2013年9月29日日曜日

『荒天の武学』/内田樹&光岡英稔



お馴染み内田センセと「韓氏意拳」という武術の日本会長という光岡氏との対談本。

対談なので、サクサク読めます。サクサク読めますが、光岡氏の言ってることはなかなか難しかったりもします。

何しろこちらにはそれほどの「身体実感」がありませんし、「武学」というタイトルではあるけど語られている内容は「哲学」に近い、「生きる」ということの本質を問うようなものだからです。

でも、それなのに読みやすい。

すっと心に入ってきます。

光岡氏が紹介してくださる「歴戦の勇者」のエピソードはどれもかなりすごくて、平和ボケした日本の主婦にはドラマの中の話としか思えないところも。

限定されたルールの中における強さがあっても仕方ない。 (P48-49)

と書かれているように、紹介される「勇者」達も、そしてこの本の中でテーマとされる「武」も、「いわゆるスポーツとしての武道」とはまったく別物です。

「やるかやられるか」、まさしく「命のやりとり」としての「武」。

なので「こういう時はこうする」という話ではありません。スポーツとしての練習なら、「こう手を取られたらこう返す」というような稽古でいいでしょうが、実際の「命のやりとり」の場ではそんなことを考えている間に殺されてしまいます。

相手が「想定内の動き」をしてくれるとは限らないわけで、「こうされたらこうする」というマニュアル的な動きしかできないところへ「想定外」が来たら、なすすべなくやられるしかない。

「問題を出されたので正解で応じる」という発想がまったく武道的ではないんだと思います。 (P74)

今はその、「武道的ではない」発想が社会に蔓延していますよね。

マニュアル作って、「想定外でした」と言えば済むような。「そんなこと書いてありません」とか「習ってません」とか。

ナイフ持った男が向かってきた時に「どうしたらいいか習ってません!」と言ってもしょうがないわけで、でもそういう「とっさの命の危機」に対する「稽古」なんて果たしてできるものなのかと思ってしまう。

韓氏意拳がどういう稽古をするのか、光岡氏が少しお話してくれていますけど、「ふむぅ」という感じです(苦笑)。

でも「自分の身体のセンサーを研ぎ澄ます」とか「身体をスキャンする」とかいうのは、ちょっとわかるんです。私の通ってる整体ヨガ教室でも似たようなことをよく言われるので。

もともと私は大変頭でっかちな人間で、ゆえに「身体」の使い方がわからず超絶運動音痴だったから、お二人が言う「頭(理屈)ではなく身体感覚を大事にしろ」っていうの、すごくよくわかるんですよね。頭ばっかりじゃダメだって。

整体ヨガに通うようになって、多少は体の使い方がわかるようになって、生まれてこのかた35年くらいできなかった逆上がりができるようになったりしたんですけど、「頭(理屈)で考えて体を動かしてたんじゃダメ」っていうか、「頭が体を使ってる」と考えてはいけないという。

内田センセにはそのものズバリ『私の身体は頭がいい』という著書もあるのですけど、光岡氏も

本性の身体は、すごく頭がいい。ご飯だって「消化しよう」と思わなくても消化してくれるわけですから。実は頭はいいけれど、一方で脳の作り出したバーチャルな身体があって、その部分がすごく鈍感なんです。 (P62)

とおっしゃっています。

人にとっての現実は思考で製造された社会体系が前提になるから…(略)。つまり錯覚を現実だと思えるわけです。これは昨日今日の話ではなく、文字や道具を使い始めたときから、ずっとそうなので問題は根深いです。言葉を使い始めた頃から問題はずっとあったのかなと思います。 (P63)

本当にこれは根深い問題ですね。

言葉大好き、blogや日記でやたらに「言葉」を吐き出さずにはいられない「言葉依存」の私にとっては実に耳が痛い話です。

と同時に、「言葉に引きずられる」という感覚もわかるので。

実際に自分がそう思っているのかどうか、感情でさえも、「言葉」で外に出したとたん、「概念」として提出したとたん、「それ」だと錯覚して、引きずられてしまう。

もやもやして形のない感情や思考を「言葉」という枠にはめることで、見えてくるものもあれば、逆にそぎ落とされてしまうものもある。

他人とコミュニケートするためには「共通認識」が必要で、言葉や概念といったある種の「枠」がなければ、理解し合うことは非常に難しい。時間がかかる。

でも「言葉」ですべて理解できるわけでもないし、「言葉」と「現実」はたぶん常にずれている。そのことを、自覚できるかどうか。頭の隅っこに置いておけるかどうか。

情報化された社会の知識を人間の身体感覚や存在そのものよりも重んじるような社会になっているわけです。そこに疑問を持たない限りまずいでしょう。 (P220-221)

けれども論理や理屈が増え過ぎると、それを用いて言い訳ができるようになる。「だからやってはいけない」という根拠が外在化したときに、「だからやっていい」という屁理屈や理由も外在し始めるわけです。 (P235)

光岡氏が披露している、エアガンで鳥を撃とうとしていた中学生くらいの子達とのやりとりがまた、なんとも痛いです。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」ということにさえも、「理屈」を求めてしまう私たち。法律に書いていなければ何をやってもいいのか、善悪とは「言い訳の出来」如何なのか。

生き延びるための知恵と力を高めること、それが武道修業の目的だとぼくは思っています。 (P50)

「武道必修化」ということで中学の体育の授業に「武道」(多くの学校ではおそらく柔道)が取り入れられていますけど、お二人の対談を読んでいると、いわゆる「スポーツとしての武道」を学校でやっても「生きる力」はあまり育まれそうにないのではないかと。特に柔道界はセクハラであったり暴力であったりが問題になっていますし、また授業や部活での死亡事故も突出して多い。

「先輩や指導者の言うことは絶対」というような前提での「武道」は、この本で言う「武」とはまったく正反対のものでしょう。生き延びる力をむしろ殺がれる……。

内田センセの「いつものお話」に加えて光岡氏のお話が新鮮な対談本でした。

頭ばっかりにならず、身体感覚を大事にせねば……。

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