哲学
『現代霊性論』/内田樹、釈徹宗【その1:絆としての宗教】
あっという間に読み終わってしまいました。
借りたその日にもう半分近く読んじゃって、それからもったいないからちょっとずつにしよう、みたいな(笑)。
読み終わっちゃって寂しいです。ぐっすん。内田センセ、釈さん、続き出してくださーい。もっと読みたいですぅ。
神戸女学院大学院でのお二人のかけあい漫才ならぬ「かけあい講義」をもとにした本なのですが、こんな面白くて楽しい授業、羨ましすぎる!
『現代霊性論』というタイトルだけ見るとなんか難しそうなんですけどね。
実際テーマ自体はとても深い、一筋縄ではいかないものだと思うんだけど、そこはそれ、内田センセのことですから。
大変わかりやすくとっつきやすく、さくさくと読める。
時々こぼれる釈さんの大阪弁もすごくいいですし。
釈さんって、大阪府池田市のお寺のご住職なんですよね。
池田市ですよ! 私のふるさとじゃございませんかっ!!!
私が住んでいたところとはだいぶ離れているし、私が池田にいる頃はきっとまだご住職ではなかっただろうと思いますが。
しかし親近感を覚えます♪
これもご縁だと。
で。
「現代」の「霊性」の「論」です。
特定の宗教・宗派に対する信仰ではなく、その源泉となるような、人間なら誰でも持っているような「宗教心」。それを「霊性」と呼ぶそうです。
なんとWHO(世界保健機関)が1998年に以下のようなことを発表したそうで。
健康とは、完全な肉体的、精神的、霊的及び社会的福祉の活力ある状態であり、単に疾病または病弱の存在しないことではない。 (P15)
「霊的に活力ある状態」って、どんな状態なのかピンと来ませんけれど。
英語ではspiritual。
「スピリチュアル」とカタカナで書くと、江原啓之さんとか思い浮かべてしまいますね。
私はあーゆーの苦手なんですが。どーしても「怪しい」と思ってしまう。
スピリチュアル・ブームとか言われると「けっ!」って(笑)。
「都市ほど占いがはやる」という話が出てきて、昨今の「スピリチュアル・ブーム」も既存の宗教、既存の共同体の力が弱くなったためだろうと。
何の縛りもないと、人間はやっぱり途方に暮れてしまう生きものらしい。何か、「指し示してくれるもの」を欲してしまうのでしょう。
私は「占い」、見ちゃうと引きずられるから、極力見ないようにしていますが。
占いやスピリチュアルがブームになる日本、実はとっても「宗教性」の強い民族ではないかと思わされます。何も「キリスト教」や「イスラム教」という「一神教」だけが「宗教」ではないし、いわゆる「新興宗教」、日本にはけっこういっぱいあるんですよねー。
この本の中に、「おもな新宗教・ポスト新宗教の推移」という図表があって、ちょっとびっくりしましたもの。「おもな」でこれだけあるのかぁ、って。
世界三大宗教と、日本の仏教受容、そして空海や最澄という名は学校で習いますが、その後の「日本での宗教」、近現代の日本の宗教状況なんて、習う機会ないですもんね。
宗教まがいの怪しげな集団に引っかからないためにも、この本必携だと思うな。一家に一冊(笑)。
前置きが長くなりましたが(え、ここまでまだ前置き!?)、1章ずつ内容を見ていきたいと思います。
【第1章 霊って何だろう?】
「まえがき」に当たる部分です。半年の講義を始めるにあたって、「この講義ではこんなことを考えていきたいと思います」という箇所。
先に挙げたWHOの話や、「日本の祖霊信仰と死生観の変遷」など。
日本は近代になるまで「死んだ霊は、大いなる全体へと還る」という考え方が一般的だったんですね。 (P19)
なるほど、と思います。「近代的自我」を当たり前のものとしてしまった私としては、「死んでからも“私”という“個”でいたい」と思ってしまいますが、“霊”に“個性”はあるか?というのは面白い問題ですよね。正しく祀れば、“霊”は大きな全体へと還り、正しく祀られないと“個”としてさまよったまま、時に生者に害をなす。
靖国神社の合祀の問題なんかも絡んでくる。(靖国に関しては別に1章が割かれています)
神道というのは(中略)基本的には共同体を繋ぐための宗教なんです。(中略)宗教儀式を行うことを中心とする宗教ですから、教義とか思想性はそれほど重要じゃありません。
ここも重要ですね。試験に出ます(笑)。
これ読んで思ったんですが。
お正月には神社へお詣り、お葬式ではなんまいだー、クリスマス大好き、最近はハロウィンだって祝っちゃうもんねー、という日本人は別に「宗教がむちゃくちゃ」なわけじゃないんですよ!
