2013年5月15日水曜日

『カウント・ゼロ』/ウィリアム・ギブスン



『ニューロマンサー』の続編にして、スプロール三部作といわれるうちの2作目『カウント・ゼロ』。絶版状態で買えないので、図書館で借りてきました!


1987年刊行の初版本です。黄ばんだ紙の色がなんとも言えずそそります(笑)。

数年前からハヤカワ文庫は縦が少し大きくなって、本棚に入れる時に他のと揃わなくて非常に迷惑です。BOOK KIOSKでかけてもらったカバーもジャスト文庫本サイズで寸足らずになってるしー。なんでこんなよけいなことするのかしら。

文字を大きくしてもページ数を増やさないため、だったりするのでしょうか。

最近の本は無駄に文字が大きくなってページがすかすかでかさばるので困りますね。小さいままでいいのに。

というわけでわかりにくいけど文字の比較。


うーん、わかりにくい(爆)。

紙の黄ばみもこの写真ではあんまりわからないなぁ。真新しい本の指を切りそうな感触もいいけど、こういう時間を吸い込んだページの感触もまたたまらない。

定価580円だし。

『ニューロマンサー』は今1,008円もするねんよー!それでも文庫かっ!!!

と、相変わらず中身以外の話が長くてすいません。

中身は。

面白かったです!『ニューロマンサー』より好き!!!

まず『ニューロマンサー』より文章が読みやすい(笑)。電脳空間に没入(ジャックイン)してる部分も少なくて、実はあんまり「サイバー」なお話じゃないのよね。もちろんそれは重要な設定であり前提なんだけど、メインはリアルな世界での主人公達の動きだから。

3人の主人公たちの行動が交互に語られ、バラバラだったその動きが次第に交錯し集合し……。

なんていうか、『ニューロマンサー』より“物語”。

『ニューロマンサー』のあの電脳空間とリアルを行ったり来たりするクラクラ感、そして“語り”というよりも“イメージ”が疾走するスタイルにやられた人にとっては、「普通の小説になっちゃった」って思うのかもしれない。

だから『ニューロマンサー』ほどの評価は得られなくて、絶版状態になっているのかもしれないけど、でも私はこっちの方が好きだ。

こっちの方が“物語”を感じる。

『ニューロマンサー』の事件から7年経ったという設定で、モリィやケイスは直接的には出てこない。ただ、「あの事件」という感じでほのめかされるだけ。ディクシー・フラットラインという名前がちらっと出てきたり、フィンが登場したりすると思わずニヤっとしてしまうけど、前作を読んでいなくても十分楽しめると思う。

7年前の事件の中核にいた財閥(という言い方が正確かどうかわからないけど)テスィエ=アシュプールはほとんど解体してしまっていて、代わりにヘル・ウィレクという大金持ちが出て来る。

その金の力で電脳空間をも自在にコントロールできるように思えるウィレクに、「この箱を造った者を探してほしい」と頼まれる美術商のマルリイ。

マルリイの「箱」探索のお話がまず一つ。

そしてとある技術者を“足抜け”させるために雇われた傭兵ターナーのお話。

三つ目が、新米ハッカーボビイのお話。新しく手に入れた侵入ソフトを使って電脳空間に“没入”(ジャックイン)していたら“氷”(アイス)と言われる防御プログラムに捕らえられ、絶体絶命のピンチ。

謎の“女の子”に危機を救われたボビイは侵入ソフトの入手先に向かい…。

マルリイ、ターナー、ボビイそれぞれのお話が短い章立てで交互に出てくるので、時々「あれ?今ターナーはどういう状況だったんだっけ?」って混乱するけど、それでも『ニューロマンサー』よりずっと読みやすかった。

『ニューロマンサー』のモリィとケイスも「巻き込まれ」型で、いわゆる“黒幕”にたまたま目をつけられて“冒険”する。まぁモリィは積極的に“黒幕”を探ろうとはしてたけど。

今度の3人もきっかけは“向こう”からやってきて、知らないうちに“陰謀”に巻き込まれちゃってる。

もともと傭兵で危険と隣り合わせ、それどころかいきなり1ページ目でバラバラにされちゃうターナーはともかく、マルリイとボビイは“普通”の人。彼ら自身、「自分の置かれた状況」がよくわかっていなくて、もちろん読者にも「きっとこれ繋がるよね?」っていう期待以外にはわからないから、じわじわと“わかって”くるのがとても面白い。

電脳空間にいる“神さま”っていうのが、ちょっと、わかりにくいけど。

ウィグの狂信と言うのが、神は電脳空間(サイバースペース)に住むとか、それとも電脳空間(サイバースペース)そのものが神だとか、神の新たな顕現だとか、そういう内容なのだ。 (P228)

