『ホーキング、○○を語る』という本はいくつか出ていますが、これまで1冊も読んだことがありませんでした。

最初は『ホーキング、宇宙のすべてを語る』の方を借りようと思っていたのですが、


図書館で実物をぱらぱらめくったらそちらはこれまでにも読んだ「宇宙論のおさらい」で、特に目新しい感じではなかったので(もちろん読んでみたら知らないことだらけで勉強になったかもしれませんが)、「訳者あとがき」に「今回の本は哲学的要素が強く、これまでのホーキングの著書とは趣が大きく異なる」と書いてあるこちらを借りてみました。

「この宇宙はなぜあるのか?―存在の神秘」という第1章のタイトルからして哲学的ですし、第3章は「実在とは何か?――モデル依存実在論」で、「おおおっ、来た来た♪」とわくわくしてしまいます。

なぜ、この宇宙は存在しているのでしょうか?どうして無ではないのでしょうか?なぜ、私たちは存在しているのでしょうか?なぜ、自然界の法則は今あるようになっているのでしょうか?どうして、ほかの法則ではないのでしょうか? (P17)

「本書ではこの究極の問いに答えようと試みるつもり」などと言われて超期待して読み進めたら、最終的な結論は

宇宙の自発的生成が、なぜ宇宙が存在するのか、なぜ私たちが存在するのかという問題に対する答えです。宇宙を生成して発展させるのに神に訴える必要はないのです。 (P252)

というもので、「あれ?」と肩すかしをくらいました。

いや、まぁ、理論物理学者的には「Q:なぜ宇宙は存在するの? A:重力その他の法則のおかげで自発的に生成できたからだよ」としか答えようがないんだろうけども。

この本の原書は2010年に出版されてベストセラーになり、この「神に訴える必要はない」という結論が欧米のキリスト教関係者から強い反発を受けたそう。

えーっと、それ、こないだ読んだ『宇宙が始まる前には何があったのか?』でも言ってたよね。あれも「何もなかった。宇宙は無から生まれた」っていうのが結論で、「神様は必要ない」という部分がセンセーションを巻き起こしたと。

あれの原書の方がこの原書より出版年が後だった気がするけど、「無から有が生まれる」って話はこの2冊よりずっと前に出版された『相対性理論を楽しむ本』にも出て来ていて、物理学の世界ではすでに「あたりまえ」になっている話なんじゃないのかしら。

「宇宙創造に神様は必要ない」ってことを納得してもらうの、欧米では本当に大変なのね……。

古代ギリシャのイオニアでは「ほぼ地動説」が出て来ていたのに、その後アリストテレスの天動説的宇宙観が支配的になり、地動説が再び日の目を見るまでには1000年以上の月日が必要でした。(この話は『世界十五大哲学』にも出て来ました)

その理由の一つは、イオニアの理論ではしばしば自由な意志や意図、もしくは神が世界の仕組みに介入するという概念を差し挟む余地がなかったためです。 (P31)

自由意志はともかく、なんでそんなに神様が必要なのか……。

で、イオニア人の「ほぼ地動説」から1000年以上経って、ついにコペルニクスが「回ってるのは太陽じゃなく地球の方だ」って言うわけですが、ホーキングさん&ムロディナウさんは

プトレマイオスのモデルとコペルニクスのモデルは、どちらが現実に即しているのでしょうか?コペルニクスがプトレマイオスの間違いを証明したと言う人が多いのですが、真実はそうではありません。(P59)

とおっしゃるのですね。

地球が静止していると仮定しても、太陽が静止していると仮定しても、私たちの空の観測結果を説明することができます。 (P59)

観測結果をよく説明できるなら、それは別に「間違い」ではないのだと。

お二人は金魚鉢の中の金魚の例を出して、「金魚鉢の中の金魚から見える世界は歪んでいるかもしれないが、その“歪んだ世界”が間違っていて、私たちの見る“普通の世界”が正しいというわけではない」と。

