2012年2月26日日曜日

『双調平家物語』第8巻/橋本治~その2・頼長無惨~

保元の乱前夜、崇徳院のもとには61歳の源為義とその息子達(義朝を除く)がいました。前の関白、藤原忠実に仕えていた為義は、頼長の代になってやっと「判官」の地位を得ていました。

為義の実父、源義親は乱を起こして討たれているのですが、その追討を命じられたのは清盛の祖父、平正盛だったりしました。平氏と源氏、色々因縁があるんですね。

為義の祖父である源義家は源氏の棟梁として名を馳せた武人ですが、この義家の母親は東国の桓武平氏の裔、平直方の娘だったりします。清盛の伊勢平氏と平直方の祖は一緒ですから、義朝と清盛はすごく遠いけど親戚なんですね。

義朝の子である頼朝が幕府を開く鎌倉も、もとは平直方の所領だったらしく。婿である義家を見込んだ直方が譲ったとかなんとか。

ホントになんという因縁なのでしょうか。

崇徳院の側には為義、そして後白河帝の側には義朝。

お主上、忠通、信西の前に控えるのは義朝と清盛。清盛の父、忠盛は3年前に死去しています。

都の「貴族社会」で揉まれてきた清盛が平然と落ち着いている一方、3年前まで東国でぶいぶい言わしていた義朝は「戦じゃ!腕の見せ所じゃ!」と合戦の予感に気を逸らせます。

宣旨を戴き朝敵に向かう。戦いそのものを「私闘」と断ぜられ続けて来た関東武者にとって、この戦闘は輝ける八幡太郎義家の栄光を呼び戻す、聖戦に等しいものともなっていた。 (P164)

そーゆーものではないんだがなぁ、義朝。これ、ただの兄弟喧嘩だし…。

合戦に臨む貴族、源氏、平氏。三者三様のそのあり方、立ち位置の違いが面白いです。

大河ドラマでは「清盛がいたから武士があるんだ!」みたいに頼朝がナレーションしてますが、清盛はあくまでも「都の貴族」なんですよねぇ。少なくとも、この頃はそうです。

中井貴一扮する清盛の父、平忠盛はやたらかっこいいですが、実際の忠盛もなかなか魅力的な人物だったらしく。

都に育った忠盛には、物に怖じぬ武者の胆力と、物の文目を判じる都人の理性とが共に備わっていた。忠盛は、「歌人」でさえもあったのである。 (P167)

忠盛は18歳で従五位下、璋子の政所別当だったそうです。清盛12歳の夏に瀬戸内へ海賊退治。その間に白河院が崩御。

37歳で忠盛はついに殿上人に(清盛はその時15歳)。大河ドラマでも描かれた通り貴族達のパワハラに遭い、「伊勢平氏はすが目」と揶揄され「闇討ちの計画」までありましたが、機転と理性でこれを切り抜けたと。忠盛パパ、ほんまかっこええなぁ♪

宮中の戦いの第一は、「争わぬこと」である。防ぐ盾は「忍耐」。攻める矢は、「矜りを捨てぬ理性」である。「瀬戸内に海賊を追う方がどれほど楽か」と、父の忠盛は言っていた。清盛は、その言を聞いて育った。 (P182)

この合戦の意味と本質を、清盛はよく知っていた。この合戦は、兄弟の争いである。 (P183)

争う者は争う。戦いの末に、勝者と敗者は生まれる。肝要なのは、敗者とならぬこと――ただそればかり。 (P183)

大河では「アホ!」と義朝に罵られていた清盛ですが、『双調平家』のこの時点では清盛の方が義朝よりよほど「上手(うわて)」です。

「やってしかるべきことは、我からやらず、人にやらせる」――それが都の習いだった。義朝はなにも知らない。義朝が知るのはただ一つ。敵を攻め討つことばかりだった。 (P218)

膠着状態にいらだち、「勝つなら今この時、夜討ちだ!」と声を荒げた義朝の言を容れ、「いかにも」の一言を発したのは信西。父と弟を逐おうと事を仕掛けた張本人、関白忠通はただそれをうべない、「だったらさっさと終わらせろ」と言うばかり。

