2015年11月3日火曜日

『九尾の猫』/エラリー・クイーン(ハヤカワ文庫新訳版)



『十日間の不思議』での失敗でいたく傷つき、「もう事件には首を突っこまないぞ!」と誓ったエラリー、一体どんなふうに復活するのかと思っていたら。

なんか、あっさり事件に首突っこんじゃってました。

ライツヴィルのヴァン・ホーン事件で、エラリイは驚くべき裏切りを体験した。いつの間にか、自分自身の論理に欺かれていた。使い慣れた剣が手もとで突然向きを変え、犯人へ向けられていたはずの刃が無実の人間を貫いた。 (P14)

と冒頭で『十日間の不思議』でのことが語られ、

「事件のことは聞きたくない」
「きっぱり手を切ったんです。もう興味はありません」
 (P15)

と確かに言ってはいるんですが。そのすぐ後に

しかし、それは〈猫〉がアーチボルド・ダドリー・アバネシーを絞殺する前の話だ。 (P15)

という文章が続いて、あっさりエラリーは探偵業を再開しちゃうんですよね。

「猫」というのはマンハッタンを震撼させた連続絞殺魔の仇名。アーチボルド・ダドリー・アバネシーというのはその第1の被害者で、5人目の被害者が出た後、エラリーの父クイーン警視が「猫」追跡の特別捜査班の責任者に任命されます。

まぁ、父親がしじゅう事件を追っている警察官なんですから、いくらエラリーが「金輪際事件には関わらない」と思っていても、事件の方からエラリーに迫ってくるのは致し方ないのですが。

5件の連続殺人のおかげでニューヨーク市民はパニック寸前。次の被害者は自分ではないか、家族が犠牲になるのではないか、警察は何をやっているんだ……。

最初の殺人が行われたのが6月3日の深夜。5件目が8月の19日。殺された人間同士には特に接点がなく、共通点も見当たらない。無職で引き籠もり気味の中年男性に娼婦、貧しい働き者の男、爆撃娘と仇名されるセレブの女性、半身不随でほぼ寝たきりの女性。全員を殺害する動機を持つ者は見当たらず、けれどもその手口から全員が同じ犯人に殺されたことはまず間違いがない。

タッサーシルクの紐を使った絞殺。被害者が男の場合は青い紐、女の場合はサーモンピンクの紐。

もちろん現場を目撃した者はおらず、紐以外の手がかりは一切残されていない。

絞殺が1回あっただけでは「連続殺人」にならないわけで、人々や新聞が騒ぎ出すのは3件目くらいからなのですが、新聞が犯人に「猫」という仇名をつけたおかげで、恐怖と疑心暗鬼に苛まれたニューヨークでは、現実の猫があちこちで絞め殺されたり、ペットショップで猫が全然売れなくなったり……。

新聞では殺人が起こるたび猫の絵に尻尾を増やしていきます。だから『九尾の猫』なんですが、原題は「CAT OF MANY TAILS」。最初からタイトルに9という数字を入れたら、事件は9件で終わるということがバレてしまいますものね。

とはいえ「たくさんの尻尾を持った猫」とか「多尾の猫」ではあまり格好良くないので日本語では『九尾の猫』となったのでしょう。「九尾の狐」の連想もありますし。

猫に九生ありと言うが、皮肉なことにその九番目が明暗を分けた。 (P257)

という記述があるので、殺人の数が「9」なのは「猫に九生あり」に引っかけているのかもしれません。九つの生があれば九つの死がある――。

「死」の前には「生」がある、っていうの、事件を解く重要な鍵になってますしね。

父親クイーン警視が特別捜査班の責任者になって、エラリー自身も市長に懇願され特別捜査官に就任してしまいます。誰が「二度と事件には首を突っこまない」って?(笑)

まぁ市長や警察委員長直々にお願いされたんじゃ仕方ありませんよね。ニューヨーク市民のパニックも、「あのエラリー・クイーン氏が捜査に協力」ということで一旦鎮まるわけで。何しろ

