STAP細胞騒動で、「科学者の不正行為についてはこの本を読むといい」と話題になっていた本です。現在このブルーバックス版は絶版状態なので図書館で借りてきましたが、今月20日に講談社から緊急再刊されるそう。



アメリカで原書が出たのが1983年、日本では1988年に化学同人から翻訳出版されたあと、2006年にこのブルーバックス版で再刊されました。

ブルーバックス版でさえ刊行から8年が経ち、近所の図書館では開架ではなく書庫に眠らされている有様、原書が出た時点からはもう31年の時が経過しています。

しかし!

全然古くない。

というか、「なんだ、STAP細胞騒動とか全然珍しくないんじゃん」という気にさせられます。

背表紙に

科学者はなぜ不正行為を繰り返すのか? ガリレオ、ニュートンなど大科学者から詐欺師まがいの研究者まで豊富な事例を通じて、科学の本質に迫る問題作

と書いてあるとおり、ホントに事例が豊富すぎて、苦笑してしまうほどです。

訳者序文の冒頭が

日本の科学者コミュニティは、このところ激震に見舞われている。捏造、改ざん、盗用など、科学研究における不正行為の発覚が相次いでいるからである。 (P5)

だったりしますし。

2006年時点の話ですよ、ええ。今の話じゃないんです。

原書が1981年までの事例しか扱っていないため、ブルーバックス版ではその後の世界と日本のミスコンダクト(不正行為)事件に言及した「訳者解説」がついていて、その中で理化学研究所のことも触れられています。

理研では2004年に発覚した不正行為を受けて、2005年に「監査・コンプライアンス室」を設置。これは日本の研究機関では最初の組織的な対応だったそうで、

こうした理研の対応は、研究機関のモデルケースとして評価されよう。 (P330)

と訳者さんはおっしゃっています。

その理研で今回のSTAP細胞騒動が起き、現在も「外部有識者による理研改革委員会が再調査を要請」するなどニュースを賑わせているわけで。

なんというか、ホントに、8年前の本とは思えないぐらいタイムリーです。

読んでいると、データの捏造や改ざん、盗用といった科学上の不正行為は決してレアケースではなく、未熟な若い女性研究者でなくても、「不思議ちゃん」でなくても、誰でもが起こしうることなのだと納得します。

背表紙に挙げられているようにガリレオやニュートンのような歴史上の偉大な科学者でさえ、データをきれいに整えたり、自分の理論に合うよう偽りのデータを報告したりしているのです。

プトレマイオスなどは古代の観測記録をさも自分が観測を行ったかのように用いていたのだとか。

バレたのは2000年後……。

まぁそんなコンピュータもない時代の科学者は仕方ないでしょ、という気もするのだけど、「理論に合うようにデータを操作する」という彼らのやり方は、「理論が正しかったから良かったようなものの」であって、彼ら「偉人」の背後にはデータも理論も間違っていた多くの埋もれた科学者がいたのだろうな、と。

科学者はみな真理を探究し、「科学」は他の人間の営みとは違って合理的で客観的で普遍的なもの――という一般的なイメージは決して正しくない、というのがこの本を貫く原著者のスタンスです。

「科学の本質に迫る問題作」という背表紙のうたい文句はそこで、ただ科学上のスキャンダルを面白おかしく取り上げるのではなく、「不正行為の芽は“科学”そのものの中に潜んでいるのではないか」という視点で書かれているのですね。

何か問題が起これば、科学者コミュニティは「それは特殊な個人のしでかした特殊な事例」だとして退けたがる。すべて責任は科学にではなく、罪を犯した個人に帰すべきだと。

そもそも科学には査読や追試、予算配分を決める審査会での審査などの「自己管理能力」があって、不正行為があったとしてもすぐに見抜かれる。すぐにバレるとわかっている以上、科学者個人もそうそう不正に手を染めるはずがない……。

ないのですがしかし。

そもそも「追試」には限界があります。

科学における栄誉はオリジナリティー、つまり何かを最初に発見した者のみに与えられ、まれな例外を除いて、二番手に対する報奨はない。 (P37)

「2位じゃダメなんですか?ええ、ダメです」という話で、追試をする科学者にメリットはあんまりない。それに、他の実験室で再現できなかったとしても、「だからその現象は存在しない」ということにはならないわけです。