かくて義朝は張り切って出陣。父や弟が相手でも躊躇はしない。

「敗者とならぬことが肝心」と心得る清盛は「血なまぐさいことは義朝に任せて」とばかり、形ばかりの出陣をする。

東国や西国といった遠いところでしか起こらなかった合戦が、ついに都の中で行われる。それも、下り居の帝、今上帝には兄にも当たる尊きお方を逐うために。

火をかけられ、逃げる崇徳院と頼長。その際頼長は首に矢を受け瀕死の重傷。

「お前達武者がいるから私に危難が降りかかるのだ」と言って崇徳院は途中で為義以下源氏の武者を追い払う。まぁ実際そうなんだけど、あまりといえばあまりに気の毒な為義達。こんなことにかかずりあいたくないと思いながら、実の息子と戦ってまで守ってやったのに……。崇徳院と別れ、為義達は近江を目指す。

一方、南都の僧兵を集めようとしていた忠実は頼長の敗北を知り、宇治から南都へと逃げます。そして忠通のもとには「忠通を藤原氏の長者に復す」との宣旨が。朝廷に――信西にしてやられた摂関家。

氏の長者に関して、お主上の仰せ出だしを受ける――お主上のご介入を受ける。それはすなわち、お主上からも朝廷からも超然とし続けて来た、「摂籙の家」という超然を捨てることだからである。 (P243)

弟から「氏の長者」の座を奪おうとして仕掛けた今回の“乱”。摂関家内部の争いを「世の争い」に、「朝廷」vs「崇徳院」という構図に広げてしまったツケは、早速忠通の上に降りかかった。勝ったはずの忠通は負けたのです。保元の乱の勝者は忠通ではなく、信西でした。

それは、いかなる奇縁なのであろう。摂関家の超越を衝き崩す一族の傍流の子を育んだ高階氏とは、その往古、奈良の都に栄華を極めた長屋王の裔なのである。 (P245)

藤原氏の陰謀によって自害に追い込まれた長屋王。その裔、高階氏によって育てられた信西が、藤原氏の権勢を打ち崩す。

しかも信西のやり口がうまいんですよねぇ。一見忠通は何の損もしていないように見える。実の父と弟が「朝敵」になってしまったのに、「関白」という彼の地位には変わりがなく、「氏の長者」にも復した。

でも。

そのことに意味がなくなっている。

「摂関家」という超越あってこその「関白」「氏の長者」であったのに。

保元の乱最大の敗者は、一滴の血も流さず、旧に復して権勢の地位を得続けることに成功した、時の関白忠通なのである。 (P246)

忠通の代わりに血を流した頼長は、瀕死の状態でさまよいます。忠通に男子が生まれなければ摂関家を継いでいたであろう左大臣の最後は、本当に哀れなものでした。

家司として仕える母方の従兄弟と、わずかの供だけで逃げ惑い、頼れるはずの忠実にも拒まれる。死の苦しみに喘ぎながら「父に会いたい」という頼長を、忠実は「不吉、穢れ」と言って斥けるのです。

一体この「父」は何なのでしょう。忠通・頼長を無駄に争わせ、頼長を死に追いやり、忠通の立場(というか摂関家自体の立場)を危うくして、しかしおそらくは自身の「罪」を何も認識していないであろう「父」。79歳という高齢、すっかり耄碌していたのかとは思え、嫡男以上に可愛がった次男が今にも命の灯を消そうとしているのに。

傷ついた我が子を案じられることもなく、「穢れ、憚り、不吉」と言う。そのような言葉と出合うために、ここまでの道程をやって来たのかと思うと、使者の背に怖気が立った。「氏の長者の父とはこのような人だったのか」と。 (P265)

みすぼらしい小屋で、父に看取られることもなく37歳の若さで死んでいく頼長。頼長の人生って、何だったんだろう……。

「悪左府」と渾名されるほどの傍若無人、思想ばかりで超KY、失脚するのも自業自得とはいえ、この死に方はなぁ。

しかも「頼長死す」の報を受けた忠実がまた。「この膝の上で死なせてやりたかった」なんて言うんだよ。泣くんだよ。えええっ、あんた「会いたくない」って言ったじゃん。「不吉」だって言って、屋敷に迎えることも、見舞うこともしなかったじゃん!

