内田センセの『街場のアメリカ論』の中でたびたび言及されていた本です。

『街場のアメリカ論』、トクヴィルさんに捧げられていますし、「読んでみなくちゃ」と思い、図書館で借りてきたのですが。

……さくさくどんどん頁を繰れる内田センセのご本と違い。

「あなたはどんどん眠くなるぅ」と、頁を繰るたび魔法をかけられてしまう『アメリカのデモクラシー』。あうあう。なんとか1巻(上)は終わったものの、1巻(下)は返却期限を延長してもらわないと(汗)。

日本語訳は全4巻という大部の書。

この手の本にしては、意外に読みやすい方だと思うんですけど、いかんせん政治とか法律とか、専門でも何でもないんで……。ああ、私はどんどん眠くなるぅ……。

トクヴィルさんは1805年にフランスにお生まれになり、1831年、26歳の時にアメリカを旅行して、1835年にこの『アメリカのデモクラシー』第1巻を刊行されています。

1805年というと、「バスティーユに白旗がぁ!」の1789年フランス革命から16年後。

トクヴィルさんがその目で見たアメリカは今からざっと180年前。たぶんまだ「50州」にはなってないですよね。西へ西へのフロンティアまだまだ続行中の時期でしょう。

えーっと、Wikiによると1823年に「モンロー宣言」(欧州とアメリカの相互不干渉をモンロー大統領が宣言し、以後100年間外交では孤立主義をとった、という世界史の教科書に載っているあれです)、1830年代に入るとジャクソン大統領がインディアンを大っぴらに迫害・殺戮し始めた、と。

「大国」になる前の、まだ初期のアメリカ。

アメリカがイギリスからの独立戦争に勝利し、初代大統領ジョージ・ワシントンが就任したのって、フランス革命と同じ1789年だったんですね。

そういや「ベルばら」でフェルゼンが「私は逃げるぞ」とか言ってアメリカ義勇軍に参加してたりしたっけなぁ。

フランス革命でアントワネット様がギロチンの露と化している頃、アメリカは貴族や王様を抜きにした、「市民による民主主義」の国を作っていたのですねぇ。革命後に生まれたトクヴィルさんにしても、まだまだ「貴族政」の方が馴染みがあるようで(1830年代のフランスの政治状況、めんどくさいから調べないけど、王政復古とかしてたんだっけ?)、随所に貴族政と「アメリカの民主主義」との「比較」が出てきます。

トクヴィルさんは法律がご専門なのか、法制の観点からアメリカを観察してらして、1巻(上)では「個々の州の政治状況」を見た後、「連邦全体」を見て、「合衆国における司法権」や「連邦憲法について」書かれています。

なかなか読んでてもしっかりと頭に入ってこないというか、理解できないまま、咀嚼できないまま読み進んでるんですが、「アメリカ」がどうこうと言うよりむしろ、トクヴィルさんの「社会」や「政治」に対する考え方が興味深いな、と思います。

アメリカを訪問した時がたったの26歳、本が出た時でもまだ30歳なのに、トクヴィルさんってなんかすごい頭いいというか、「人間社会」に対するまなざしが鋭いというか。

この本が「近代民主主義思想の古典」「民主主義の歴史の教科書」と言われるのもなるほどわかります。(個々の事案については必ずしもわかってませんが……(^^;))

たとえばこういう考え。

一般に、人民の精神をとらえて離さないのは単純な観念だけである。世の中ではいつも、誤謬だが明晰、簡明な観念の方が、真実でも複雑な観念より大きな力をもつであろう。だからこそ、国家の中の小国家とも言うべき諸党派は、つねに一つの名前や一つの原理を象徴として掲げるのを急ぐのである。 (1巻上P268)

思わず苦笑してしまいませんか。

わずか数年の間にころころと首相が変わり、来月の参院選を睨んで諸党派のマニフェストが出ている今、トクヴィルさんの言葉はなかなか蘊蓄が深くて、180年も前のものとは思えないところがあります。

国のおかれた立場が難しく危うくなればなるほど、外交方針の継続性と一定性が必要になり、国家元首を選挙で選ぶことはより危険なものとなる。 (1巻上P211)

