2016年7月30日土曜日

『赤目姫の潮解』/森博嗣


ちょうど10年前のこと。2006年の9月頃、森さんの百年シリーズ2冊を読んだ。『女王の百年密室』と、『迷宮百年の睡魔』

とても面白くて、とても色々考えさせられて、感動のあまり森さん宛てに感想メールを書くということまでした。

そしたらなんと森さんから「ご丁寧に感想をお送りいただき感謝します」という返信が来てひょええええええ!

インターネット時代すごい!と思ったものである。

現在でも森さんの公式サイトからメールを送ることはできるのだけど、2009年以降はリプライはしていないそう。それまではすべてのメールに返信していらしたそうで……良かった、2006年で(笑)。

その返信メールには続きがあって、「このシリーズの続編は、来年か再来年になります」と書いてあった。

2006年の「来年か再来年」だから、2008年までには続編を書くつもりでいらしたのだろう。それで時折「まだかな?」「まだ出てないかな?」とチェックしていたのだけど、一向にそれらしい作品が見当たらず。

この『赤目姫の潮解』の単行本が出たのは2013年。「小説現代」に連載されたのが2012年の4月号から2013年の4月号まで、ということなので、予定より4年ほど遅れて形になったわけですね。

「あ、やっと続き出たんだ」と気づいたのはもう1年以上前だったんだけど、Amazonレビューなどを見ると『百年密室』と『百年の睡魔』の主要キャラだったミチルとロイディは出てこず、「これってホントに百年シリーズなの?」という印象だったので、読まないまま放置。

そうしたら今月文庫になってて。

そろそろ読むかな、と。

うん、ミチルとロイディ、全然出てこなかった。途中、犬の名前として「ロイディ」出てきたけど。

女王も出てこない代わり「赤目姫」といういかにもな女性が出てくる。「緑目王子」っていうのも出てくる。「黄色い目の紳士」もいたから「信号機?」と思ったらオレンジとか紫も出てきて、虹の色なのかもしれない。

どういう話か、説明するのはとても難しい。登場人物がみんな、あっという間に別人になっちゃうから。

意識が入れ替わる。

章ごとに話し手=「私」が違ったりするんだけど、その「私」の意識が途中で別人の肉体に入って……みたいなことになるので、「私」が誰なんだかよくわからなくなってくる。

一体誰の話なのか。誰の見ている世界なのか。

そこが、この作品のテーマだ。

「私」とは何か。「私」は本当に存在するのか。他人の肉体の中に入っている「私の意識」は「私」と言っていいのか。

ミチルとロイディは出てこないけど、ミチルとロイディが体現していたものがそれだった。10年前に読んだきりだから、詳しいことは覚えてないけど、ミチルの体に入っている脳は別人のもので、しかも実はその「脳」はロイディの方に入っていて、「意識」と「肉体」が錯綜しているのだ。

どっちが「主」でどっちが「従」なのかが判然としない。

「私は、端末にすぎません」
「端末?」
「入出力を受け持っているデバイスです」
 (P176)

という会話が出てくる。

人間だと思っていた女性が、「私は端末だ」と言う。

彼女は「端末」という言葉を使ったが、では本体はどこにあるのか。 (P176)

そもそも「本体」とは何か。私たちはみんな「自分」が存在すると思っているけれど――「自分の意思」があると思っているけれど。

「存在していると、なにか良いことがあるの? 存在していないと、どんないけないことがあるの? そもそも、存在って何?」 (P247)
「どうして、人間の意思というのは、自分たちの存在をそんなに気にするのでしょう」 (P248)

うーん、どうしてなんでしょうね。

私なんかは本当に「私」に固執していて、「死」によって「私」が消えてしまうのが本当に本当に死ぬほど嫌で怖いんだけども、生まれる前には「私」はいなかったし、「この肉体」が滅んだあと、よしんば「魂」が存続できたとしても、それは本当に「私」なのかという気がとてもしている。

「この肉体」でない「私」は、「私」でありうるのか。

……というわけで、相変わらずテーマはめちゃくちゃ私好みで、読み終わった時に「なるほどなぁ」と思ったのだけど。

1、2作目ほどは「面白いっ!」と思わなかった。

夢中にならなかった、と言う方が当たってるかな。

面白いんだけど――とても興味深いんだけど。

感想は、「なるほどなぁ」なのである。

物質は存在だが、波動は単に位置の変動。我々の意思は物質ではなく波動にすぎない。 (P186)

このくだりは、文章も波のように組まれていて、視覚的にも「波」になっていてとても面白い。

混信か。
波だから。
混じらずに、
入れ替わるのか。
 (P187)

波でもあり、粒子でもある光。私たちの意識も、そんなものなのだろうか。



最後の章のタイトルは、「フォーハンドレッドシーズンズ」。そこが日本で、一年が四つの季節で成り立っているなら、それは百年。

第1章から百年経ったのか、第1章の語り手と最後の語り手が同じ存在なのか、よくわからない。

でも、わからなくていいんだろう。

「私」とは何か、という問いに、明確な答えなどない。

最後の章では「人間と区別がつかない人形」の話が出て来る。それは必ずしも、技術が進んで精巧な人形=アンドロイドを作れるようになった、ということではない気がする。

神の御手に操られる私たち、という言い方は昔からある。大いなる存在によって作られた人形=人間。

私たちは、もっと高次のものが生み出した“物語”の中のただの登場人物、“たかが三次元の存在”でないと、なぜ言えるだろう。

その外側を、私たちは見ることができない。

そして私たちは、「私の意識」を通してしか、世界を認識することができない。私の意識が消えても他の意識にとって世界は存在するのかもしれない。でも、「私の世界」はそこでおしまい。

私はいつも一人だ。一人だから私なのである。 (P295)



「潮解」とは、物質が空気中の水(水蒸気)をとりこんで自発的に水溶液となる現象のこと。

赤目姫は溶けていく。緑目王子も溶けていく。

私たちは、何なんだろう。

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