『ユリイカ』で平成仮面ライダー特集だとぉ!と思わずポチってしまった雑誌。

実のところ『ユリイカ』をちゃんと読んだことなんかないんだけども、しかし詩と芸術評論の雑誌ということはだいたい知っているので、一体どんな平成仮面ライダー論を読ませてくれるのかとわくわくどきどき。

いや、面白かったです!

当たり前だけどグラビアとかなくて、最初から最後まで小さい活字がびっしり! もうこれだけで活字中毒者にはたまらない(笑)。

平成作品個々についての概観&評論、スーツアクターの高岩さん、脚本家の小林靖子さんへのインタビュー。フォーゼ役の福士くん、9月からの新ライダー・ウィザード役の白石くん、ディケイドの井上くん、NEW電王の桜田くん、そして555の沢田役の綾野剛くんへのインタビュー。

プロデューサー白倉さん、「リトルピープルの時代」でウルトラマンや仮面ライダーについての評論を展開した宇野常寛さん、作家の川上弘美さん等々による縦横無尽の「平成仮面ライダー論」。

もうあちこち付箋つけまくりでどこから紹介したらいいのかわかりませんが。

とりあえず『アギト』と『555』見たくなりました(爆)。

ええ、見てないんですよ、私。こう見えても(?)平成シリーズは『ディケイド』からの参戦ですから。全然素人と言っても過言ではない。

『クウガ』はBSの石ノ森章太郎特集の時にスペシャル版を見ましたし、『電王』は劇場版含めDVDでしっかり見て、『龍騎』もCATVでおさらい中(全話録画したのですがなかなか消化できずにいます)。

他の作品はディケイド内でのリライトされたイメージしかないのです。

『ディケイド』以降の作品をまず見た上で『龍騎』に遡ると、「うわー、昔の(ってほど昔じゃないけど)ライダーって大人っぽいな!」でした。

主人公達が大人っぽい上に、お話もたとえば『W』や『フォーゼ』とは全然違って、まぁ早い話が暗い。

『剣』本放送時にたまたまチャンネル合わせたことがあって、その時も「今どきの仮面ライダーはなんか難しくて暗いな」と思った覚えがあるのですが、『龍騎』とか5~6歳の子が見て面白いのかな。

いっぱいライダーが出てくるだけで面白いといえば面白いけど、毎回のお話もなんか筋があるんだかないんだか、進展してるんだかしてないんだか、って感じがして。

今、40話くらいまで見てるんですけど、「浅倉はもういい」とか思っちゃってます(爆)。

ディケイドもWもオーズも、そしてフォーゼも、2話ずつのストーリーですごいわかりやすいですよね。全体に明るいしコメディの要素も多い。

『電王』はイマジンがもう芸人顔負けのお笑い担当で、「時間がどうこう」ということがよくわからなくても楽しめると思いますが。

「わかりやすい」ことが「いいこと」だとはちっとも思わないし、この特集の中でも『アギト』や『555』に対する賞賛が多くて、シリーズが後ろへ行くほど尻つぼみな感じです(笑)。

『ディケイド論』なんて読んでもよくわかりませんし(爆)。

まぁこれは『ディケイド』という作品自体が途中で「オールライダー」になってよくわからなくなってしまったのが原因で、評者さんは精一杯論をまとめようとなさっている(と思う)のですけど。

「ディケイド自身に物語はない!」と作中で言っちゃってますものね。

『UN-GO』の脚本家である會田さんが途中でスタッフからはずれてしまって、前半は各平成ライダーのリライトの仕方もうまく良かったのに、後半で何でもありになって、TVシリーズが「ここで終わり!?」になって、劇場版に続くのかと思いきや今いち繋がらない方向に行っちゃって……。

劇場版の「オールライダーVS大ショッカー」はTVシリーズの「ライダー大戦の世界」より時間的には前らしく(実際、TVシリーズの最終回以前に公開されていますし)、MOVIE大戦の方が「ディケイド本当の終わり」になっているのだけど、しかしこれがまた「何のこっちゃ」で……。

「再放送時の特別編では第一話冒頭へループしていくことが示唆される」とか書いてあってびっくり。

え、関東ではそんなのが再放送として放送されたんですか!?