とか。

これはアメリカの大統領に関して述べたところで、なんかちょっと不思議な感じなんですけどね。現代ではアメリカ大統領は世界の命運を握る最重要人物の一人だと思うのに、180年前はだいぶ立場が違う感じで。

トクヴィルさんはフランスの人だし、アメリカ合衆国以前にアメリカ合衆国が実現しているような「民主主義の国」はなかったわけだから、私達が当たり前のように思っている「国のトップを市民が選挙で選んでしまう」形態というのが、「そんなことして大丈夫か!?」と思えるみたい。

選挙が近づくと、執行権の長は待ち構える選挙戦のことしか考えない。もはや彼に未来はない。何事も企てず、次の人は何を成し遂げるであろうかと無気力に探るだけである。 (1巻上P208)

またまた苦笑の一文ですが。

選挙の直前、また選挙期間中は「執行権に空白が生じる」ではないかと、トクヴィルさんは言うわけです。いや、もう、その通りで、「支持率高いうちに選挙しちゃえ!」で早々に国会も閉会してしまいましたからねぇ。

「王政」の場合、普通王様は死ぬまで王様だし、選挙のために市民の支持率に一喜一憂したり、人気取り政策ばかり行う必要もないわけです。もちろん、それで市民が幸福かどうかは別問題だけれども。

合衆国では執行権が弱くて限られているから、選挙で選ばれてもまぁそんなに支障はないのだ、とトクヴィルさんは言うんですけど、「アメリカ大統領は世界一偉い人と言っても過言ではない」とつい思ってしまう日本人としては、「ええっ!」ですよね。

アメリカは「連邦」で、個々の洲の権限が強くて、州ごとに同性愛が認められたり認められなかったり、法律も違ったりするわけなので、国内的には確かに意外と権限は弱いのかなぁ。うーん。

1830年当時のアメリカはまだまだ「大国」ではなくて、「外交方針の継続性と一定性が必要」なほど対外的な力も問題も抱えていなかった。

だから執行権が限定されてても大丈夫だし、選挙による「空白」ができても大丈夫なのだ、とトクヴィルさんは言う。

国内の状況が混迷を深め、対外危機が拡大するにつれてこの非常時(=選挙による空白期間)は国家にとって危険になる。ヨーロッパ諸国の民にあっては、国家に新しい長を戴くたびに、外国による征服あるいは国内の無政府状態を恐れずにすむ者はほとんどいない。 (1巻上P212)

……毎年のように国家に新しい長を戴いている日本なんですけど……。そんなことを恐れなくてすんでるというのは本当に、ありがたいことですね。

そして1巻(下)では「民主主義とは多数による専制である」という考え方が出て来ます。

下巻の方が上巻よりいくぶんとっつきやすく、面白く読める感じ。あくまで「感じ」ですけど(^^;)

最初の方に出て来る「出版の自由」に関するご意見。

人が最初の段階にあるときには、出版の自由があっても、深い考えなしに固く信ずる習慣はなお長い間変わらない。ただ出版の自由のために、深い考えなしに信ずる対象が毎日変わるだけである。 (1巻下P35)

情報に踊らされる、ということでしょうかね。出版の自由、言論の自由がただちに人間の深い思惟に直結するわけではないというか。

この文章が載っている個所のタイトルは「合衆国において新聞の自由の下に確立する意見は、他国で検閲下に形成される意見より頑迷であること」と言うのですけど。

普通選挙こそよい政治家を選ぶ保証だと考える者が完全な幻想に囚われていることは、私にははっきり証明された。普通選挙には別の利点があるが、この点ではない。 (1巻下P56)

180年前にもう証明されていたのですね(またしても苦笑)。

民主政治の下では方針が変わりやすく、責任者はそれ以上に頻繁に交替するから、事業の運営が拙劣であったり、中途で放置されたままになったりする。前者であれば、国家は目的の大きさに比べて不当な浪費をすることになり、後者の場合には、無駄な費用をかけることになる。 (1巻下P80)

