(9巻の感想はこちら

大河ドラマもいよいよ今週末には平治の乱に突入。慌てて10巻を読みました。

面白かった!!!

『さよなら、コンスタンス』よりもサクサク読めてしまったわ(笑)。

信頼方が院の御所に火をかけ、後白河院を内裏へ遷すところで9巻は終わっています。いちはやく危難を察知した信西は御所から姿を消していたのですが、さて……。

本文に入る前に、平治元年時点(平治の乱は平治元年の12月に起きました)でのそれぞれの年齢を確認しておきましょう。

まずは平家。

清盛42歳、時子34歳、重盛22歳、基盛21歳、宗盛13歳。清盛と時子は8歳も年が離れていたんですね。そして時子は二条帝の乳母でもあったそうな。大河ドラマの方ではフカキョンはずっと清盛の邸にいるような感じですが、二条帝の御所にはいつ頃いたんでしょう。

源氏方。

義朝37歳、由良(故人)、常盤22歳、頼朝13歳、常磐の長子今若7歳、乙若5歳、牛若1歳。常盤って15歳で義朝の子生んだんですね…。

頼朝は由良の子どもなわけですが、義朝の嫡男は頼朝ではなく「悪源太」と呼ばれた義平。平治元年で19歳ということは義朝18歳の時の子ども。16歳の朝長が次男で、頼朝は三男でした。義平と朝長の母はそれぞれ違うようで、義朝は一体何人の女に子を産ませたのでしょうか(笑)。

皇族方。

後白河院33歳、二条帝17歳、美福門院43歳、崇徳院41歳。

そしてその他。

信西54歳、信西の嫡男俊憲38歳、藤原信頼27歳、藤原忠通(前関白)63歳、藤原基実(現関白)17歳、藤原成親22歳。

信頼27歳!!! 後白河の方が6歳も年上!!!!!

びっくりしますね。大河見てると絶対信頼は30過ぎてますよね。後白河の方が断然若いのに(笑)。

その重さに馬が喘ぐほどの大兵肥満だったという信頼。しかも「中身がない」ということで塚地武雄のキャスティングはなかなかぴったりだと思います。松田翔太と塚地がデキてるのか…と思うとあれですが(どれだ)。

10巻読んでると信頼は塚地、信西は阿部サダヲ、義朝は玉木宏と見事に脳内再生されるんですよねぇ。肝心の清盛は松山ケンイチ出てこないんですけど(苦笑)。

松山くんがどうというより、大河の清盛の人物像とこの『双調』での清盛の人物像がかなり違っているので、重ならないんですよね。名前は同じだけど別の人のような。

成親も重盛もちゃんと吉沢悠、窪田正孝で再生されるのに。

しかし成親と重盛は同い年だったんですね。吉沢くんの方がどう見てもお兄さん。そして重盛は成親の妹を妻とするわけですが、双調の系図のところには二人の間に「男色関係」を示す波線が。

……平安時代怖い……。

さて。

平安京遷都から365年、平治の乱は都人が初めて直接に知った合戦であり、戦乱でした。

なんか保元の乱の時も似たようなことが書いてあった気がするんだけど、保元の乱の主戦場は都をはずれた賀茂川の対岸、白河の地だったということで、平治の乱の方が「都のど真ん中」。

最初に焼き討ちされた「院の御所」が三条東御所、その後、内裏(今の京都御所の辺りと考えていいのかしら?)で合戦。なるほど「都のど真ん中」です。

予想もしない事態――我が朝にかつてなかった「謀叛」という事態が起こったのだ。「謀叛の容疑」だけなら、この以前にいくつもあった。すべての「謀叛の容疑」は偽りに等しい。それは、政敵を葬らんがための口実でしかなかった。御世をご掌握なし遊ばれる院を拉し、院の御所に火を放つなどということをした者はない。 (P47)

院の御所に火をかけ、帝のおわします内裏を戦場とする……でもそんな大それたことを起こした当の信頼は別に後白河院に反旗を翻したわけではなく、ただ信西を排したかっただけなのですよね。まぁ二条帝をも幽閉同然にして内裏をわがものとするんですから、これを「謀叛」と言わずして何というのか、ではあるんだけど、たぶん本人にはあまりそんな自覚がない。