『平成仮面ライダーFINALエピソードコレクションDVD』とやらで最終二話の特別編が見られるそうですが……ううむ、そんなの買えないよ。(そもそもセブンイレブン限定発売で現在入手不可能らしい)

「ループ」ならその方が「あり」かな、とも思うし、パラレルワールドを自在に移動できるディケイドだから、劇場版はこの間の「スーパーヒーロー大戦」も含めすべて「パラレル」と思えばいいのでしょうけれど。

「ディケイドがそーゆー立場になってるそーゆー世界もある。無限に世界はある」って便利な設定ですよね。最初は平成ライダーの世界だけが相克してる感じだったのに……。

でも好きよ、ディケイドの世界。謎が謎のままの方が色々妄想できて楽しいし。鳴滝さんが何なのかさっぱりわからなくても好き。

この本にはディケイド=門矢士を演じた井上くんのインタビューが載っています。

士は記憶喪失だし、記憶がないにも関わらず「世界の破壊者」と後ろ指をさされる可哀想な存在で、それでも飄々と戦い続ける、「役作り」としてけっこう難しい役じゃないかなと思うのですけど。

インタビュー読んでると井上くんの「士」観がしっかりしてて、もちろん愛情も溢れてて、いいな、と思いました。正直最初見た時は「なんという大根」(笑)だったんですけどねー。でもあの下手くそっぽさがまた士のキャラとして活きてて今では癖になる(爆)。

“世界平和のために世界をまとめて悪を倒そうというのが普通のヒーローで、士だったらきっと地球を侵略しようとすると思うんですよ。(中略)士は倒されて死んじゃうんですよ。でもみんなはそれでひとつになって友情も生まれて、「世界平和になったな、よかった…」ってバタッと倒れるのが僕は士だと思っていて、そういう正義ですね。” (P48)

“だから白倉さんにもし次やる機会があったら僕を殺してくださいって言ってます(笑)。” (同上)

初期の平成仮面ライダーが「正義」や「ヒーロー」、「平成の時代の仮面ライダーのあり方」を模索して難解だったり暗くなったりしていたのに比べ、10年一区切りの「ディケイド」以降の3作品では明るさと引き替えに「正義の届く範囲」が狭くなっています。

『W』は「風都」という一つの街のお話で、後ろに「財団X」が控えているとはいえ、園咲家のミュージアムも風都の中でしか悪さをしていないように見えます。

『オーズ』では主人公映司くんの紛争地域での挫折を経て、「人を助けるのは自分の手の届く範囲」という話になり、『フォーゼ』ではついに「学校」という狭い範囲のヒーローになってしまう。

『フォーゼ』って、考えたら不思議ですよね。「宇宙キターっ!」で月にも行っちゃうんだけど、実は活動範囲は学園内という。

広いんだか狭いんだか。

孤独なヒーローだった仮面ライダーが「部活動」になってしまうところからして私には『フォーゼ』は微妙で、「特撮学園ドラマとして楽しめるけどでも好きかと言われれば別に」だったんだけど、飯田一史さんによるフォーゼ論は「なるほどなぁ」で、時代はこのように変化したのだなと。

「戦わなければ生き残れない」(『龍騎』)と言われたなら、被災地の人間はどう思うだろうか?隕石飛来により壊滅した渋谷を描く『カブト』が2011年夏からはじまる新番組だったなら、毎週観たいと思う人間がどれほどいただろうか? (P258)

