2011年2月27日に毎日新聞にこの本の書評が載っていて、近所の本屋に行ったら珍しくあったので買い、そのまま「積ん読」すること1年以上(笑)。

やっと読みました。

読み始めたらいきなり『ドン・カルロス』の話題が出て来て、「そーか、宝塚で『ドン・カルロス』を見てから読めという本の女神の思し召しだったか」と感激。

別に『ドン・カルロス』の内容を知らなくても大丈夫な程度の言及しかなされてないんですが、しかし内容を知っているのといないのとではやはり胸に迫るものが違う。

まぁ、作中で言及されているシラーの『ドン・カルロス』と宝塚版はかなり違うらしく、もちろんシラーの方なんか読んじゃいないのですけども。

でもそーゆー「タイミング」って、本読んでるとしょっちゅうあるんですよ。「今読んで良かった」「こっちを後で読んで良かった」みたいなのが。

読書の醍醐味の一つです。

トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』。例によって例のごとく、タイトルだけは知っているものの読んだことはありませんでした。それが新訳で出て、書評でもなかなか良いように書いてあったので(毎日新聞サイト上からはもう消えてた、残念)手に取ったわけです。

タイトルが『トーニオ・クレーガー』となっているのは、この方がドイツ語本来の発音に近く、トーマス・マン本人も自作の朗読においてそのように発音していたからだそう。

「世界中で愛された永遠の青春小説」と帯に銘打ってあるとおり、14歳のトーニオの描写から始まる。

これがとてもくすぐったい。

詩を書くような男の子、母が南方の出身であることで、外見も少し周囲の子達とは違う男の子。「自分は他の子とは違っている」という意識。恥ずかしく寂しい気持ちと、でもある種の自負と。

金髪碧眼の美しい少年ハンスに心惹かれ、彼との「親しい間柄」を切望するトーニオ。ハンスはトーニオを友達として遇してくれる。二人で散歩もしてくれる。でも他の子が寄ってくると、ハンスの興味はそちらに移る。二人きりの時は名前で呼んでくれるのに、他の子が近づいてきたとたん、「こんな変わり者と特別親しいわけじゃないんだぜ」とでも言うように、よそよそしく姓で呼ぶ。

そんな観察を、しっかりできてしまうトーニオ。

男の子って、こんなにグチャグチャ考えるもの?詩を書くような男の子だから???

橋本治さんの小説で「………」ばっかりで何も考えてない男の子出て来てびっくりしたけど、性別には関わりなくグチャグチャ考える子は考えるし、考えない子は考えないんでしょう。

『ドン・カルロス』に感激して、自分でも詩を書くような「言葉」に敏感な子どもは、いつも頭の中でグチャグチャと言葉を紡いでいる。

ハンスにも『ドン・カルロス』を勧めるトーニオ。別れ際、ハンスは健気にも「読んでみるよ」と言ってくれる。それだけでトーニオは幸せな気分になって、足取りも軽くなる。

ハンスと一緒に文学の話をしたいと思いながら、「でもハンスは詩なんか書いちゃダメだ、ぼくみたいになっちゃダメだ」と思ってる。憧れのハンスに自分の世界を理解してもらいたい気持ち。でもハンスはハンスのまま、自分とは違う「憧れの存在」でいてほしいと思う気持ち。

ああ、くすぐったいなぁ。

きっと、その言葉に反してハンスは『ドン・カルロス』を読まなかったろう。一応最初だけは読んでみるかもしれないけれど……。

美しい金髪のインゲに恋をする16歳のトーニオ。彼女もまた、彼とは違う世界の住人。

いつの日かぼくが有名になる日が来る、きっと来る。書いたものがみんな活字になる日が。そうしたら、インゲは感心するだろうか……。いや、ぜったいに感心なんかしないだろう。しないに決まっている。 (P41)

感心してくれそうな女の子は他にいて、でもトーニオは彼女よりもインゲに恋する。自分とは違う世界の住人だからこそ、インゲに憧れる。

やがてトーニオは故郷を離れる。自分の道を行きながら、時に迷いながら。

なろうと思えば何にでもなれる。だが、そう言いながらも、内心ではそのどれにもなれないことをよく知っていた…… (p44)

大人にならなければいけない時期、社会に出て行かなければならない時期。その、少し手前かな、そんなことを考えるのは。自分の可能性と若さに酔いながら、そのくせ不安で自信が持てない。無邪気に夢を見るには大人に近すぎて、すべて諦めてしまうには若すぎて。

