一つ前の記事で取り込んだアナログ音源はTVシリーズ『あぶない刑事』のサントラと、『もっともあぶない刑事』のサントラ。
『もっとも…』の方のA面の音が割れてしまったので、やむなくもう一度取り込んだら、今度はB面とのレベル差が顕著になってしまった…。CD焼くときにはちゃんと全体のボリューム設定してくれるんだったっけ、Windows Media Player。さすがにもう1回B面も取り込み直す気力はないぞ。
大好きな大好きな、何度も何度も、それこそすり切れるほど聞いたのではないかと思える『あぶ刑事』のサントラテープ。
録音レベルに多少の不満はあるものの、めでたくデジタル化できて、もうテープはお役ご免。
のはずなんだけど。
なんだかとても、捨てがたい。
ちゃんと『あぶ刑事』の、タカさんとユージのカセットレーベル。もちろんそれは、捨てる気はなかったけど。
でも、テープ本体も、「ゴミ」にしてしまうのは何か、気が咎める。
あんなに何度も、繰り返し聞いたテープなのに。
それだけの思い出、それだけの時間の詰まったものなのに。
CDに焼き直したものは、確かに同じ「曲」で、「音」だけならそれでかまわないのだろうけど。
新しく作ったばかりのCDには、まだ何も思い出がない。記憶がない。一緒に過ごした時間がない。
なんだかとても馬鹿げたことを言っているみたいだけど。
そんなこと言ってたら本当に、家の中ガラクタだらけで、ちっとも片付きゃしないんだけど。
でもね。
そーゆー愛着がなくなったら、人生すんごくつまんないと思うんだよ。
何だって、いつかは壊れたり、ボロボロになったり、じゃなくても「置くとこがない」「新しい物が欲しい」とかで、捨て去らなきゃならない。
捨てる気なんかなくても、いつかはすべてが無に帰す。
いつかは、消える。
いつかは、なくなる。
わかっているから。
だからこそ。
置いておける間は、手元に置いておきたいと思う。
その「何か」と過ごした時間、二度とは戻らない時間を、その「何か」に投影して。
4月6日付の内田センセのblog「死ぬ言葉」に、こんなことが書いてあった。
朝起きるたびにカウントダウンの針が進んでゆく。
今年経験することはすべて「大学最後の経験」である。
そうやって見まわすと、目に映るすべてのものが儚く、移ろいやすく、いとおしいものに思えてくる。
本邦の古人はこの感懐を好んだようである。
「美的生活」というのは別に書画骨董を愛玩したり、歌仙を巻いたり、文人墨客と賺した話をすることではない。
そうではなくて、「目の前にあるこれは、いずれ消え去って、あとをとどめない」という人事万象の「無常」を、その「先取された死」を「込み」で、ご飯を食べたり、働いたり、遊んだり、つくったり、こわしたり、愛したり、憎んだり、欲望したり、諦めたりすることではないかと私は思う。
ああ、内田センセぇ(うるうる)。
いつも感じていたこと、うまく言葉にできないままだったこと、内田センセがずばっと言ってくれた。
「死という消失点」。
なぜか幼稚園ぐらいの時に、意識してしまった。
自分が死ぬということ。
すべてがいつか、消えてしまうということ。
怖くて哀しくて、でも、だからこそ。
愛おしいと思える。
ああ、本当に。
本当にねぇ……(うるうる)。
哲学
2 Comments
ふふふ。お気持ちものすごくわかります。
返信削除でも実は私、行動はひゅうがさんとまったく逆だったりする(笑)
いつかは、消える。
いつかは、なくなる。
わかっているから。
だからこそ。
思い出だけあれば「物」は要らない。という派なんです。
気持ちの出発点は同じでも、人それぞれだな~と妙に感心してしまいました(^^)
��an-an様
返信削除なるほどぉ。
出発点は同じでもベクトルが逆さまなのねぇ。
「物は要らない」ときっぱりすっきりしてみたい…(笑)。
でもあれかなー、自分が死ねば自分の記憶している
「思い出」も消えちゃうから、別な「物」に残ってて
ほしいという気があるのかも。
とにかく自分が消えるのがイヤでしょうがない人だから(爆)。
だから執着する「物」も「自分の好きな物」で、
「人との思い出」とかじゃないところが
人間としてどーなの、という気がいたします[E:sweat01]
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