(上巻の感想はこちら

下巻は、上巻の最後の「これは科学なのか?」という問いに答えるところから始まります。

観測不能で検証することのできない“多宇宙”を引っ張り出してくる理論は果たして“科学”と呼べるのでしょうか?

実験や観測で検証できてこそ“科学”。でも、アインシュタインが相対性理論を考え出した時、その理論のすべてが検証できたかと言えば、そうではありませんでした。

地上と宇宙での時間の“ずれ”、ブラックホールの存在。「時間や空間が歪む」と言っても、その歪みを「ああ、なるほどここが歪んでるね」と目で見て指摘できるわけではありません。

また、量子力学はそのような“手の届かないもの”への依存をさらに進めています。

何しろ、その理論によれば「観測すると位置が変わってしまうので観測できない」だったりするんですから。

理論はまったく新しい必須の構成概念を導入するのだが、その理論自体によれば、その新しい概念はそもそも観測できない、という状況を。 (P14)

量子力学、謎すぎる……。

けれどもその理論による計算は、原子だかなんだかの振る舞いをかなり正確に予想する。

理論が信頼を増すためには、その特徴すべてが検証可能である必要はなく、さまざまな予測がしっかり立証されていれば十分だ。 (P17)

というわけで、「多宇宙論」も「実際に他の宇宙を見ることができない」からと言って「非科学的」だと斥けることはできない。むしろグリーンさんは

適切な科学の文脈において、多宇宙をもち出すことはまともなだけではない。そうしないことは非科学的な偏見の証拠といえる。 (P19)

と言っておられます。

私たちに観測できないからと言って、200億光年以上離れた場所に天体が“存在しない”かどうかはわからない。「観測できない=存在しない」と考える方が非科学的なのだから、「多宇宙」という概念についても、「観測・検証できないから無視する」というのはおかしいだろうと。

うん、まぁ、それはそうですよね。

多宇宙案を斥けるなら、それはそれで「科学的に」“他の宇宙は存在しない”ということを立証しなければいけないわけで。

グリーンさんの結論としては「これ(=多宇宙について考えること)は科学である」ということかと。

えーっとそれで、多宇宙理論を科学的に取り扱うということはつまり「特定の多宇宙から予測を引き出せるように」ならなければならず、それには大きく3つの課題があるそうです。

とりわけ難関なのが「無限集合の比較」の困難さ。

多宇宙論との関わりはあんまりよくわからなかったけど(汗)、「無限の大きさは比較の方法によって変わる」というお話は面白かったです。

整数の集合と偶数の集合はどちらが大きいのか。これ、不思議ですよねぇ。整数の集合は偶数の集合と奇数の集合を足したものだけれども、「100までの整数」というふうに区切らなければ、「無限に続く整数」と「無限に続く偶数」の集合は、どちらが大きいのか……。

また、どういう理屈で絡んでくるのかこちらもわからなかったのですが(大汗)「磁気単極子」のことが出て来て。

磁気単極子ってあれですよね!? アニメ『ロボティクス・ノーツ』に出てきたあれ、モノポール!

全然わからないけど知ってる単語出て来ると嬉しい……はははは。

そして、「多宇宙を考えることは十分科学的」という話の次は〈量子多宇宙〉。

量子力学っていうのはさっきもちょろっと出てきたとおり、「その理論によればそもそも観測できない」ということになってて、「ある粒子がどこにあるかを確率波で表現する」みたいになってる(※あくまで私のテキトーな理解なので、詳しく知りたい方は本を読んでくださいね)。

量子力学で有名なシュレーディンガー方程式というのがあって、なんかその方程式というか理論によると「一つの電子が同時に複数の場所に存在する」ことになる。

なんじゃそりゃー、というところで出てくるのが〈量子多宇宙〉。

量子力学的にありうるものはすべて(すなわち、量子力学が確率ゼロでないとした結果はすべて)、それぞれ別々の世界で実現するのだ。それが量子力学による多世界アプローチの「多世界」である。 (P84)

「一つの電子が同時に複数の場所に存在する」というのは、私たちの実感では考えられないけれど、「一つの電子が複数の場所に存在する」イコール「この世界ではここにあるが、他の世界ではあそこにある」ということだと考えれば、何も不思議はないじゃないかと。

