「1万円もらえます、本買いに行きましょう」企画で衝動買いした「難しげな本」。

がんばって読んでます。

訳者あとがきまで含め601ページあるところ、もう341ページまで読みました。半分超えましたね。

かなり長いし、読み終わる頃にはきっと最初の方に書いてあったことを思い出せなくなっていること必至なので、とりあえず半分まで読んだ感想を書いておこうと思います。

まず。

ウィトゲンシュタインというのは高名な哲学者さん。名前は知っているけどもちろんその哲学の詳しい内容はよく知らないので皆さんそれぞれWikipedia等で確認してくださいね。

この本はそのウィトゲンシュタインさんが1939年(昭和14年)にケンブリッジ大学で行った講義の記録です。

と言ってもウィトゲンシュタインさん本人の講義ノートではなく(ウィトゲンシュタインさんはノートをまったく用いずに話をしていたそうです)、その講義に出席していた4人の学生のノートを元に、編者のダイアモンドさんが「1本の講義録」としてまとめたもの。

「当時のケンブリッジの学生さんはこんなに詳細に先生のお話を記録していたの!?」とびっくりしてしまうんですが、4人のうちの3人は「講義で取ったノート」を多かれ少なかれ自分で編集していたそう。「授業中にメモったノートそのまま」というのは1人分だけだったそうなのですが、それにしたってすごいです。

うん、その4つを突き合わせて内容の信頼性を保ちながら「読むに耐える」作品に仕上げるのは、並大抵の苦労じゃなかったと思われます。(そのあたりの事情は「編者まえがき」に詳しいです)

すごいなぁダイアモンドさん。

そしてありがとう。

で、この1939年の1月から6月にかけてウィトゲンシュタインさんが行った「数学の基礎をめぐる哲学的問題」の講義には、あのアラン・チューリングも出席していたのですね。

第二次世界大戦中に、ドイツの暗号機エニグマを解読したというあのチューリングさん。「チューリングテスト」も有名ですし、ベネディクト・カンバーバッチがチューリングを演じた映画『イミテーション・ゲーム』も話題になりました。

すでに天才数学者として頭角を現していたチューリング(1912年生まれですから、1939年当時は27歳ですね)に対し、ウィトゲンシュタインはたびたび名指しで質問をしています。

残念ながらチューリングは次回の講義に出席しない。したがって、次回の講義は幾分挿話的なものとなるだろう。というのも、チューリングが同意しないであろうことに残りの出席者を同意させてしまうのは適切ではないだろうからである。 (P119)

とまで言っているぐらいです。

「来週チューリング休みだっていうから話進めないでおくね」って、考えたらすごい発言ですよね(笑)。他の学生の立場は。

で。

そんな若き天才数学者を前に天才哲学者ウィトゲンシュタイン(1889年生まれということは1939にはちょうど50歳)が31回にわたって講義を繰り広げます。週2回、毎回2時間の講義だったそう。

扱われるのは「数学の基礎」ですが、書店で手に取った時に「これなら読めるかも」と思ったとおり、数式はほとんど出てきません。

「PかつQ」「Pの二重否定」といった集合論(?)の記号や、無限の大きさを表す「ℵ(アレフ)ゼロ」といったものがちょこちょこ出てくるものの、95%ぐらいは文章。

「第1講」目でウィトゲンシュタインさん本人が

日常言語を知っていること、これが、私が謎について語ることのできる理由のひとつである。もうひとつの理由は、私が議論しようと思っている謎のすべてが、最初歩の数学によって例示することができるということ(後略) (P18)

とおっしゃっています。

なので意外とさくさく読めます。内容を全部理解できるわけではもちろんないですが(^^;)