「だれかがかっとなったら、どうなるかもしれないんですか、委員長」
「ニューヨークをヒロシマより高く吹き飛ばすボタンが押されるってことだ」
 (P59)

という状況だったのです。(ちなみにこの作品の刊行は1949年。戦争への言及がけっこうあります)

さて、ライツヴィルのヴァン・ホーン事件でエラリーが負った痛手。警視はもちろん知っているけど、他の人は誰も知らないみたいです。

公にしないという条件で――警察に行くか自分で始末をつけるかだ、と言って真犯人を自殺させたのだから、あの事件の真相は公表されてはいない。遺書はあったし、彼がすっかり意気消沈していたことは周囲の誰もが知っていたのだから、自殺を疑う人間はいなかったでしょう。

でも。

彼が自ら命を断った夜、ライツヴィルにエラリーがいたことを知っている人がいる。タクシーの運転手、エラリーが訪れた医師。それにエラリーから電話で問い合わせを受けた探偵社だってピンと来そうなものなのに。

彼の自殺とエラリーを結びつける人はいなかったのかな……。

ともあれ市長直属の特別捜査官に任命されたエラリー、警察が気づかなかったちょっとした被害者の共通点に気づくのですが、だからといって犯人には結びつかず、殺人は9件目まで続き、市民達は自警団を作り始め、市長等を招いて開かれた集会は暴動へと発展してしまいます。誰かが挙げた「猫!」という叫び声でパニックになった人たちが逃げ惑い、商店を襲撃し――。

結局この暴動で39名もの死者が出るんです。負傷者は数百人単位。「猫」が殺したのはたった(と言っては何だけど)9人なのに。

人間の心理ってほんとにね……。

「猫」に殺された人間より同じ期間に交通事故で死んだ人間の方が多くても、「無差別殺人」の方が怖い。いつどこで自分が犠牲になるかわからないのは同じなのに。

騒動に疲れたエラリーがロックフェラー・プラザでぽつねんと座っていると、そこにあるプロメテウス像が語りかけてきます。

いまの世を見ていると、宗教が生まれてきた太古の昔を思い出すよ。つまり、現代社会は原始社会とおもしろいほど似ているということだ。たとえば、民主主義の政府にも権力は集中し、有力者とのつながりを用いてのしあがる者がいる。 (P226)

(だが、もっとも似ているものと言えば)それは、周囲の事物への反応のしかただ。ひとりではなく、群れで考える。そして、昨夜の不運な出来事でわかるように、群れの考える力はあまりにも貧弱だ。おまえたちは無知ではちきれんばかりで、無知はやみくもな恐怖を育てる。 (P226)

事件の謎を追うってだけじゃなく、こういう「社会の描き方」が面白いし、物語に厚みを加えていると思います。

9件目の殺人がきっかけでついに容疑者が浮かび上がり、現行犯で捕まえるために容疑者とターゲット(と目される人物)を監視する警察。いつ「猫」が尻尾を出すか――読んでても緊張します。

うん、面白かった。ランキングでは『災厄の町』の方が上位に来るらしいですけど、私はこっちの方が好きだなぁ。

この二作はあまりにも作品のタイプが異なるので、比較して優劣をつけることができないのです。(中略)「どちらの作風が好みか」という観点からの評価にならざるを得ないわけですね。 (P496)

と、解説の飯塚さんもおっしゃっています。

最後にまたエラリー傷ついちゃうんですけど、今度は「君はこの仕事を続けなくてはいけない」と優しく諭してくれる方がいて……良かったね、エラリー。

あと。

冒頭に、帰宅した警視を出迎えてレモネードを勧めるエラリーの姿が描かれてるんですけど、ここ、寂しかったです。「ああ、もう若き万能執事ジューナ君はいないんだなぁ」と思って。ライツヴィルシリーズはよその町だから出てこなくても気にならないけど、ニューヨークのクイーン父子のアパートにジューナ君がいないのは寂しい。

寂しいから国名シリーズ全部読み切らずに後に取ってあるんですけどね、ええ。

次はライツヴィルシリーズ4作目の『ダブル・ダブル』に取りかかります。

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