しかし経憲は、忠実の流す涙が疎ましかった。自身の涙を、忠実に奪われたとさえ思った。経憲の膝で、経憲を見上げていた頼長――その目の内に涙が光っていたのを、経憲は忘れることが出来なかった。(中略)その目の縁から溢れ出た涙を、この父は知らないのだと思った。 (P271)

昔読んだ時もうるうるしたけど、ここはホントに泣ける…。ううう。

頼長の母方の従兄弟である経憲は最後まで頼長に付き従い、頼長の死を看取って髪を下ろし、自ら朝廷へ出頭する。

そして。

拷問にかけられる。

本当のところ、「謀反」なんてものはなかった。だけど、信西は「謀反」を捏造しなくちゃならない。頼長が謀反を企んでいた、それを「事実」とするために、頼長のそば近く仕えていた者は「白状するよう迫られる」。

経憲はれっきとした貴族です。五位以上の貴族が拷問にかけられるというのは実に290年ぶりのことだったそうな。

摂関家の嫡子左大臣頼長の家司を勤めていた堂上貴族の背に拷訊の杖が振り下ろされた時、長く続いた王朝の時もまた終わった。王朝貴族に仕え、ただ寵されるだけでよしとしていた滝口の武士の肉体が白砂の庭に悶える時、彼等を寵した男達の威勢も終わった。 (P285)

「王朝の世」がすべて「良かった」とも「正しかった」とも言えないけど、「拷問」や「合戦」が普通のことでなかったという意味では「平和な世」だったよね…。

頼長が短い一生を寂しく終わらせた一方、近江を目指していた崇徳院は都に舞い戻る。髪を下ろして弟のいる仁和寺へ向かうも弟は兄を庇護せず朝廷に通報。結果、崇徳院は仁和寺で幽閉同然の身に。

その崇徳院に「おまえがいるから私の身が危険になる」と言われてしまった為義も都へ戻っていました。崇徳院同様髪を下ろし、嫡男義朝のもとへ出頭。自身に従った息子達を救うためにはただ逃げるよりその方が良いと。

為義は当然義朝を信じていたわけですが。

関白と左大臣。関白と前の関白。御位を逐われた新院と、御位に即かれた当今。父と子が対立し、父に疎まれた兄が、父に愛された弟と戦う――それが保元の乱の真相だった。 (P305)

同じ時代にある父と子は、既にその立脚点を異にしていた。父が子に託し、子が父から受け継ぐ。託され、受け継がれて来た「時代」というものが、さまざまな解釈にさらされて揺らいでいた。 (P305)

一つの時代の中で父から子へと伝えられ、受け継がれて行ったものは、その解体の中で機能を失う。父は、もう子に伝えられない。子は既に、父からなにものかを受け継がない。父が伝え、遺そうとするものは、解体される時代の中で、意味を失って行く。 (P309)

「時代が変わる」というのは残酷なことですね…。

「乱」を鎮めた報償をめぐって、義朝と清盛は対照的な反応を見せます。

「がんばったんだからそれでは足りない!」と声高に不満を述べ、「左馬頭」の地位を手に入れる義朝。それならば我も追加の行賞をと、弟達の昇殿を願う清盛。

武者の関心は、朝廷の人事になかった。(中略)領主としての勢威を強めるだけの官と、拡大される所領がありさえすればよいと思う彼等にとって、中央での栄達は、さして重要なものではなかった。しかし、同じ武者でありながら、院の御所の寵遇を受け、都にその栄達の地歩を築きつつあった伊勢平氏の長、清盛は違った。 (P322)

一人の栄達は成り上がりだが、一族の栄達は栄達である――都の貴族達はそのように受け止める。であればこそ清盛は、一族の昇進を求めた。(中略)父から子へと伝えられたものを、更に横へと広げる――それが、屈辱と忍耐を知る清盛の「戦法」だった。 (P324)

清盛はしたたかです。

忠通が勝ち、後白河帝が勝ったように見える「保元の乱」。しかし乱が終わった時、関白忠通はその「超越性」を奪われていました。白河院、鳥羽院と「院の御所」が世の中枢ともなっていたのが終わり、「朝廷」方が勝ったのはいいけれど、関白を戴くばかりの無能な公卿たちが関白を失って、「朝廷」は果たして機能するのか。

ぽっかりと空いた「力の空白」。その時そこに立てる者は信西しかいなかった。

かくて290年ぶりに拷問を復活させた信西は346年ぶりに死罪をも復活させる。

清盛は叔父忠正を、そして義朝は父為義を斬らされることになる――。

忠通追い落としを始め、信西の巧妙なやり口にはゾクゾクしますが、しかしその信西も結局は……になるんですよね。

諸行は無常――。

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