うん、読んでる最中はなんとなくわかった気にもなるんだけどね。「じゃあ前半の内容まとめて」とか言われると「ほげっ!?」ってなる(笑)。

前半で印象的なのは「正七角形の作図」です。

正五角形は、定規とコンパスのみで作図することができます。それと同じように誰かが――例えば「スミスが」正七角形を作図したとしましょう。

「スミスが正五角形を作図した」という文と、「スミスが正七角形を作図した」という文章との違いは何でしょうか。

「スミスが正五角形を作図した」という文(命題)は、真でも偽でもありえます。スミスは本当に作図したのかもしれませんし、しなかったかもしれません。スミスとしては正五角形を作図したつもりだったけれど、描かれたのは正五角形でないという可能性もあります。

翻って「スミスが正七角形を作図した」という文章は、ちょっと数学に詳しい人ならすぐに「嘘だ」と言いたくなるものなのです。

正七角形は、定規とコンパスだけでは書けないのですね。

「作図できない」ということを知っている人にとっては、「スミスが正七角形を作図した」という命題は即座に「偽」と判定したくなる。

でも「正七角形は作図できない」ということが証明される以前なら、「え?書けたの?すごいね!」とあっさり肯定されたかもしれません。

ある多角形が定規とコンパスのみで作図できるかどうかなんて普通の人はよく知らないでしょうから、そういう「普通の人」にとって、「スミスが正五角形を作図した」という文章と「スミスが正七角形を作図した」という文章は「同じもの」に見えます。

「言葉」としての意味用法は「同じ」でありながら、片一方に「数学的に不可能なこと」が入っているために、「それは嘘だ」が含意される。

これまでの議論にはひとつのポイントがあった。数学的命題の使用と、それと極めて似ているように見える非数学的命題の使用との間に、本質的な違いがあることを示す、というポイントである。 (第12講 P204)

ウィトゲンシュタインさんが言おうとしていることを私がちゃんと理解しているとはとても思えませんが、ざっくり言えば、「数学的に正しい」とはどういうことか、ということのように思えます。

一般に、「証明されていれば正しい」と思えますが、そもそも「証明する」とはどういうことなのか。

「2+2=4」が「正しい」というのはどういう意味なのか。

「2+2=5」が「正しい」とされる「数学体系」だって存在するかもしれない。「我々の数学」では「2+2=4」が成り立つように定義されているだけだ、とも言えるわけで。

ある定義や前提にのっとって“正しく”操作すれば、全員の「答えが一致する」。

一致するから「正しい」のか?

物事はすべて、我々が皆異なる結果を得ることはないという事実に基づいている。それゆえ、12×12=144は間違った結果かもしれないと言うのはとても馬鹿げている。それは、この結果を得ることにおける一致が、この技術を正当化するものとなっているからである。 (第10講 P185)

人々が一致せねばならないのは何なのか。彼らはこれを得ることにおいて一致する。彼らは「私はしかじかを得た」と言うこと――あるいは、最後に同じ数へと至ったということ等々――において一致するかもしれない。しかし、これが答えであるわけではない。まだ「答え」などといったものはない。(中略)まだ数学的命題は存在していないのである。 (第11講 P194)

自分の言葉で説明しろと言われると困りますが、ウィトゲンシュタインさんが何を問題にしているのかは、なんとなくわかる気がします。

「数学的な正しさ」と、「非数学的な正しさ」との違い。

数学者が諸君に与えるのは、ある種の目的のために用いることのできるモデルなのである。 (第5講 P94)

〈20個のリンゴ+30個のリンゴ=50個のリンゴ〉を証明するとき、我々はそれによって、〈20脚の椅子+30脚の椅子=50脚の椅子〉も証明したのかもしれないし、違うのかもしれない。 (第12講 P208)

これも面白い論点ですよね。

「20+30=50」という数式は、あくまで抽象的な「モデル」であって、具体的なリンゴとか椅子に関するものではない。

よく小学校の算数の授業で「でもリンゴは1個腐ってたかもしれないじゃん。だからリンゴ3個とみかん2個だけど食べられるのは4個が正解かもよー」などと混ぜっ返す子がいますが、あれってすごく重要な視点なんですよね。

