『逆立ち日本論』のユダヤ人の話が面白かったので、『私家版・ユダヤ文化論』を図書館で借りてみた。

「ユダヤ論」なんて言われると敷居が高いけど、新書なので読みやすいです。内田センセの文章は橋本治さんの文章と同じで、リズムがよくて理路のうねりが楽しいので、さくさくと読み進んでしまう。そして読んでいる最中はものすごく「わかった」気になるんだけど、読み終わったあとで要約しようと思うと、「あれ?」とわからなくなる。

内田センセの文章も橋本さんの文章も、読みながら途中色々考えるのがすごく面白くて、きっと読み終わった時にすごい「思考の蓄積」がなされているのと思うのだけど、「感想」としてまとめるのは大変難しいのだよな。

「ユダヤ人というのは国民でもなく、人種でもなく、ユダヤ教徒のことでもない」

というのは、この間『逆立ち日本論』の感想のとこでも書いた。

この本ではそのへんのことがもうちょっと詳しく、もうちょっと専門的に書かれていて、本当に興味深かった。

ユダヤ人のあり方、「ユダヤ的知性こそが“知性”と呼ばれるものである」というような、ユダヤ人が大昔に「引き受けてしまったもの」の大きさ。

「不思議」という一言で片付けてはいけないんだろうけど、やっぱり「なぜ彼らだけがそのようなあり方をしてしまったのか」というのは不思議だよなぁ。

「(ユダヤ人は)時間のとらえ方が非ユダヤ人と逆になっている」という話が最後に出てくる。

フロイトの「原父殺害」のシナリオによれば、人々は誰かを殺し、その凶行の事実が有責感を生み出し、それが隣人愛を命じる戒律と、「立法者としての神」の観念を生み出したことになる。 (P219)

人間はまず何かをして、それについて有責なのではない。人間はあらゆる行動に先んじて、すでに有責なのである。レヴィナスはそう教える。 (P220)

ここだけ取り出したのではちょっとわかりにくいけど、「何かをした→有罪・無罪」という普通の時間順序でなくて、ユダヤ教の考え方には「有罪→かつて何かをした」という逆の時間意識がある(らしい)。

人間にイニシャティブを認めないとそうなる、というその後の内田センセの論は、理解できる気がする(が、本当に理解できているのかどうかは謎)。

神様に「後で裁かれるから、怖いから、悪いことはしない」というのではなくて、

私自身が私自身の善性の最終的な保証人でなければならないからである。神への恐れ、神の下すであろう厳正な裁きの予感が私を善へと導くのではなく、善への志向は私の内部に根拠を有するものでなければならない。 (P223)

なるほど、と思うけど、その場合なぜ「神」という概念は必要なんだろう……。人間は「神」よりも遅れて世界にやってきた、という考えがないと、人間の内部に善の根拠は生まれないものなのだろうか。

まぁ、「ユダヤ人」というか「ユダヤ教徒」の人達が、それ以外のヨーロッパの人達とは違う思考回路を持って、それゆえに「レッテル」を貼られてきたことは、なんとなくわかった。

前の『逆立ち日本人論』のところでも書いたように、ユダヤ人のコミュニティはインドや中国では解体してしまうそうで、「ユダヤ人の思考の特殊性」とそれによる「周囲からのレッテル貼り」は、アジアではそんなにも目立たない。

目立たないんだけど、日本にはかつて「日猶同祖論」というものがあったそうだ。

「日本人とユダヤ人は祖先を同じくするのだ」という論が、はやった時期があったのだとか。

はぁ?と思ってしまうけど、内田センセが1章を割いて「そのような大ボラ(物語)をなぜ日本人は必要としたのか」ということを説明してくれていて、なるほど人間っていうのは「見たいものしか見ない」「見たいものを勝手に見る」生きものなんだなぁ、と思う。

「日猶同祖論」なんてまったく聞いたこともなかったので、この1章は大変面白かった。

「自己は他者が規定する」というふうに前の『逆立ち日本論』のところで書いたけど、状況とか他者との関わりの中で、人間は様々に都合良く世界を解釈して、自己をも他者をも規定する。

世界は自‐他スパイラル。

……「反ユダヤ主義者がいるからユダヤ人も存在する」という単純なことではないのだろうけれど、それでも「自―他」の関わりがあればこそ、その「あり方」が確固としてくるという考えは間違ってはいないんじゃないかな。


ところでこの本は神戸女学院大学での講義ノートがもとになっているらしいのだけど、「あとがき」のところに、「ユダヤ人が世界を支配しているとはこの授業を聞くまで知りませんでした」という感想を書いた学生が散見された、と述べられている。

「ユダヤ人による世界支配」って、私は聞いたことがあったけど、一体何で聞いたのかはわからない。

何で――どこで聞いたんだろ?

アメリカにおける「ユダヤロビー」とかはテレビや新聞で目にするかな。

この本の最初のとこにも書いてあった。「日本人は外国にいる日本人・日系人のことなんか気にしないが、ユダヤ人はせっせと外国の同胞のために活動する」というようなこと。

そのような国境を越えた連帯、活動を目にすると、「世界支配」というのもあながち嘘ではないのかという気もしてくるけど、そのような「陰謀史観」の歴史にも1章が割かれていて、「へぇ」と思います。


なんだか、まったくまとまりのない感想になってしまった。

次は同じく内田センセの『日本辺境論』を読みます♪ だいぶ前に届いたのに、『眠狂四郎』が終わらないから『ユダヤ』が読めず、『ユダヤ』が終わらないから『辺境論』が読めなかったのよ~。

内田センセや橋本さんの文章ばかり読んでるところにぽんと柴田錬三郎なんか入れると、文体に慣れるのが大変でなかなかページが進まないのよね……。