教義とか思想性は重要じゃないんです。「儀式を行う」ことが日本人にとって「宗教的に重要」なんです。
クリスマスや結婚記念日、誕生日といったイベントが恋人同士や家庭内で重要なのは、それが「共同体を繋ぐための重要な宗教儀式」だから。
なるほどぉ。
なんか、ものすごく腑に落ちました。
【第2章 名前は呪い?】
言霊思想ですね。
「言葉」には力がある。「名づける」ことによって、人は世界に意味を与え、境界線を引く。
であるがゆえに、人は「言葉」に引きずられる。
「予言の遂行性」という話は、内田センセのblogや著書ではおなじみの考えです。
この章の最後に取り上げられている小泉八雲の『お大の場合』という小説の話がまた大変興味深い。
主人公のお大は、家族に死に別れて宣教師の助手となり、自身もクリスチャンになる。彼女がクリスチャンになっても何も言わなかった村の人間達は、彼女が宣教師の指示に従って「家の仏壇・位牌・過去帳など」を全部捨てたとたん、「犬猫以下の人間」として彼女を激しく罵倒し、無視するようになる。
この『お大の場合』という事例は、日本人の「個人の信仰は認めるが、先祖を祀るという共有行為様式からはずれた者は人間としての文脈をも放棄することとなる」という霊性観を表していると言えるでしょう。
決して「個人」を認めないわけじゃない。でも「共同体」を維持していく上で、破ってはならない「全体の掟」「マナー」というものがある。
人間が社会生活を営む生きものである以上、「共有行為様式」というものは絶対に必要なものなんですね。
ちょうどこの本借りたのが大ばあちゃんの一周忌法要の日だったこともあり。
身に沁みました。
最近は盆や正月でも十数人しか集まらなくなってたのが、一周忌には35人。もちろん法要は自宅で行うので、まぁ「嫁」としては「さっさと終わってちょーだい」的行事だったわけですが。
さすがに嫁入りして15年も経つと、この「共有行為様式」にも慣れてくるんですねー。
「面倒だけど、なかったら寂しいんだろうな」と。
今回の法事に関して言えば、98歳間近での大往生、「しんみり」感よりも「久しぶりに遠い親戚も集まってみんなで宴会です」感が強い。
でもそもそも法事ってそーゆーもんなんかなぁ、と。
「お盆」も「祖霊の供養」で「法事」の一種みたいなもんだと思うんだけど(実際ちゃんとお坊さん来てくれるし)、これって「死者のため」と言うより、「生者の絆を確かめるため」にあるもんではないかと。
共同体を維持するための儀式の一つ。
もちろん、死んだ人を悼み、偲ぶ気持ちもあるけれども。
「死者」を「縁」として、生きている人間達が集い、一緒に何かをする。
死んだ人は阿弥陀様のもとにいるとか、実のところ信じてもいないんだけど、それでも私も「南無阿弥陀仏」と唱えるわけです。
遠い親戚の中にはクリスチャンもいるかもしれないし、同じ仏教でも宗派違いの家は現にいっぱいある。若い世代は特に信仰を持たない人も多いでしょう。「本家のひ孫」として中央に座らされていたうちの息子ちゃんも、「なんだかわかんないけど、やらなきゃしょうがない」で1時間超の長丁場、頑張ってました。
そう、しょうがないんですよ。
「俺、信じてないから」「そんなの意味わかんない」って参加しない人間が増えたら、共同体が成り立たなくなる。
「遠くの親戚より近くの他人」という言葉もあるけれど、それでもたまには集まって一緒に「儀式」を行うことで、親交を深めましょうよ、と。
お坊さんが来てお経を上げたりするのは実のところ「おまけ」みたいなもんで(笑)。
かく言う私も、慣れたとはいえ「隙あらば逃げだそう。手を抜こう」(爆)。
実家は親戚も少なくて、盆や正月だからって集まることもなかったから。
未だ苦手ではある。
その点息子ちゃんは10歳そこそこにして「しょうがない」を理解してるように見えるんですよね。
それを当たり前として育っているから。
もっと小さい、幼稚園ぐらいの時でも、大人しく一緒に数珠持って座ってたもの。夫や、夫よりずっと若い親戚の子ども達も同じ。
すごいなぁ、と思います。
「個」はもちろん大切だけれど、世の中それだけじゃ回らないんですよね。
支え支えられて生きているんですから。
……って、自分の話だけで長くなっちゃった。まだ「第9章」まであるのに(^^;)
とりあえず、続く(笑)。
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