(これまでの感想記事→1巻目『砂糖とダイヤモンド』、2巻目『踊り子探偵』、3巻目『シンデレラとギャング』、4巻目『マネキンさん今晩は』、5巻目『耳飾り』

ウールリッチ傑作短編集、最後の巻です。1巻から5巻までは門野集さんの訳、そしてこの別巻は稲葉明雄さんの名訳を採録したものになっています。なのでこの巻に収められた作品は「ミステリ作家としての全盛期」に書かれたものが多く、5巻目で晩年の狂気を楽しんだあとでは「なんかフツー」「ちょっと退屈」と思えなくもありません(笑)。

もともとこの短編集の企画は門野さん、稲葉さんと白亜書房の編集さんとで持ち上がったものだったようですが(1巻のあとがきに記述がありました)、稲葉さんが1999年に亡くなられ、稲葉さん訳のものだけ「別巻」に集める形になったそうです。

1936年から39年にかけて発表された作品6篇と、1947年に発表されたものが1篇。

ここまでずっと門野さんの訳で読んできて、やっぱり、なんとなく雰囲気が違います。5巻の「さみしい狂気」が強烈だったこともありますが、門野さんの訳の方が静かな――よりさみしい感じがするような。稲葉さんの訳の方がドラマチックというのかな。訳された年代(その当時の日本語)の違いというのもあるのでしょうが。

解説で門野さんが原文とご自身の訳を並べられ、稲葉さん訳と比べてみてください、とおっしゃっていて、その「違い」がなかなか面白いです。

ではいつも通り1篇ずつ見てまいりましょう。


【私が死んだ夜】

このタイトルを聞くとどうしても曽祢まさ子さんのマンガの方を思い出してしまう昭和『なかよし』世代なのですが。

お話はまったく違います(…もしかしてあれの原作なのかとも思ったのですが違いました(^^;))。

妻が自分の殺害を計画していると知った主人公、危ういところで難を逃れるのですが、妻にそそのかされ、別人を自分に仕立てて保険金詐欺をすることになるのですね。

まぁこの「妻」ってやつがとんでもない悪女で、夫を殺そうとした現場を押さえられてもがっかりするどころか、「これは絶好のチャンスよ」と夫をたきつけるのです。

「計画は失敗して、善人が勝ったわ。その点は問題なくみとめるわ。でも、あたしがあんたにかけた保険はまだ有効なのよ。一万ドルのお金が、あんたの手にはいるんじゃないの――」 (P16)

かくて主人公は妻の新たな計画に荷担し、無事保険金が下りるまで身を隠すことになるのですが……。

そうそううまく保険金詐欺なんてできるもんじゃないよ、身代わりなんて立てられないよ、という。

「バレないかな」「逃げられるかな」という主人公のハラハラドキドキ感と、最後の彼の言動。「私たちは100パーセントの善人でもなければ100パーセントの悪人でもない」というところがキモなのでしょうね。そんなに面白いと思いませんでした(^^;)


【セントルイス・ブルース】

盲目の「アダムズ母さん」を主人公にしたせつないお話。

ラジオから流れてきた強盗のニュース。それは5年前に家を出ていった息子ベンとその仲間が起こした事件だった。ベン達は母さんのもとへやってくる。隠れ家というよりは、ともかく一息入れるため、一夜を過ごすために。

やっと帰ってきた息子が悪党になっていたと知ったアダムズ母さんは……。

最後、逃げた男がどっちだったのか、「あれ?」と思わせるところがいいです。母さんには息子の顔が見えない。でもどのみち母さんにはわかっている。息子がずっと遠くへ行ってしまったことが――。


【さらば、ニューヨーク】

4巻目に収録されていた『毒食わば皿まで』にちょっと似ているかな。家賃その他まったく払えなくなっている貧しい若夫婦。やむにやまれずお金のために人を殺して、でもそのお金で家賃を払えるはずもなく(つい昨日まで文無しだったのにいきなり耳を揃えて払ったりしたら怪しまれることこの上ない)、夫婦で逃げるしかない。

ヤクザ者でも根っからの悪党でもない、平凡で、たぶん臆病でさえある男が貧しさゆえに罪を犯して、なんとかして逃げよう、逃がそうと奮闘する妻。二人の逃避行。

うん、でも『毒食わば皿まで』の救いのなさの方が好きだな。逃げる二人に明日はないけど、それでも二人は一緒にいて、お互いに事情をわかってるから。

いや……どっちの方が「救いがない」のかは、一概に言えないのかな……。生きて逃げ続ける方が、やっぱりつらいのかもしれないなぁ……。


【天使の顔】

弟の無実を一人だけ信じてくれる――というか、それを信じている彼女を助けたいと思ってくれる刑事が一人だけいて、お姉ちゃんががんばって「探偵する」というお馴染みのストーリーです。2巻に収録された『黒い戦慄』に似た感じ。長編『黒い天使』の雛形でもあるそうな。

刑事が彼女を助けたいと思う理由が「彼女が美人だから」だっていうのがすごいです。わかりやすい!

探偵としての武器もその美しい「天使の顔」。

「だめです、この女はあんまり美しすぎる! とても撃てない!」なんて悪党に言わしちゃうぐらいだからなぁ。

美人は得だなぁ。

原題は「Face Work」。「顔で働く」「顔がものを言う」みたいなことでしょうか?