実務によって栄達を得る男など、貴族ではない。貴族たるものの誉れは、「働き」以外によって栄達を得ることである。信頼はその点で、王朝貴族の鑑だった。 (P33)

なんだかな、って感じですが、だから実務一辺倒の信西が天下を牛耳ってるのが信頼には我慢ならなかったわけです。後白河院の寵を受ける自分のが偉いじゃないか、邪魔すんなよ信西、と。

もちろん他の公卿達も信西を快く思ってはいないんだけども、さりとて院の御所に火を放つって何事だよ、ということで、信頼が招集をかけても誰も参内しない。

前関白である忠通ももちろん信頼のもとに参内などしない。忠通の息子であり現関白である基実は信頼の妹を妻にしているのだけど、基実にも「参内の要はない」と伝える。信西も邪魔だったけれど、信頼みたいな奴にへいこらするのも誇り高き摂関家の当主にとってはあり得ないことなのです。

なので仕方ない、信頼は二条帝の御前で信西とその子らの官を解く除目を勝手に行い、二条帝をも黒戸の御所(内裏の中の一画)へ追いやって、清涼殿を私する。信頼にとってもう「乱は終わった」だったのだけど、しかし肝心の信西はその時どうしていたのか?

御所を抜け出した信西は追っ手に見つかることなく逃げていたのだけど、頭のいい信西のこと。こうなった以上、誰も自分に味方する者がいないことは承知しています。

信西には未来がない。未来がないとは、思考する知恵に力が宿らないということである。(中略)天命が尽き未来を失った者には、思考が思考としての意味を持たないのである。 (P48)

未来がないことを悟って信西は土中入定を決行します。生き埋めになってそのまま「即身成仏」しようというのです。

潔いと言っていいのか、信西……。橋本さんは「信西に死のうという心はなかった。ただ現世を拒絶し仏の力を求めようとしただけ」と書くけれど。

土中で念仏を唱えること3日、追っ手が迫ったことを知った信西は結局土の中で自害して果てます。もちろん、「死んだか、そうか」では終わらず、その首は打たれ、信頼の邸の隣の獄門に晒される。

嗚呼、信西……。

大河でも「遣唐使の復活」とか、「大学寮の整備」とか、貧しい民への施しとか、摂関家なんかよりずっとちゃんと「国の運営」にいそしんでいたのに。

学の力によって、実務によって国を動かそうとしたのに。

けれど「死罪」を復活させ、為義や忠正の首を斬らせたのも他ならぬ信西だった。因果は巡るというのでしょうか……。

都で信西の首が憐れにも風に吹かれている時、清盛は何をしていたか。

清盛は熊野にいました。信西の息子とも信頼の息子とも縁組をしていた清盛は、「何かが起こる」ことを予感し、けれど「どちらにつく」かを決かねて、決めなくていいよう都から逃げた。(大河では全然そういうのじゃありませんでしたね。“清盛は信西から、大願成就のために熊野神社へ詣でるよう命ぜられ、旅立った。”ということになってる)

清盛が都を離れたからこそ、信頼は(そして信頼に与する義朝は)安心して事を起こしたのではありました。

清盛の留守を守るのは嫡男重盛。

事態に対する重盛の対処はなかなかのものです。清盛よりもずっとしっかりしてる。

重盛は当然都で起きたことを知らせるべく早馬を送るのだけど、知らせを受け取った清盛は狼狽し、義朝を怖れ、九州へ逃げようなどと言う。アホかいな。

『双調』では清盛は「都の武士」で、武者というよりは「貴族」の性格が強く、保元の乱でも実質戦っていないし、「義朝と戦って勝てるわけがない」と思うのも無理はないのだけど。

重盛からの二度目の使者で「嫡男がしっかり留守を守り、信頼には与しないという態度をとった」ことを知り、都に戻る頃には清盛の腹もどうにか据わっている。

で、その間に信頼による行賞が行われ、義朝は播磨守へ、13歳の頼朝は従五位下、兵衛佐に。けれど20日と経たぬ内に二人は官を失い、義朝は命をも失うのよね……。

というわけで続きます