続き(笑)。(その1はこちら

【第3章 シャーマン、霊能者、カウンセラー -民間宗教者のお仕事】

この章の最初が「供養とは故人のふるまいを繰り返すこと」で、ホントになんでこううまいこと一周忌法要の日に借りるかなと(笑)。貸し出し中だったのを予約してあったので、いつ届くかは神のみぞ知る、だったんですよ。別に私がわざと「わかって」借りたわけじゃない。そもそも「霊性論」の中身がどんなものか、はっきりわかっていたわけではないし。

縁というのは不思議なものですね。

ちゃんと必要な時に、必要なものが現れるんです。

で。

もともと家というのは、生きている人間のためだけにあるものではなかった。半分は死んだ人のために家を営んできた。(中略)現代社会はその死者との対話がどんどん欠落して、生きている人間にとって都合が良く合理的であれば良いという方向にどんどん行ってしまい、その結果、コミュニケーション能力自体が枯れていくことになった。 (P64)

学校でディベートの授業を増やしても、コミュニケーション能力は涵養されないでしょう、きっと。

一つの家族が、何代にもわたって同じ家に住むということは、けっこう意味が大きいと思うんです。同じ空間に親がいて子どもがいて、親が死んだ後は、子どもがその家に住む。 (P64)

親が生きていたのと同じ場所で、親がしていたのと同じようなライフサイクルを繰り返すことって、それ自体が一つの宗教行為になっているんじゃないかと思います。 (P66)

今どきそんな家がどれだけあるんだろうと思ったりはしますが。

今私が住んでいる土地は夫の祖父母が買ったもので、義父は十代の時からこの場所に住んでるわけです。建物は変えてしまったけど、場所は変わらない。うちの夫はこの場所で生まれて育って、途中数年間ひとり暮らしをしたこともあったけど、また今ここで生活をしている。

育った土地を離れてしまった私にしてみればもう羨ましくてたまらない話です。

私の実家は借家で、「先祖からの家」どころか爺ちゃん婆ちゃんと一緒に住んでなかったし(爺ちゃん婆ちゃんもアパートに住んでた)、今じゃまったく違う場所に住んでる。

ほんとに、私と、うちの息子ちゃんとでは「霊的」な育ち方が全然違うだろうと思います。

ひい婆ちゃんの代からの土地に住み、そのひい婆ちゃんを家で看取り、大きな仏壇と神棚、盆と正月には親戚が集まることを当然として育つ。

ねぇ。

「民間宗教者」ということで、いわゆる「拝み屋さん」の話も興味深い。

具体的に指示する、っていうところ。

悩んでいる人に「あんたの性格が悪い」と言っても始まらない。一見関係なさそうな、でも具体的で実行しやすいアドバイスをして、事態を好転させる。

名医と拝み屋さんのやり方はそっくりだと。

逆に言えば、民間宗教者というのは、その場にいるその相手、個人と個人との関係性の中で機能する技法だということです。ですから、いわゆるマスを相手にすると、ある意味、詐欺に近くなると思うんですね。 (P79)

【第4章 スピリチュアルブームの正体】

前の記事で触れた「都市ほど占いがはやる」という話から、明治期以降の日本の「新宗教・ポスト新宗教」の流れ、図表。

なにしろ現代のスピリチュアリズムは個人的な、ごく私的な体験を重視する傾向が強いんです。その手のものに足をすくわれないためには、伝統的主流宗教への理解や学習が必要だろうと思います。 (P85)

日本では学校で宗教について教える、ということが一種のタブーのようになっているものね。

高校の「倫理・社会」という授業はまだあるのかしら? 私の高校の倫社の先生は「家がお寺」で、「ひとかどの者になろう、ひとかどの者になろう、と思っているうちに歳をとってしまうんです。人生そんなもんですねー」と「諸行無常」を説いてくれるありがたい方でしたが。

「宗教」に対する「免疫」をつけておく、というのは重要なことだろうと思います。

でないと「足をすくわれる」。

宗教の持つ一種の魅力というか魔力に引きずり回されないためには、やはり自分の在り様や立ち位置、また生きる方向性についてきちんと向き合う作業が必要だと思います。 (P85)