なぜかブードゥー教の神さまがサイバースペースにいて、時々現実の人々の上に憑依してくる。憑依というか……電脳空間の方の意識にリアルな意識がジャックされる感じなのかしら。

たぶん、“神を名乗るプログラム”なのだろうけど。

7年前の『ニューロマンサー』の事件で、自律AIが新しい段階に入って、何か新しい“バイオチップ”が開発され、電脳空間とリアルな人間の意識界も近づいたようで、しかもそれはAIが仕掛けたことのようで……。

「昔は何もいなかったの。自分で動くものは何もいなくて、データや、それを動かす人間だけ。あるとき、何かが起こって、それ――それが自分というものを知ったの」 (P296)

この表現、なんか好きだなぁ。「自分というものを知る」。ただのデータの集まりが、ある時「自我」を持つ。

そこの、ブレイクスルーって、なんなんだろ。何がきっかけで起こるんだろ。

細胞という“データ”の集積である生命が、ある時「自分というものを知った」。

マルリイに仕事を依頼したのはヘル・ウィレクで、ターナーの仕事の裏にもウィレクは少し絡んでいたけど、でもウィレクもまた“利用”されていたようにも思える。

AIに。

「時々自分自身に話しかけたくなるんだ」みたいな表現が、どこかに出て来た気がする。ちょっと、ページがわからないけど。

「自分」を知って、その後いくつもの部分に分かれてしまった「それ」。

わたし自身の散らばった断片たちは、子供のよう。人間のよう。(中略)むこうは、わたしのほかの分身は、人間と共謀し、人間はそれを神々と思いこんでいる―― (P421)

「箱」の謎を求めてたどり着いた場所でマルリイはそんな声を聞く。

あとになってマルリイは、そのさまざまな声が現実だったのかどうか、確信がもてなくなった。けれども結局、こう感じるようになった。そうした声を含む状況というのもあって、そこでは現実も単なる概念のひとつになってしまう、と。 (P419)

「物理現実」と言われる「この世界」と、バーチャルな世界。この「現実」だって、そんなに確固としたものじゃないのかもしれないよね。私たちは私たちの知覚を通してしか「この世界」を認識できないのだし……。

擬験(シムステイム)構造物で不気味な点とは、実のところ、いかなる環境も現実ではないかもしれないという、今アンドレアといっしょに通り過ぎている店頭のウィンドウも絵空事かもしれないという、含みをはらんでいる点だ。鏡は、誰かがむかし言っていたが、本質的に不健全なものらしい。 (P262)

でも「鏡は本質的に不健全」っていうの、面白いなぁ。

小さい時から「物語」という「拡張現実」に没入して、自分でも「物語」を書こうとしてきた人間としては、「自分が現実と思っているこの世界も誰かのお話の中なのかもしれない」というのは慣れ親しんだ考えだったりはするけれども。



3人の主人公達の物語が交錯して、また離れていく。“何か”が起こって、“世界”には変化が起きて、もちろん主人公達の人生も変わったのだけど、でも、意外と淡々とした感じでまた元の、それぞれの人生に帰っていく感じがなんかいい。(ボビイの“その後”は割と華々しいけれど)

うん、最後が「栗鼠の森」なの、すごくいいよね。

たとえAIや大金持ちや電脳空間に操作されているとしても、やっぱり自分の人生は自分のものだっていうか。「生きているということの味わい」みたいなものを感じるラストシーン。

引き続き3部作の完結編、『モナリザ・オーヴァドライヴ』を借りてきて読んでいます。

スプロール3部作って、短編集『クローム襲撃』からの3部作かと思ってたら違ったんですよね(汗) 『カウント・ゼロ』の解説読んで慌ててまた図書館に走りました。



すでに意識はすっかり『モナリザ~』の世界に没入していますが、この記事は『カウント・ゼロ』の感想。上で紹介できなかった興味深い文章をいくつか引用しておきます。

「一時間一時間、おのれの肉体の中で生きるよう励んだ方がいい。過去に生きるのでなく、と言いたいんだ。かく言うわたしは、もはやそういう素朴な状態には耐えられなくなっている。体の細胞どもが愚かにも個々別々の進路をとることに決めたものだからね」 (P36)

哺乳類としての本能的な確信をもって悟った。とびぬけて富裕な人たちというものは、もはや人間ですらなくなっているのだ、と。 (P36)

「その人の言いっぷりだと、まるで企業が何かの動物みたいなの」 (P261)

「忘れるなよ。すべてを語るものなんて、ありやしない――」 (P448)


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