美人だからってだけで刑事に力になってもらえるのかよー、と思ってしまうので、あまりハラハラしませんでした(笑)。


【ぎろちん】

これはちょっと珍しいタイプの作品でした。ウールリッチの短編としてはちょっと変わってるなー、と。

断頭台に登る殺人犯ラモンと、その死刑執行人との様子が交互に描かれ、最後には一つになる。

「ぎろちん」なので、舞台はフランスです。断頭台というとマリー・アントワネットとか想像しますが、フランスではかなり最近まで死刑執行にギロチンが使われていたのですね。

Wikipediaさんによると「1977年9月10日にフランス最後の死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)であるマルセル・シュヴァリエによって刑が執行された。」とあります。私が生まれてからもまだギロチン動いてたんだ……。

昔、宝塚で「ムッシュ・ド・パリ」っていう作品があったんですけど、このタイトルやばいですね。死刑執行人を指す言葉だったとは。

殺人犯ラモンはフツーに悪党で、無実の罪を着せられているわけではないんだけど、やっぱり「ギロチンの落ちる瞬間が刻々と迫ってくる」というハラハラ感はすごくて、「ラモン助かるのか?間に合うのか?」と思っちゃいます。

原題は「Men Must Die」。「死を約束された男たち」、あるいは「人は必ず死ぬ」みたいな?

でも解説に「原題の直訳そのまま」とあるので、英語でギロチンのことを「Men Must Die」と呼ぶのでしょうか……。(どうも原著のタイトルが複数あるようです。「Guillotine」「Steps Going Up」という別題が存在するもよう)


【眼】

全身不随で車いすに座ったまま、声も出せず手振りもできず、ただ眼で――まばたきだけで息子と心を交わすジャネット。

ある昼下がり、嫁が間男らしい人物と息子の殺害を企てていることを聞いてしまった彼女は……。

これ、読んだことあります。

うん、絶対知ってる。

これをヒントにした別の作品なのかな? ウールリッチ自身が長編『黒いカーテン』で再び同じ設定を使っているらしいのですけど(でもそっちは読んだことないはず)。

息子が殺されることを知っていながらそれを伝えるすべのないジャネットの焦燥と絶望。そこが一番つらく、ハラハラさせられます。「まばたきで会話できる」と言っても、ジャネットの方は訊かれたことに「イエス」か「ノー」かでしか答えられないので、相手が適切な質問をしてくれなければ結局何も伝えられないのですよね。

「おまえは今夜嫁に殺されるんだ!」なんて複雑な(そしてすぐには信じてもらえそうにない)こと、とても伝えられない。

真相は明らかになるとはいえ、悪妻に殺されてしまう息子は「母親思いの善良な男」なので、そもそも助けられないのがつらいです。


【非常階段】

表題作。これだけ1947年。晩年の作です。

2巻に収録されていた『目覚める前に死なば』、3巻の『ガラスの目玉』と同じ、子どもが主人公の作品。他の2つとおおよそ同じ12歳設定の少年ですが、その父親は刑事ではなく、まったく子どもの話を信用してくれない。

前2作よりも孤独感が強く、少年が幼く感じられます。

夏の夜、あまりの寝苦しさに非常階段の踊り場で寝ていた少年は、自分の住んでいる真上の部屋で人が殺されるところを目撃してしまう。

両親にそのことを話したものの、二人は信じてくれるどころか「またつくり話なんかして!」と少年を折檻する始末。

冒頭で「少年は同時に二つの世界に生きていた。小さな、わびしい現実と、まったく境というもののない空想の世界と」というふうに描写される彼、これまでにも何度か「つくり話」で親を困らせたことがあるようなのです。

「嘘をつくな!」と父親に怒られる少年。「はい」と答えれば、「じゃあさっきの殺人の話も作り話と認めるな?」と迫られる。「嘘をつくな」と言う父親は、その同じ口で少年に「嘘をつく」ことを強要するのだ。

部屋を抜け出し警察まで行ったものの、警察もやっぱり信じてくれない。

もうね、ほんと、読んでて「ぐおおおおおおおっ!」となります。

子どもだというだけで信じてもらえないんだから。「空想ばかりしてるんです」でおしまいにされちゃう。

犯人に掴まり、連行されていく途中でも、少年の「助けて!」という声は届かない。犯人達が親のふりをして「この子はまたつまらない映画ごっこなんかして」とか何とか言うだけで、みんなあっさり騙されてしまう。

少年は殺されようとしているのに!

「誰も信じてくれない」という絶望感がハンパない……。

いっそそのまま少年が殺されちゃって、「どうしてあの子を信じてやらなかったんだ」と悲嘆に暮れさせたいぐらいです。まぁ、殺されても真相が明らかにならなければ「彼が本当のことを言っていたのかどうか」「そのために殺されたのかどうか」もわからないので、死に損ですけども。

同じ少年が主人公の話でも、やっぱり晩年のものはトーンが違うと感じてしまいました。

孤独を募らせ、精神のバランスを崩していたらしい晩年のウールリッチ。それがこの作品にも滲んでいるのかなと。



傑作短編集全6巻、堪能しました。