こういう作業、「学校」でやるものでもないんでしょうけど…じゃあどこでやるのか。「家」や「地域」に土俗の宗教性が強く残っていた時分には、それを「縛り」や「指針」にして、「宗教」に対する免疫ができたり、漠然とでも「死生観」や「共同体観」のようなものが醸成されていたのかな。

「それはイヤだ」と反発することも、「自分の立ち位置」を確保する一助になるし。

「ハレの常態化」「ポスト新宗教とナショナリズム」というテーマも非常に面白い。

自分が直面している現実を、グローバリズムの問題であれ、ナショナリズムの物語であれ、いずれにせよ「シンプルな物語」に落とし込んで理解しようとするから。 (P99)

世界はそんなにシンプルで単純ではなく、何事にも良い面・悪い面の両方がある。

純粋な善意のなかにこそ邪悪が潜むというところに気づかずに、つまみ食いでできた体系にハマると、純粋なだけに極限まで突き進む危険性があると思うんです。 (P112)

いいですよね、「純粋な善意のなかにこそ邪悪が潜む」って。こういうことを子どもや若い人にちゃんと教えていかないと(笑)。

それが「免疫をつける」っていうことじゃないかしらん。

【第5章 日本の宗教性はメタ宗教にあり】

スピリチュアリズムの系譜、シャーロック・ホームズや村上春樹の話。

うーん、どこを引用すればいいのか難しい章だ。手にとって読んで下さるのが一番早いです(笑)。

【第6章 第三期・宗教ブーム 一九七五年起源説】

一番最近の宗教・スピリチュアルブームの流れの点検の章。

1975年には何があったか? オイルショック、ベトナム戦争でのアメリカの敗戦。

ユリ・ゲラーとかオカルティズムがはやったのも70年代半ばだそうです。近代合理主義の揺り戻しが来た時代。

ちょうど、私が幼少期を過ごしていた頃ですけどね。ノストラダムスとかはやった頃だ。

この章では「カルト宗教かどうかを見分けるいくつかのチェック・ポイント」も書かれています。やっぱり一家に一冊、必携ですね(笑)。

そして宗教の持つ三つの特徴。

「この世界の外部を設定する」 「儀礼の体系を有する」 「象徴(シンボル)の機能に宗教特有のものがある」 (P159~160)

新宗教までだと、信仰とご利益の関係がシンプルです。(中略)とりあえず、結果がすぐわかる。ビジネスと同じです。ところが「ポスト新宗教」になってくると、努力と成果の相関が見えなくなる。 (P171)

「現代のスピリチュアリズムは個人的な体験を重視する」という話を、既に引用しましたけど、「個人的」に「救われた」「幸せになった」なんてことは、周りの人間には検証のしようがない。

オウム真理教にしても、あの教団を信仰することで「救われた」信者がいたんだろうし、だからこそ名前を変えても存続しているんだろうし、「私はこれで幸せになった」と言われたら外部が手を出しにくいのが「宗教」の、特に「最近の宗教」の、厄介なところなんですよね。

信仰の人間的な意味、社会的な意味について、同じ信者以外が吟味する可能性が失われてしまっている。 (P171)

閉じた教団は要注意ですよ、と。

【第7章 靖國問題で考える「政治と宗教」】

丸ごと1章靖國問題です。ここも下手につまみ食いで引用するより、きちっと全部読んでもらった方が誤解もなくていいと思います。なので「靖國」に限らず普遍的な話だろうと思う個所を少しだけ紹介。

それは、生きている人間はどのような鎮魂儀礼が正しいのかを言う権利がないからです。 (P184)

鎮魂儀礼、慰霊の儀礼の本質的な豊かさは、行った儀礼が正しいものか正しくないものかの最終的な決定を生者たちは下すことができないという無能力のうちに存していると僕は思います。 (P185)

この間読んだ『他者と死者』の中にも、同じようなことが書いてあったと思います。(上の引用の「僕」は内田センセです)

「正しいか正しくないかわからない」なんて、すごく居心地の悪いことだけれども、その「居心地の悪さ」を引き受けることが「真摯」であり、「敬意」であり、「畏れる」ということなのでしょう。

【第8章 宗教の本質は儀礼にあり】

儀礼とは、「定型化された非日常的な行動様式・象徴行為」のことです。ここでは儀礼を「社会的コミュニケーションコード」と「象徴的コード」の二つに分けて考えてみることにします。 (P210)