いやはや。

日本の場合、これまでは結局「官僚」が「責任者の頻繁な交替」によるダメージを軽減し、「一貫性」を保持してきたのかもしれません。

いや、まぁ、「責任者が変わる」と言ったって、ずっと「自民党」、ずっと「55年体制」ということで、「一貫」していたわけかな。

「民主主義とは多数による専制である」という話を要約するような文章を、今とっさに見つけられないのですが…「民主主義」が決して手放しで称賛されるべきものではなく、そこには欠点も危険もある、という考えにはうなずかされます。

その危険をアメリカはどのように回避しているか、あるいはなぜアメリカだけが回避できているのか、といった考察が続きます。

同じように「連邦制」を採用し、「民主主義」の法律を整備しても、うまく行っていない国はある。アメリカが成功している一番の原因はその「習俗」にある、とトクヴィルさんはおっしゃっています。

日本は社会主義的だと言われたりするけれども、日本人の心性・習俗に合った「民主主義」を実践しているだけなのではないか。

「民主主義」に潜む「危険」を、それぞれの国がそれぞれの仕方で回避する。

なぜなら、私は、その国の自然と歴史的与件が政治の諸制度に及ぼした影響を知っており、また、自由がどんなところでも同じ形で再生産されねばならぬとすれば、それは人類にとって大きな不幸だと考えるものだからである。 (1巻下P263)

最後の10章では、いわゆるインディアン=先住民と、黒人の問題が語られます。9章までは「アメリカ」と言ってももっぱらイギリス系アメリカ人の話だったのです。

トクヴィルさんはフランスの方ですし、時代も180年前ということで、多少の偏見は免れないものの、インディアンと黒人の不幸について、イギリス系アメリカ人がいかに彼らを迫害・抑圧・搾取しているか、その観察の目は鋭さを失いません。

インディアンをその土地から追い出すやり方について、トクヴィルさんはこう言っています。

アメリカ人以上に、人間性の法則を尊重しつつ人間を破壊することはとてもできまい。 (1巻下P297)

また、黒人奴隷に関するところでは。

人種的偏見は、私には奴隷制を廃した州の方が奴隷制がなお存在する州よりも強いように思われ、奴隷制度を一度も経験したことのない州ほど非寛容な偏見がまかり通っているところはない。 (1巻下P302)

このへんの考察は大変面白かったですね。奴隷制を採用して自分達は「働かない」方が、結果的に「高くつく」ってこととか。

ラストは、『街場のアメリカ論』でも紹介されていた、「いずれアメリカとロシアが世界の半分ずつを手中にするだろう」という見事な予見。

知的なつながりは地上のもっとも離れた部分を相互に結びつけ、人々は一日として互いに無縁なままではおられず、世界のどこの片隅に起こっていることも知らずには済まされまい。 (1巻下P417)

「グローバル化」ですよねぇ。

ほんとになんでトクヴィルさんはこんなによく人間世界が理解できるんだろう。

あ、「多数派による専制」絡みの箇所を見つけました。「アメリカにおいて多数が思想に及ぼす力について」。

一度多数の意見が決定的に宣言されるや、誰もが口を閉ざし、敵も味方もなく競って多数の後に従おうとするように見える。その理由は単純だ。どんな絶対君主といえども、多数者が立法と執行の権利を得た場合のようには、社会の力をすべて手中に収め、抵抗を抑えることはできない。 (1巻下P153)

この後に、多数者が自分達と違う考えを持つ少数者に対して言うであろうセリフがまた、怖いんです。「私と同じ考えでないなら、死を与えよう」とは言わない。「私と同じ考えを持つのは自由だ」と言っておきながら、「だが生きることを死ぬよりもつらいことにしてやろう」。

ぶるぶる。

民主主義が「最大多数の最大幸福」を追求するものであるなら、多数になれない少数派は常に抑圧される運命にある……。

まだ2巻の上下2冊が残っているわけですが、幸いなことに(笑)最寄りの図書館にはなくお取り寄せになるので、とりあえず今はパスってことでお許し願いたいと思います。他に読みたい本もあるし。

ごめんね、トクヴィルさん。