オウム真理教がらみの裁判がすべて終結する、ということで、メディアで改めてサリン事件等のことが取り上げられていた。

テレビのニュースで当時の「動く麻原氏」の映像を見て、改めてつくづくと気持ち悪くて、「なんでこんな男についていっちゃったのかなー」と思わざるをえなかった。いくら「宗教は阿片」だと言ったって、気持ち悪いもんは気持ち悪いのになぁ、と。

今は教団を抜けて更正(という言い方が正しいのかどうかわからないけど)している元幹部の人の話も新聞に載ってて、「東大で物理学やってノーベル賞狙ってた人がなんであんな教団に……」と本当に改めてつくづくと。

教団の幹部にはそーゆーエリートがけっこういて、当時も「えーっ」とは思ったのだけど、「動く麻原氏」見てると今更のように「この生々しく“肉”な感じがエリートには衝撃だったのかなぁ」とか。

もしもっとすっきりした、知的でスマートな教祖だったら、少なくともエリートさんは惹かれなかったんじゃないだろか。だって、「知」はもう自分が持っているわけで、人は自分にないものを持っている相手に惹かれるわけだから。

頭でっかちのエリートさんにとって、あの生々しい、全然理屈じゃなさそうなでーんとふてぶてしい“教祖”は何か、「自分には太刀打ちできない強力なもの」と思えたんだろうな。

それにしたってもうちょっと美意識が……と、テレビ映像で見るだけの第三者は思ってしまうけれども。

「オウム真理教」という教団は「アレフ」と「光の輪」という団体になって、今も存続している。そして今も信者を増やしていて、最近では麻原氏の写真を祭壇に祀ることが復活しているらしい。

地下鉄サリン事件の時はもうすっかり大人で、「ああ言えば上祐」をリアルタイムで見ていた人間としては、「なんであんなものがまだ存続しているんだろう。なんで信者が増えるんだろう」とまた気持ち悪くなるのだけど、あれはもう16年も前のことで、今の高校生や大学生は当然知らなくて、20代の人にとっても「ピンと来ない昔の事件」なんだろうから、学校の掲示板に「ヨガサークル」としてチラシ貼ってあったらちょっと覗きに行って、そのまま何も知らずに入ってしまっても、まぁ不思議はないんだろう。

私が9年ほど前に整体ヨガ教室に通い始めた頃はまだ、先生が「怪しい宗教とは関係ない、ちゃんとしたヨガですから」とわざわざことわってくれたりしていたんだけどなぁ。

教団が存続していることと、「だから危ない」の間には距離があるし、宗教に限らず「もっと危ない団体」はいくらでもあるのかもしれない。

裁判終結のニュースの中では「なぜ彼らがあんなことをしたのか」という「謎」はまだ解明されていない、というふうにも言われていた。普通の、第三者から見たら、「あんな怖ろしいことをしでかすからには何かよっぽどの理由があるのだろう」→「しかし私たちを納得させてくれるような“もっともな理由”というのは結局まだ見えていない」というような。

でも「もっともな理屈」があるくらいだったら「あんなメチャクチャ」はしないのかもしれないなぁ、と思ったり。

さっきの新聞記事でも幹部だった人が

「自分がやっていることを現実に使った場合にどうなるか、個々の信者は考えていない。組織が大きくなり断片しか見えず、みんなが動いていることに安心してしまう」

って言ってる。

個々の信者も考えてないし、幹部も麻原氏もたいしてリアルに考えてなくて、考えてないからこそ平気でやっちゃえたんじゃないかという……。

で、なんかもやもやして来たので橋本治さんの『宗教なんかこわくない!』を読み返した。



帯に「というわけで、オウムである」とあるように、オウム真理教のことと、「なんで日本人は“宗教”を振りかざされると及び腰になっちゃうか」を論じた本。

(しかしなんだってこれはこーゆー表紙なんだろうか。一体この兄ちゃんは誰なんだろう)

読むのは3回目。別サイトでもこのblogでも紹介したことがある。

なのにろくに覚えてなくて、「そうかーなるほどー」とまるで初めて読む本のように楽しく読み進んでしまった(汗)。

感想書くために気になったフレーズをメモってたらどんどんメモばっか増えて、いざまとめようと思っても何の役にも立ちゃしない(笑)。橋本さんの文章って、すごく心地よくすらすら読めて、読んでる最中は「なるほど」の連発なんだけど、読み終わった後で振り返ると「どう振り返っていいかわからない」「まとめられない」んだよね。

え、それは私の記憶力の問題?(爆)

ともあれまずは、

宗教とは、この現代に生き残っている過去である。 (P11)

“宗教”とは、「まだ人間達が自分の頭で十分にものを考えられない時期に作り出された、“生きていくことを考えるための方法”」なのである。 (P265)

日本人は「宗教」って言われるとなんか及び腰になってしまって、西欧の人に「信仰を持たないなんて!」って言われるとなんかごめんなさいな気分にもなってしまうんだけど、「どうも宗教ってのはわからなくて」と言えてしまう日本人は思想的に「とっても進んでいる」みたいなので、これからは堂々と「いやー、まだ“信仰”なんてもの持ってるんですか、遅れてますねー」ぐらい言ってみましょう。

日本は、その基本姿勢としては、もう四百年も前から“平和な近代市民社会”になっているのである--“宗教が不必要な力を持たない”という点と、“武器が野放しにされていない”という点において。 (P108)

はっきりしているのは、「日本人に一番必要なものは“宗教”ではなく、“自分の頭でものを考える”という習性である」ということだ。 (P87)

