったな」と思ってもらえればいい。

……ま、それは私のこれまでとこれからの生き方次第なんだけど。