まぁね。

単発の映画ならまだしも、毎週のテレビシリーズですし、一応子ども向けの番組ですし……。って、子どもに対して「戦わなければ生き残れない」と言えちゃった時代があったのが逆にすごい。

『フォーゼ』中で強調される「絆」にしても私はちょっとうんざりなんだけど、でも「すべてヒーローにお任せ」ではなく自分も「当事者」として関わり戦う、っていうのは重要な、そして考えてみればそれこそが「市民の成熟」なわけで。

「カリスマリーダーが現れてこの閉塞状況を全部ひっくり返してくれる」ことを待望する、っていうのは、もはや違うもんなぁ。

うーん。でもやっぱり仮面ライダーが群れるのは……そして「世界平和」を標榜しないのは、昭和生まれとしては寂しいというか……。

フォーゼでは怪人(ゾディアーツ)側が最後元の人間と「悪の塊」に分離して、そのおかげでフォーゼは心おきなくゾディアーツをボコボコにすることができるのだけど、それについても飯田氏は。

“人間と怪人とは同じテクノロジーや感情から生じうる、根源は同じだ、という石ノ森章太郎的なテーマからすれば「後退している」とみる人間もいるだろうが、人格と行為を分ける、その人間そのものに対する評価と個別の行動/タスクを分けて考える、というのは今っぽい考え方だな、とも思う。” (P257)

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は昔からあるし、表に出た「悪い行動」の裏には正義のヒーロー以上に複雑な「正義」だったり「葛藤」だったりがあるのかもしれないし。

「同じ学校の生徒だからそうそう殺せない。その葛藤を回避するために人間とゾディアーツは分離する」と私は思ってました。

うん、フォーゼの何がつまらないって、弦ちゃんが葛藤しないことよねー。流星くんが古いダチと新しいダチの間で葛藤してたけど、でもあれも意外とあっさり終わってしまって、終わったら流星くんのキャラが変わっちゃって……。

弦ちゃんはダチのために戦って、学園の全員を「ダチ」と規定する彼にとって、生徒が危機に陥ったら助けるのは当たり前。でも、だから彼は「その黒幕」という部分にはそれほどこだわっていなくて、「敵が現れたら倒す、という対症療法的なヒーロー」(P260)になっている。

“しかし「ルールより絆」のいまにおいては、根本原因を志向するよりも、仲間のことを第一に考えるほうが自然だろう(「見えない恐怖」の真実をつきとめて消し去ることができる、すべての人間が救われるルール変更ができるという確信が、だれにあるだろう)” (P260)

確かに「今っぽい」。

でもその敵も「仲間のことを第一に考えて」こっちを襲ってくるんだったらどうしたらいいんだろう……。いや、そもそも人間同士の争いって全部それじゃないかと思うけれど。

「世界征服」なんていうお題目じゃなくて、結局は食べ物とか富のぶんどり合いで、特に末端の兵士達は自分や家族が「食っていく」ために戦っていたりして……。

“そして、みながコミュニティの当事者であるかぎり、問題が、敵として現れる存在が完全消滅することはない。都度都度、「いろんな意見が集まって、ぶつかったりするうちに自然に調整が取れて、何となく全体の知恵みたいなものができていくのではないか」ということを信じて立ち向かう。” (P261)

「今」という時代にそれはきっととても「正しい」行き方なのだろうけれど、「ダチ」や「コミュニティ」の向こうの「全体」を見る人もやっぱりいないと……と思ってしまうのは私が昭和の人間だからなのか。

全体を俯瞰して理想を掲げても、「すべての人間が救われるルール変更なんか無理!」と言われてしまう時代になったんだなぁ。

いや、そういうのも昔からあったか。理想で飯は食えない……。

「孤高のヒーロー」好きとしては寂しい時代になってきているのですが、さて9月からの新ライダー『ウィザード』はどんなヒーロー像・世界観を見せてくれるのか。



って、あれ、まとまっちゃった(笑)。こう見えて続きます(爆)。

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