「確率」が「多世界」を生む、というのはまぁ、なるほどという気はするけれど。

「日本が戦争に負けなかった世界」みたいなSF小説的「パラレルワールド」も、言ってみれば「可能性=確率」の世界ですから。

ただ。

多世界アプローチが直面している難題は、まったく異なる状況、すなわち、ありうる結果すべてが起こると想定している状況で、確率――量子力学の確率的予測――を解明する必要があることだ。簡潔に表現できるジレンマである――すべての結果が起こるなら、起こる可能性が高い結果もあれば低い結果もあると、どうして言えるのか。 (P104)

量子力学が持ち出す「確率波」ゆえに「(量子力学的な)多世界」が立ち現れてきたのに、「すべてが多世界としてありうるなら、それはつまり“起こる確率100%”ということで、“確率”が無意味になるんじゃないの?」という話になってしまう。

この、「確率と多世界は両立するか」という話はまだまだ全然決着がついていないそう。

問題としては面白いけど、ホントにもう「科学」というより「哲学」とか「論理学」みたいな感じで、どうやってそれを「数式」で表現するのか、それを説明する「物理学的な理論」ってどういう形式で記述されるんだろうって……。

〈量子多宇宙〉の次に出て来るのが〈ホログラフィック多宇宙〉。

どんな空間領域でも、そこで起こる物理現象を記述するために必要な情報は、その領域を囲む表面上のデータに完全にコード化できるので、その表面こそ、基本的物理過程が実際に起こる場所と考えるのももっともだ。(中略)私たちが慣れ親しんでいる三次元の現実は、そのような遠くで起こっている二次元の物理過程をホログラフィーで投影したようなものだというのである。 (P166)

これは、「多宇宙」というのとはなんか、微妙に違う気がしなくもないのだけど。

要するに、「情報こそすべて」みたいな考え方、なのかなー。

どこかにこの世界を記述する情報がすべてあって、その情報に基づいて再現された世界が私たちの世界。

「ホログラフィーのように、どこかで起こっている二次元の物理過程が立体的に再構成されている」……???

ホイーラーは、もの――物質と放射――を補助的なものと見なし、もっと抽象的で根源的な存在、すなわち情報の担い手と考えるべきだ、と主張していた。彼は物質と放射はどうやら幻影だというのではなく、むしろ、もっと基本的なものが形になって現れたものだと論じた。 (P128)

「それは情報なのだ」という考え方はとても面白いし、現代的だなぁ、という気がします。

すべては0か1のコードで表せる、「すべては情報である」って、コンピュータが発達したデジタル社会だからこそ出て来た考えのような。

詳しいことは理解できないので省きますが、この考えが生まれたきっかけにはブラックホールの研究も大きく関わっているそうな。

数学的解析は、あるブラックホールに含まれる情報の量を突き止めたが、情報そのものを理解する手がかりにはなっていない。 (P155)

これがホログラフィーをほのめかす最初の手がかりだった。情報の蓄積容量を決めるのは境界表面の面積であって、その表面内部の体積ではなかった。 (P156)

体積ではなく面積、つまり3Dではなく2Dの世界。情報は2Dしか必要としない。

うーん、わかるようなわからないような。

あらゆる形のあらゆる物体に蓄積されていて、ある空間領域内に含まれる情報の量は、つねに、その領域を囲む表面の面積(平方プランク単位で測定された)より少ない。 (P165)

それで、最初の「ホログラフィック宇宙」の定義(?)になって、「そこで起こる物理現象を記述するために必要な情報は、その領域を囲む表面上のデータに完全にコード化できる」という話になり、空間内で起こっていることは、境界面の情報を映し出したものである、という話になると。

なんか、実際にそういうことがひも理論の中で確認されているそうです。

この形の時空内のバルク内のひも理論は、その境界面上の場の量子論と同一である、ということになる。 (P177)

適切な数式を用いて変換すれば、境界面上の理論と空間内の理論が同一になる。まったく違う式に見えて、実は同じことを記述しているのだと。

面白いけど――面白いけど――そうだとするとどういうことになるんだろ。「境界面」ってなんだろ。そこに私たちの世界を記述する「情報」があったとして、その「情報」はなぜ生まれるんだろう。

どんな宇宙論にしても、「なぜ宇宙が、世界が生まれたのか」ということについてはたぶんわからないのだけど。

そして次が〈シミュレーション多宇宙〉。

これもいわゆる「パラレルワールド」とはちょっと違うけど、SFではお馴染みの世界です。

IT技術の発達で、私たちは仮想空間に色々なものをシミュレートできるようになってきている。もしも知覚能力を持った生物(つまりは人類のような生きもの)を含む世界をシミュレートすることができるようになったら。

自分達もその、「シミュレートされた存在」でないとどうして言い切れるのか?