けれどもトーニオは、詩を書く男の子だったトーニオは、その文学の才で世間に認められるようになる。

30歳そこそこになったトーニオは女友達リザヴェータを訪れて、芸術と生活との相克について長々と訴える。

そもそも優れた文体や様式、表現などの才というものは、人間的なものに対する冷ややかで気むずかしい関係、言うなれば一種の人間的な貧しさや荒廃が前提になっているんだから (p57)

そう、〈人生〉は精神や芸術に永遠に対立している――でもね、血なまぐさい偉大さや猛々しい美の幻として、つまり異常なものとしてぼくら異端者の前に姿を現しているわけじゃないんだよ。(中略)つまり、ごく普通であるという幸せに対するひそやかな、けれども身を焦がすような憧憬を知らない人間はとうてい芸術家とはいえないんだよ、リザヴェータ。 (P69)

リザヴェータも画家なんだけどね。

つまり彼女だって「芸術家」なんだけど、素敵なリザヴェータはトーニオの長広舌を聞き終わって、返事をしてあげる。

つまり、いまそこに座ってるあなたはね、なんのことはない、要するに〈普通の人〉だってこと。(中略)ほらね、ショックでしょ――やっぱり。だから、この判決にちょっと手心を加えてあげる。私にはそれができるから。あなたはね、違う道に迷いこんでしまったのよ、トーニオ・クレーガー。――迷子になった普通の人なのよ。 (p73)

いい女だなぁ、リザヴェータ。

芸術家を自認する人間にとって「普通だ」と言われるのは何より苦しいことだけれど、でも、たぶん、そうなんだろうなぁ。

このお話が「永遠の青春小説」と呼ばれるのはその辺の「自意識過剰」な感じ、自分は他人とは違う、特別だという自負と、それと背中合わせになった「世界に受け入れられない」という孤独が、「青春期の若者」に共通なことだからだろう。

つまり、「普通」だということ。

私はトーニオと同じで「文章を書く子ども」だったから、彼の「自分は異端者」だという感じはよくわかるし、「普通だ」と言われてショックを受けるのはわかりすぎるほどわかる(笑)。

だから、文学や芸術に傾倒しない子ども達もそんなふうに葛藤するというのが、ピンとこない。「自分の才能」に関してうぬぼれつつ劣等感を感じるというのは、どんな道を進んでもきっと同じだろうけど、「あっちの世界」の子ども達は何も考えていないように見えた。世界と自分との折り合いなんてこと、人生の意味や“死”について、考えているのは自分だけだろうと……。

それが「うぬぼれ」なんだけどね。

もう一度やり直して、君みたいにすくすくと成長していけたら。まっとうで、陽気で、素朴で、公正で、秩序正しく、神とも世の中とも折り合うことができたら。(中略)ものを識ることと創造すること、その苦しみと呪いから解き放たれて、この上なく幸せで平凡な人生を生きて、愛し、神を称えることができたら…。 (P120)

そういうことを、「みんな」考えるもんなんだろうか。もちろん誰だって「もし違う道を行っていたら」ということは考えるだろう。でも他の人達にとって「モノを書くことの呪い」と同種なことって何なのかしら。

その後トーニオは故郷の街や北の国を訪れ、そこでリザヴェータに「ぼくはこの世界を愛している」という手紙を書く。彼が旅に出る前に、故郷へ立ち寄るかどうか、「それよ、私が聞きたかったのは」というリザヴェータは本当に素敵。

私はまだまだトーニオのように「世界を愛している。明るく陽気で、生き生きとして幸せな、平凡な人たちを愛している」とは言えないなぁ。「世界」は愛しているけど、「人々」はよくわからない。

でもよく考えたらこの言葉、やっぱりトーニオは自分を「非凡だ」って思ってるんだよね(笑)。「平凡な人たち」って、失礼だよね(爆)。

ともあれ予想よりずっと面白かった、『トーニオ・クレーガー』。

本書にはもう1作『マーリオと魔術師』という作品が収められています。こちらは何か、とても緊張を強いられる、「何が起こるんだろう?」という不安な感じが強烈。

その「緊張感」、ひたひたと迫る不気味さはうまいなぁ、と思うけど、なんなんだかよくわからないお話ではあった。「ムッソリーニ政権下のイタリアが舞台」ということを知れば、「なるほどこれは比喩か」だけれども……。

催眠術を操る怪しい魔術師に手玉に取られる群衆、知らぬうちにその「空気」に呑まれて、自分の意志をなくしてしまう。

うーん、でも背景を知らずに読み進んだので、「何なの?何が起こるの?え、それで終わり?」って感じでした。

原書の美しい挿絵も魅力的な新訳本。これからトーマス・マンを読んでみようという方にはお勧めの版です。