相手が「宗教」となると「信教の自由」とか出てきて、オウム事件の時も「宗教を裁く」ことに対して「いいのかな」というためらいもあったと思うのだけど、

裁かれるのは、オウムの思想ではなく、“行為”なのだ。“思想の自由”とは関係がない。 (P102)

「すべての宗教は危険ではないし、すべてのイデオロギーも危険ではない」だ。なぜならば、それは“頭の中の出来事”でしかなく、“頭の中の出来事”は、それ自体では“社会に対して危害を加える”などということが出来ないからだ。“危険”とは、それが“頭の中”から出てしまった後のことである。 (P59)

「アレフ」や「光の輪」が現在も信者を増やしていても、だから“危険”というわけではない。うん、まぁ、理屈ではわかる(^^;)

この本は1995年の7月に出版されている。

地下鉄サリンが95年の3月のはずだから、「その犯人はオウム真理教だ」ということが確定的になってすぐに「緊急出版」されたものだと思われる。

橋本さんは信者に直接取材したわけじゃなく、テレビやニュース等での情報をもとに「オウム真理教」を論じていて、「だから信用できない」という人もいるかもしれないけど、でも近づきすぎると逆によく見えなくなることもあるだろう。16年経って読み返して、「95年の7月にもうこれだけのものが出てたのか」と改めて驚く。

「オウム真理教で驚嘆するのは、これが“今時の若いやつを受け入れるのにはとてもよくできた組織”だというところである」 (P171)

まず第一に、若い人間をいつも動かしている。(中略)“自主性が重んじられている”というところが第二の美点である。 (P171)

居心地が良かったからこそ、だろうなぁ。そして教祖がああいうふうに裁かれてもやっぱり“信仰”を捨てられない信者っていうのは、「それを否定したらそれを信じて充実していた自分自身をも否定することになる」からなんだろうなぁ。

誰しも自分を否定したくなんかないものな。

私が「頭でっかちのエリートは麻原氏の“生々しく肉”に惹かれたのかもしれない」と思ったように、橋本さんも

麻原彰晃=松本智津夫という、知性とは無縁の“肉体性の権化”みたいな人間を見ていると、「この人のヨガだけは本物だったんじゃないか」という気にもなる。そういう人間が一方にいて、もう一方には、“肉体性ゼロ”という人間だっているのだ。「生産の空洞化」とは、とりもなおさず、“生産の拠点”である肉体の空洞化なんだから、オウムの信者になった人間の多くは、肉体性ゼロの現代人だったんじゃないかと、私は勝手に推測するのだ。 (P217)

とおっしゃっている。

頭ばっかりじゃダメなんだよね……。

「生産の空洞化」って話では、「円高日本の生き延びる道は…」なんて話も出てきて、「すでに16年も前にこんなことが言われているのに」と思ってしまいます。今や1ドル=77円とかいう超円高、さらにTPP問題が吹き荒れる。

本当に必要なのは関税撤廃・貿易完全自由化なのか……?

バブリーだった16年前の若者より今の若者の方がしっかりしているんじゃないか、とも思うんだけど、今の若者にはさらに「職場」がなくて、日本からどんどん「生産の現場」というものが消えていきつつあって、日本人の“肉体性”はどうなっていくんだろう、とか。

毎日Twitterばかりしてる引きこもり主婦の私が言うことじゃないですけど。

16年前はまだ、ケータイやネットはほとんど普及してなかったよね。

1995年ってちょうど私が結婚した年で、初めてパソコン買ってモデムつないで、まだNiftyサーブが現役だった。ケータイの普及で「どこでも自分の部屋」になって、でもケータイやネットのおかげでどこでも「つながれる」にもなって、だけどやっぱりそれは「顔と顔をつきあわせて」というリアルな“肉体性”とは違って、もし今若者が“カルト”に惹かれるとしたら、どういう方向に進んでいくのか――。

いや、そもそも世の中全体が、「人の社会」というものが、どうなっていくのかな。

話をオウムのことに戻せば、橋本さんは

オウム真理教事件は“子供のしでかした犯罪”である。 (P161)

とか、

オウム真理教事件で一番不気味なのは、“くだらない”ことと“人殺し”が、平気で並んでしまっていることである。 (P194)

ともおっしゃっている。

「あんな大変なことをしでかしたからには…」とその背景を探りたくなる、「知られざる闇」とも言いたくなる、でもやっぱり案外それは“くだらない”理由で、だからこその“不気味さ”、“わけのわからなさ”だったんだろう。

なにしろこの事件には、「出家も解脱もいいけどさ、それじゃあんた、人間として失格だよ」の一言が出てこないのだから。
この一言が出て来て、この一言がまともに通用すれば、こんなひどい事態にはならなかっただろう。
 (P209)

生産の空洞化は、いたずらな“個人の神秘化”を招いて、“個人の自由”は、“神聖ニシテ侵スベカラズ”のレベルにまで達してしまった。「お前ごとき人間の言う“個人の自由”を野放しにしたら、お前は人を殺しても“自由”でいられることになるな」のレベルまで、実際問題、来てしまっているというのが、オウム真理教事件のある日本だ。 (P210)

16年経って、裁判は終わって、そして日本は――。

最後にもう一カ所だけ引用。

私がオウム真理教を恐怖するとしたら、その理由は、あの信じがたいほどの美意識の欠落にあるのだけれど、それをそうとは思わない人間達も、また一方には大勢いるのだろう。 (P39)

「美意識」っていうのは、重要なものだと思います。