私たちは何か上位の知的生命体によってシミュレートされた存在で、私たちが「実在する」と信じているこの世界は彼らが作り出した「仮想空間」なのかもしれない。

私たちの経験はすべて各自の脳によってフィルターにかけられ、解析されるのだから、自分の経験が実在のものを反映していると、どうして確信できるのか? (P201)

うぷぷ、こういう話大好きですわ。SFというか哲学としてもお馴染みの命題のような気がしますね。「我思う、ゆえに我あり」。でもその「思う」はどう担保されるのか。私が知覚し考えることが、誰かにシミュレートされたものでないとどうして言えるのか。

「神様が世界を作った」っていうのも、「シミュレーション宇宙」みたいなものだものね。

神様はシミュレーションが気に入らないと洪水とか起こしてリセットして、また一からやり直す、みたいな。

それが「神様」じゃなくなったとたん、自分達と同じようなただの知的生命体になったとたん、背筋がひやりとするのですけれど。

何十億人の人生をシミュレートするのなんて不可能に見えて、別に何十億人の人生をすべて一つ一つ定義する必要はなく、基礎的な情報を入れればそれが勝手に分岐・増殖していくようなプログラムを組めばいいわけで……。

で、そのプログラムを組んだ知的生命体も、別の知的生命体にシミュレートされた存在かもしれない。

延々と果てしなく続く(可能性のある)シミュレーション世界の入れ子。

やっぱりその一番最初のところは「神様」なんでしょうか……。

最後に出て来るのが〈究極の多宇宙〉。

グリーンさんが大学生の時に受けた哲学入門の講座が紹介されます。

そこに現実の世界があるとどうしてわかるのか?私たちは自分の知覚を信頼するべきなのか?個人のアイデンティティをずっと保つために、私たちの分子や原子を結びつけている糸は何なのか? (P224)

これまた私の大好きなお話です(笑)。

その講座を受け持っていたノージックさんという人は『考えることを考える』という大著を書かれているのですが、彼はこんなことを提案するのですね。

ある理論が別の理論をさしおいて選び出されるべきである理由を説明したくなければ、それを選び出さなければいいのだ。私たちはありうる宇宙すべてからなる多宇宙の一部だと想定することを、ノージックは提案する。 (P225)

大きく出たな、って感じですけど。

身も蓋もないというか。

「なぜこのようであるか」という疑問を無効化する考えですものね。「なぜって?たまたま僕らはこのような世界にいるというだけの話さ」

重要なのは、〈究極の多宇宙〉ではありうる宇宙すべてが確かに存在するので、存在という属性は宇宙に特別な地位を与えないことだ。なぜ、ある法則は実在の――私たちの――宇宙を記述するが、ほかはすべて無益な抽象概念なのかという疑問は、消えてなくなる。無益な法則などない。あらゆる法則が実在の宇宙を記述しているのだ。 (P226-P227)

私たち(というか私)にとって自分の「存在」というのは貴重で特別で、「なぜここにこのようにして存在するのか」ということを考えずにはいられない。

でも〈究極の多宇宙〉論では「存在なんてたいしたことないよ」なのです。

そうですか。

では。

〈究極の多宇宙〉という考え方は却下させていただきます!(笑)

グリーンさんも〈究極の多宇宙〉には懐疑的に見えます。もちろんそれは私のように感情的な拒絶ではなく、物理学的な、“科学的”な立場からの話ですけれど。

〈究極の多宇宙〉の話題では、また『神は数学者か?』の疑問が出て来ます。

数学は発明か、それとも発見か?

この問題に関する〈究極の多宇宙〉の立場は明快だ。すべての数学は何らかの実在の宇宙を記述するという意味で、すべての数学は実在(リアル)である。 (P231)

〈究極の多宇宙〉論にかかるとどんな疑問も氷解する、って感じですねぇ。そんなに「数学」というのは――我々地球人類の数学というのは万能なものなのでしょうか。

想像しうるすべての宇宙が存在するなら、私たちの数学がまったく適用できない、私たちにとってはでたらめとしか思えない宇宙というのも存在するはずですけれど。

なぜ無がないのか?もしあれば、無は決定的にエレガントだったことだろう。〈究極の多宇宙〉には、無からなる宇宙は確かに存在する。私たちの知る限り、無は論理的に完璧に可能であり、したがって、すべての宇宙を包含する多宇宙に入るはずだ。 (P227)

