ライツヴィルシリーズの長編4作目。

ライツヴィル3作目だった『十日間の不思議』が1948年、ニューヨークへ戻って『九尾の猫』が1949年、そしてこの『ダブル・ダブル』が1950年の作品です。

『十日間の不思議』で「もう探偵なんかやらないぞ!」と言った舌の根も乾かぬうちに『九尾の猫』で連続殺人の謎に挑み、またしても最後にはライツヴィルでの失敗を思い起こすことになってしまったエラリー。警察官と一緒に住んでいる以上事件と手を切ることはできないにしても、「もう二度とライツヴィルには足を向けないぞ!」と思っても不思議じゃないと思っていたのに。

またすぐ行っちゃうんですよねぇ。

しかもエラリーの中でライツヴィルはやっぱり「もう一つの故郷」のような、愛着のある懐かしい町であり続けてる。

ええっと、君、あの失敗のこと本当に反省してる……? 1作目の『災厄の町』だって決して後味のいい事件じゃなかったと思うんだけど。

事件と、町自体はそりゃあ別ではあるけど、しかし、ライツヴィル、めんどくさい事件起こりすぎだよね……。

ライツヴィルから届いた2通の手紙。差出人の名前のないその手紙には、ライツヴィルで2人の人間が死に、1人の人間が行方不明になったという新聞記事の切り抜きが入っていた。死んだ男たちは病死と自殺で、特に事件性はないと思われ、その2件ともう一人の失踪事件にもこれといった関連はないように思われた。

けれどもわざわざそれを匿名で送ってくるということは……と興味をそそられていたエラリーのもとに、奇妙な娘がやってくる。少女のような、それでいて22歳と名乗る妖精のようなその女は、新聞記事にあった「行方不明の男」トム・アンダースンの娘リーマだった。

リーマは父親はすでに死んでいると信じており、はるばるニューヨークまで「父に何があったのか調べてほしい」と依頼に来たのだった。

で。

このリーマに、エラリーはあっという間にメロメロになっちゃうんですよ。父とともに掘っ立て小屋で世捨て人のような暮らしをしていたリーマ。世間のことはろくに知らず、鳥や動物たちと会話できるという、世間一般の女とはまるで違う魅力を備えた娘だったのです。

リーマという名前自体が、ハドソンの『緑の館』という小説のヒロイン――「南米の密林で育った野生の美少女」の名をもらったもので、彼女はまさにファンタジーの中から抜け出してきた娘でした。

リチャード・クイーン警視でさえ彼女には心を射抜かれたようで、

自己の私室を守る点に関しては純然たるイギリス式で押し通す警視が、今夜は自分のベッドをリーマに提供してもいいといい出したとき、エラリイは事態容易ならずと悟った。 (P51)

なんて描写が。

この後エラリーはそそくさとリーマをレディース・ホテルに連れていって帰ってくるんですが。

「もう帰ってきたのか?」と警視。
「見ればわかるでしょう」エラリイは冷ややかに答えた。「ぼくがなにをしてたと思ってるんです?」
 (P51)

警視は何を期待してたんでしょうか(笑)。

まぁエラリーもそろそろいい年ですし、独身主義を貫くかのような息子に内心やきもきしているのかもしれません。「お前もそろそろ身を固めたらどうだ」とか、言いたくなってるのかも。

ライツヴィルへの列車の中ではリーマがエラリーの膝を枕に寝てしまい。

ただ困ったことには――エラリイは実際困ったことになったと思ったが――彼は木の枝ではないのだった。普通の男が、これと同じような立場になった場合、はたして木の枝になった気持ちでいられるものだろうか? エラリイは、一刻も早く適当な若い詩人を探して、彼女をその男と結婚させてしまわなければいけないと決心した――そして彼は内心、自分が詩人になれたらなあ、と思っていた。 (P53)

はいはい、もうさっさと結婚しちゃえばいいじゃないですかー。女嫌いどころかけっこう“たらし”のくせになんで結婚しないんですか。“たらし”だからですか!?

というわけで冒頭からビミョーに冷ややかな目で読んでいたせいもあって、あまり面白いと思えなかったです。

二つの死と一つの行方不明、その謎を解く手がかりはまったく見つからない上に、誰がエラリーに手紙をよこしたのかもわからないまま時間だけが無駄に過ぎて、ついにもう一つの死が追加される。

一見するとどれも「殺人事件」というふうには見えない「死」。しかしものごとには常に表と裏があり、二つの可能性が……というのがタイトル『ダブル・ダブル』の所以。

やがてエラリーは「金持ち、貧乏人、乞食に泥棒、お医者に……」という子どもの数え歌通りに人が死んでいくことに気づくのだけど、誰が何のためにそれを仕組んでいるのかは一向にわからず、そもそも本当にそんな「犯人」がいるのかすらわからない。わからないまま次々と人は死に――。

言っていいですか?

エ  ラ  リ  ー  の  役  立  た  ず

いや、もちろん名探偵に犯罪を未然に防ぐ義務があるわけでもなく、最終的に犯人が捕まえられたのなら――それが名探偵のお手柄だったのなら、けなされる筋合いはないのかもしれないけど。

でももしあそこであれがああなるという偶然がなかったら、エラリーも真相にたどり着けないままだったかもしれない。しかもまたしてもエラリーは犯人に利用されているのです。『十日間の不思議』と同じように、「エラリーならわざわざこの事件を繋げてこう推理してくれるだろう」と。

また今回も犯罪の片棒を担ぐ格好になってしまったエラリー。今回は殺されかけて大怪我を負うから、それで多少の負債は返したことになるかもしれないけど。もしあの用心をしていなかったら、エラリーは確実に死んでたんだからねぇ。

ただ、最後に明かされた真相も、「えー」って感じではあって、今ひとつ納得行かないっていうか、いくら「ダブル・ダブル」=物事には常に二面性があると言ったって、あの真犯人は自分で彼を殺しておきながらのうのうと……。

犯人なんてそんなもの、ミステリ小説じゃなく現実の事件の方がもっと非合理で、「なぜそんなことを?」ってことが多いのかもしれない。ある人間に対してはとても優しくて「いい人」なのに、別の人間にはどこまでも冷酷になれるなんて、普通にあることだ。

さて。

ストーリーとはほとんど関係ないんですが、またスーザの名前が出て来ました。確か『十日間の不思議』でも出て来たのです。

エラリイは、暗い公園に入って行ってアメリカ軍楽隊演奏場のベンチに座り、スーザの幽霊と話でもしようかという気持ちになって、公園の入口に近づいて行った。 (P61)

OTTAVA聞いてなかったら「スーザの幽霊」ってどういうことかわからなかったろうなぁ。

彼女はフォーレの〈パヴァーヌ〉を知っているか? ヴォーン・ウィリアムズの〈タリスの主題によるファンタジア〉はどうかしら? (P83)

ヴォーン・ウィリアムズにだけ「イギリスの現代作曲家」という注記が付されてるんだけど、この翻訳が世に出た1976年にはみんなスーザもフォーレも知ってたのかしら。まぁ知識も注記もなくてもフォーレやヴォーン・ウィリアムズが作曲家の名前であろうことは想像がつくけれども。むしろさらっと「スーザの幽霊」って書いてある方が難易度高い。(ちなみにスーザは「星条旗よ永遠なれ」等を作曲した人で、マーチ王と呼ばれています)


ライツヴィルシリーズは読後感があまりよろしくないので、次はがらっと趣向を変えて(?)『クイーン警視自身の事件』を読みたいと思います。


※2022年、ハヤカワより新訳版が刊行されました。


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