挨拶や、「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」といういわゆる「決まり切ったやりとり」も「社会的コード」の範疇に入るだろうと。

言葉の意味内容よりも、そうやって言葉を交わすこと自体が大事、というようなやりとり。

象徴を使った“祈り”“礼拝”やその他の行為様式を「象徴的行為」と呼ぶことにしましょう。さらに儀礼の象徴的コードを「強化儀礼」「通過儀礼」の二つに分けて考えていきたいと思います。 (P212)

共食行為は典型的な強化儀礼です。 (P213)

本文中にも言及されてますが、いわゆる日本の職場の「飲みニケーション」というのは絆を強めるための重要な「儀礼」で、「一種の宗教行為」のようなものだったのでしょう。

法事が「宴会」であるのも然り。ただお坊さんにお経を上げてもらうだけではね(^^;) その後でみんなで飲み食いしないことには。

今の若い人たちが個(孤)食に偏るのは、他人と空間を共有することを忌避する傾向のせいだと思う。 (P216)

鍋の話が出てきます。

鍋は直箸つっこむのが当たり前だったのに、最近は箸をひっくり返して食材を取る人がでてきたと。「他人が箸を入れたものは食べたくないとは。そんな奴は、はなから鍋なんか食うなよ」と吼える内田センセ(笑)。

いや、でも、確かに。

嫁入りして驚いたことの一つに、「料理にいちいち取り箸がついてる」っていうのがあったの。

まぁ、実家は家族4人ということもあり、それぞれの料理が既に「個人」に盛りつけられていて、お漬け物や佃煮といった一部の料理しか「取る必要」がない、っていうのもあったんだけど。

婚家は家族の人数が多いから、料理毎に大皿に盛りつけてあるものを各自で取る、というスタイル。必然的にすべてに取り箸がついている。

この婚家の風習に慣れてしまうと、実家に戻った時に「箸をひっくり返して」お漬け物を取ってしまうんですよ!

いや、別にエクスクラメーションマーク付けるほどのことやないけど(笑)。

「他人の唾がヤだ」っていうよりも、その場でなくならない、「どう考えてもまだ明日も食べ続けるよね、それ」っていう料理に直箸入れると、衛生的に問題がある気がして。

傷みやすくなるんではないかと。

「鍋」の場合、常に「火を入れてる」から「消毒される」気がするじゃないですか。「一皿ごとに取り箸」の婚家でも、鍋は直箸ですからね。

献杯や煙草の回しのみと一緒で、人々の唾液が混じり合うというところに共食の人類学的な意味がある。食事は栄養摂取であると同時に、共同体の儀礼なんです。 (P217)

なるほどなぁ。

【第9章 宗教とタブー】

引き続き食事の話が出てきます。「「いただきます」は宗教行為か?」「生き物から食べ物への移行」。

そしてお葬式の時に「清めの塩」が出てこないことに吼える内田センセ。「え?」と思ってたら案の定、釈さんが「清めの塩をやめる運動をしてるのは我が浄土真宗で……」。

わははは。

「死はケガレではない」という考え方。私も数年前、叔父の葬儀に行って知った。(→『死は不浄ではない』

だから内田センセの言うことに「それは違うよ」と反論してしかるべきなんだけど。その「熱を帯びた語り口」につい丸め込まれそうになる(笑)。

なんてゆーか、「ええ人やなぁ」って思ってしまうのよね。

この間の『他者と死者』の中に、「人は『まず』信頼し、『ついで』聞くのである」って言葉が出てきたんだけど、「語られている意味内容」が正しいから、「好き」になったり「信用したり」するわけじゃない。

「信用できる」と思うから、「耳を傾ける」。

『他者と死者』なんて、書いてあることが「正しい」「正しくない」どころか「理解できない」部分も多い中、それでも「面白い」と思えるし、内田センセの「熱」が感じられて、「好きだなぁ」と思える。

「儀礼」というのも「何の意味があるかわからない」と、だんだん軽視されていっているけど、「儀礼」の持つ「身体性」、「思想や言動を凌駕する力」というものにもう一度目を向けてみるべきではないかと……。
 

何やら長いばっかりでとりとめのない紹介になってしまいました。

『現代霊性論』、本当に面白かったです。内田センセ、釈さん、ありがとうございました♪