無を「決定的にエレガント」と形容するグリーンさんのセンスがとても素敵なんですけど、しかし「無からなる宇宙」……。どんなものなのだろう……「無」という「実在」って……。

ありうる数式すべてが異なる宇宙で実現している、という考えをさらに進めると、

ひょっとすると、数学は実在(リアリティ)の記述にとどまらないのかもしれない。ひょっとすると、数学は実在(リアリティ)そのものなのかもしれない。 (P233)

という話にもなる。

「神は数学者か?」どころか、「数学こそ神!」みたいな。

ホログラフィック多宇宙でも、境界面の2Dデータが3D空間の出来事を記述する、2Dデータと3Dの「現実」が等価である、というような考え方だったし、シミュレーション多宇宙ではプログラム(数式)によってシミュレートされた世界、というお話だからまさに「数式が神」なわけですよね。

そもそもこの宇宙が何らかの「法則」によって支配されていると感じるということ自体、その「法則」を「神」と崇めているようなもので、たいていの場合「法則」というのは数式で表せるもので……。

ううむ。

グリーンさんは「実在(リアリティ)」という言葉をよく使ってらっしゃいますが、この本、原題は「The Hidden Reality」なのですよね。「隠れていた宇宙」という邦題になっているけど、必ずしも「宇宙」にとどまらない、この世界の「実在」「実体性」そのものをテーマにしている。

下巻は特に、太陽や銀河系といったいわゆる「宇宙」よりも哲学的な「世界の実体」みたいな話で、でもやっぱり「数学による記述」が一つ大きな芯になっていて。

世界を数学で記述するにあたっては、「連続性と離散性」というのがまだまだ問題だそうです。

数式で取り扱うのは「近似値」であって、連続して見える曲線も、「点の集合」として表される。

点と点の間は無限に細かくできるはずで、でも「無限に小数点以下が続く」っていうのと、実際に私たちが知覚する滑らかで連続した曲線とのギャップ。

グリーンさんの説明はもっと違う話のような気もするけど(笑)、ずっと昔から3.14…と無限に数字が続くπと、閉じた円の関係が私は本当に不思議で。

計算すればずーっと小数点が続いてしまう円周が、紙の上ではなんてことなく閉じて実現しているわけですよ。なんで小数点以下の最後がぴしっと確定できないのか不思議でしょうがない。

紙に書いた円も、丸いお皿も、イデア界の理想の円とは違ってどこかしら歪んでいるがゆえにπではなくなる、ということはあるのでしょうけれど。

しかしグリーンさんはこうおっしゃいます。

私の推測では、知覚体験の備わったシミュレーションができてもできなくても、私たちは世界が根本的に離散的であることをいずれは発見するだろう。 (P245)

えええええ、そうなのぉ。連続じゃない、点の集合なのですか、世界は?

ひも理論とか量子力学とか、すごいミクロな世界を扱っていると、それ以上小さくはならないってことがわかったりするのかなぁ。〈ホログラフィック宇宙〉の話の時に、「平方プランク単位に情報1つだけ」みたいなことが出て来て、プランク単位ってものすごいミクロな世界だったのですけど……。

でも世界が点の集合だったらかえって3.14159…というような「無理数」の存在が納得できなくなるのかしら。

いや、きっと数学者の方にとって無理数なんて謎でもなんでもないのかもしれないけど。


ふぅ。

とりあえず、〈究極の多宇宙〉で、紹介される「多宇宙論」はおしまいです。

〈多宇宙〉が存在する、ということが証明されればどうなるのか。

他にも宇宙があるのなら、私たちの宇宙は当然「特別」なものではなくなる。「唯一ありうる宇宙」という特別な地位から滑り落ち、私たちの宇宙において「あるものがなぜそのようになっているか」を説明することは無意味になる。

他にも宇宙があるのなら、その性質は違っていたかもしれなくて、「たまたまこの性質を持った宇宙に自分達が生きている」ということになってしまうから。

私たちの宇宙だけが「絶対」などとは思っていなかったけれど、でも「なぜ世界はこのようであるのか。なぜ“私”はここにこうして存在するのか」の答えが「たまたまです」っていうのは、ちょっと寂しいなぁ(笑)。

もちろん、物理学的な答えが「統計的な可能性や単なる偶然」という身も蓋もないものでも、哲学的にはもっと親切な答えがありうるわけですけど。


いつか、「確かに他の宇宙が存在する」ということが証明されるのでしょうか――。