リンゴやみかんは、腐ってなくても大小の違いがあるし、もしかしたら違う品種のものが1個ずつ並んでるのかもしれないし、でも「文章題」的にはそういう「具体性」を排した、ある種「イデアとしてのリンゴ」みたいなものを想定して、子どもに「数」だけを数えさせるわけです。

文章題が苦手な子の中には、文章そのものが苦手な子の他に、そういう「よけいな具体」を考えすぎて「抽象的な数式」に落とせない子がいたりする。

逆に算数が得意な子っていうのは、文章題に書かれている個別のモノなんかテキトーに読み飛ばして、「数」の部分だけパパッと抜き出して計算しちゃう。

黒板に描かれた円は実は正円ではないかもしれない。チョークやボールペンの「線の太さ」によって直径とか変わってくるんじゃないの?そもそもこの黒板ちょっとへこんでるし、などという「目の前にある具体」ではなく、あくまで「抽象的なモデル」を扱うのが数学。

その数学の技術を使って具体的な――物理的な事象を測ったりするけど、数学そのものは、物理的な事物に依存するものではない。

だから。

私は、数学的発見と呼ばれているものは数学的発明と呼ぶ方が遥かによいということを繰り返し示そうとするだろう。 (第1講 P32)

ユニコーンを発見するというのと同じ意味で、正十七角形の作図を発見する、というのはどういうことだろうか。それは、失くしていた紙を見つけ、そこに作図が示されていたというようなものだろう。 (第6講 P115)

ということになる。

先日「数学は人文系である」というblog記事を読んだのですが、「数学は自然科学ではない」っていうの、なるほどと思いました。

自然を分析するために(物理学等の道具として)数学を使うことはできるけど、数学そのものは「自然」ではなく「人間が造ったもの」。

一種の言語体系。

「後の言語哲学や分析哲学に強い影響を与えた」というウィトゲンシュタインさんが数学を取り上げるのもわかるし、教科の中では数学が一番好きだった私が文学部の言語系ゼミに進んだのも「なるほどそういうことか!」と思います(笑)。

まぁ、言語は言語でも外国語からきしダメだし、あんなに好きだった数学も、高校生のやってることがもはやわかんなかったりするので、私の経験は「数学は人文系」の何の証拠にもなりませんが。

数学が「発見」か「発明」かという話は、確か『神は数学者か?』という本にも出てきました。

数学が「発見」なら、この世界を作る時に神様は「数学」を使って世界を設計したことになる。それも、私たちが知っている、私たち地球人類の「数学の体系」を使って。

二乗すればマイナスになるという、一般人には不可解な「虚数」の概念が、量子論を記述するのに役立つという話を聞くと、「やはり世界は数学でできているのか!?」とも思いますが、私たちが「世界を記述するために数学を発達させてきた」とも言えるわけで、まったく違う思考体系を持った宇宙人なら、まったく違う記述方法で(私たちの“数学”とは異なる方法で)重力から何から自然のすべてを説明できるのかもしれません。

学生たちの質問や意見に「その通り。だが~」と続けていくウィトゲンシュタイン先生。もしも私が学生だったら「ウザいな~、そんなこと考え始めたら計算できなくなるじゃん」と思ってしまいそうです。

私の問いに対する先日のリューイの答え。リューイは「まあ、あなたが私に何と言ってほしいかは分かっていますよ」と言ったのだ。 (第5講 P95 “リューイ”は学生の名前)

なんて記述も出て来ます(笑)。

でもウィトゲンシュタイン先生は、「数学は本当に“正しい”のか?」ということで学生たちを論破したいわけではありません。

しかし私は、諸君が意見を変えるように説得しているのではない。私はただ、ある種の探究を勧めているのである。 (第11講 P188)

普段は「あたりまえだ」と思っていることについて改めてよく考えてみる。「正解」など誰にもわからないかもしれないことについて。

それこそが哲学。


がんばって最後まで読み進めたいと思います。


(感想後編はこちら