結局のところ、私たちは私たちの持つ感覚器官でしか世界を感知できません。金魚や、もっと違う種類の感覚器官を持った宇宙人には同じ世界が違ったように映るかもしれず、宇宙人の認識する物理法則は私たちにはまるで理解不能なものかもしれません。でもそれは、どちらかが正しく、どちらかが間違っているというものではない。

モデル依存実在論の下では、あるモデルが本当かどうかは重要ではありません。そのモデルが観測結果をよく説明するかどうかが重要なのです。先の金魚と私たちの視点の例のように、観測結果をうまく説明できる2つのモデルがあったとしたら、片方のモデルがもう片方のモデルより本当だとは言えないのです。状況に応じて、便利なほうのモデルを使えばいいわけです。 (P65)

この「モデル依存実在論」の話は非常に面白かったです。「視点にかかわらず不変的に存在する実在」など存在しない。というか、少なくとも物理法則の研究において、そういう議論をしても仕方がないんですよね。検証可能なものが「科学」なら、私たちは私たちに検証できる部分しか取り扱えない。

「モデル依存実在論」によれば、私たちの脳は感覚器官からの信号を、外界についてのモデルを作ったうえで解釈します。私たちは家や木々、他人、コンセントから流れてくる電流、原子、分子、他の宇宙などについての心的な概念を形作っています。このような心的な概念は私たちが知ることのできる唯一の現実です。モデルに依存せずに現実を検証することはできません。 (P241)

現実とは「心的な概念」である。

これだけで読んだ甲斐あったな、と思います。

正直他の部分は、これまでに読んだものと重なるところが多くて。随所に独特のジョークが挟まっていて読みやすかったけど、「おおおっ!」というほどの感激はありませんでした。

ファインマンダイアグラムの話とか量子論についてはけっこう突っ込んで書かれていて、有名な「二重スリット」の実験をもし宇宙規模でやったらどうなるか、って話はほげーと思いました。

何十億光年離れた星からの光。つまり、今地球に届く光が放たれたのは何十億年も前。なのに私たちはその光を観測することによって、その何十億年も前の出来事に干渉することができてしまう。

光が片方の経路をとるか、両方の経路をとるかは、この場合何十億年も前に決まっていたはずで、地球や太陽が生まれるよりも前のことです。それにもかかわらず、私たちは実験によって、この選択に影響を及ぼすことができるのです。 (P116)

歴史が私たちを創るのではなく、私たちの観測によって私たちが歴史を創っているのです。 (P199)

うーん、何度聞いても「そんな馬鹿な」と思ってしまいますがだからこそ興味深い。

「宇宙のごく初期には空間が4次元あって、時間はなかった」という話も出てきて、「時間」って私たちが日常的に感じているのとはずいぶん違った実体を持っているのかもしれない。

「時間」がなければ「運動」が成り立たないだろう、と思いはするけど……。

速度は「距離÷時間」だし、「時間」がない場合のエネルギーとか運動量とかってどうなるのかなぁ。

宇宙の始まりを「南極点」にたとえて、「南極は他のいかなる点とも同じようなただの点」「南極もそれ以上南には何もないから、宇宙の始まりの前に何が起こったのかという質問は意味をなさなくなる」ってホーキングさん&ムロディナウさんは説明してくれていて、なんとなくわかったような気にはなるけど、それでも南極には外側(大気圏とか宇宙とか)があるし……とかつい思っちゃいます。

これと同様に、一般相対性理論と量子論を組み合わせると、宇宙の始まりの前に何が起こったのかという疑問は意味を持たなくなります。この歴史が境界を持たない閉じた表面をなすという考えは、無境界条件と呼ばれています。 (P192)

うむむむむ。

「宇宙が膨張している」っていうのも、「風船の表面」がよく比喩として用いられます。空間そのものが伸びてるのではなく、あくまで「二点間の距離」が大きくなっている。

世界は「球体の表面」のようなものなのでしょうか……。


あと、謝辞に

宇宙は無から生まれましたが、本が無から自発的に現れることはあり得ません。宇宙が創られるために創造主は必要ではありませんでしたが、本が出版されるためには制作者が必要です。 (P255)

とあるのが面白かったです。お茶目だなぁ。