「ない」ことを証明するのは無理なので、「A君がいる時しかあの実験成功しないよな」ということが囁かれたとしても、A君が「実験を捏造している」とは言い切れない。

「A君は非常に腕が立つために実験が成功するのだ」という見方もできるのです。

この本では1981年に起きたマーク・スペクター事件が取り上げられていますが、「彼がいる時にしか実験が成功しない」にもかかわらず、指導教授もすっかり騙され、スペクターに研究室を譲る準備までしていたのだとか。

けれどもその指導教授がただのお人好しかというとそうでもなくて、そもそもスペクターが実験結果を捏造するようになったのは、研究室に入ってくるなり「データを要求するのが常だった」教授の圧力が大きかったのかもしれないと。

教授を喜ばせたい、あるいは、目をかけてくれる教授を裏切りたくない、といった心情がスペクターに悪事を働かせたのかも。

科学者といえど人間である以上、出世欲や名誉欲、そして研究室内での人間関係といった「研究対象とは別の要因」に影響されるのは否めない。

まして現代では科学者は「職業」になっています。実験の出来不出来、論文の数、といったものが給料にも響き、最悪の場合はそもそも実験を続けられなくなる。高額な実験機材・環境を整えるための予算を獲得し続けるためには、「成果」を挙げ続けなければいけないのです。

「実験には失敗はつきもの」なんてのんきなことは言っていられない。

現代科学における報奨制度と経歴を重んずる構造が欺瞞誘発の要因となっており、これこそデータの利己的な操作が現代科学に固有のものであるという理由なのである。 (P136)

「経歴を重んずる構造」を利用するため、他人の論文を盗用して長々とした論文リストを作りあげたアルサブティ事件。

また、すでに実績のある「エリート科学者」や「エリート研究室」が絡む不正は見破られにくい。

「あの先生が共著者なら」という信用を、やっぱりしてしまうわけですよね。追試には限界がありますし。

偉人伝の主役として名高い野口英世の研究実績の中には今日(こんにち)「誤り」とされるものも多いのですが、それらの「誤り」がすぐに発覚しなかったのも、

フレクスナーの弟子として、また、最も権威ある研究所の花形として、彼はまさにエリートであった。それによって、欠陥を見つけ出す審査から免れたのだ。 (P151)

と解説されています。

意識的な改ざんとは別に、「見たいものを見る」という人間の心理によって過ちが起きることも多く、「白人の方が黒人より優れている」という説を支えた「科学的データ」も、それを信じたいと思う科学者の手によって「操作され」、それを信じたいと思う社会に広く受け入れられたのです。

「科学」それ自体は客観的な真理を追い求めるものであっても、科学者という人間はその時々の社会・政治の風潮から自由であることはできず、真に「客観的である」ことはできない。

企業の利益に反する研究をした科学者が全力で潰されたり(※一例:「無能な研究者のずさんな仕事……なのか?除草剤アトラジン問題のゆくえ」)、ノバルティス社の降圧剤バルサルタンに絡む不正も耳に新しいですね。

原発の安全審査にしても政治的圧力はまず間違いなくあるわけで。

「科学的に安全だと証明されている」という事例のどれくらいが真に「客観的に」なされた証明なのか……。

この本では、「監査の結果、50人の医師のうち16人が、検査の委託を受けた会社や行政機関に対して、検査薬品の偽造データを提出していたことを発見した」という事例や、「合計600種類以上の科学物質、食品添加物等の検査を請け負っていたアメリカの民間検査機関の検査は、そのほとんどが何ら根拠のないものだった」という事例も紹介されています。

疑い始めればキリがないとはいえ、「検査されてるから安心」「科学的にここまでは許容値だから安心」みたいなものを鵜呑みにするのがホント怖くなります。


訳文も読みやすいし、「読み物」として非常によくできていて、どんどんとページを繰ってしまいました。お勧めの一冊です。

最後に、あまりにもタイムリーな文章を引用しておきます。理研は果たして再調査の要請を受け入れるのでしょうか……。

若手の研究者がデータをいいかげんに取り扱ったことが明るみに出ると、そのような逸脱行為によって信用を傷つけられた研究機関は、事態を調査するための特別委員会を組織することが責務であると考える。しかし、そうした委員会は結局、予定された筋書きに従って行動するだけである。委員会の基本的な役割はその科学機関のメカニズムに問題があるわけではないことを外部の人びとに認めさせることにあり、形式的な非難は研究室の責任者に向けられるが、責任の大部分は過ちを犯した若い研究者に帰されるのが常である。 (P245)