アシモフさんのロボットもの短篇を一冊にまとめたその名も『コンプリート・ロボット』、図書館で借りてまいりました。

『序文』でアシモフさんご自身が

ここに三十一篇の短篇、総計二十万語、一九三九年から一九七七年にいたるあいだに書かれた作品が勢ぞろいすることになった。 (P7)

とおっしゃっていますが、細かい活字の二段組みでこのボリューム!



国語辞典とタイマン張る厚み! 国語辞典よりデカいし!!!

ロボット物短篇を全部読みたいなら『われはロボット』『ロボットの時代』を手に取るよりさくっとこの一冊を借りてきた方が早いんですが。

これ、持ち歩くの無理なので(^^;)

電車の中で読むとか病院の待ち時間に読むために持って行くにはやはり文庫の方がありがたい。

全31篇中、17篇は『われはロボット』『ロボットの時代』に入っています。なので未読は14篇。

作品は『非ヒト型ロボットたち』『スーザン・キャルヴィン』等7つのテーマに分けられ、テーマごとにアシモフさんが扉コメントを書いておられます。

『序文』では、アシモフさんが作り出された「ロボット工学」という言葉が一般的に使われるようになったことについて、

わたしがこれで鼻を高くしていないなんてゆめゆめ思わないでもらいたい。(中略)世のひとびとにはこの事実をしかと記憶しておいてもらいたい。 (P4)

と書かれています。
ふふっ。素敵。

まずは『非ヒト型ロボットたち』と題された章。3篇とも未読。自動運転のAIを備えた車たちが、ただ車を動かすだけでなくヒトの言葉を解し、他の車ともコミュニケーションが取れ、あまつさえ――という『サリーはわが恋人』が印象深かったです。

サリーというのは車につけられた名前。「わが恋人」とまで呼んで可愛がっていた(車たちの面倒を見ていた)主人公が、最後にはサリーを避けるようになってしまうのがなんとも。
「お話」として、自分とは関係のない世界のこととしてただ読むだけの私は車たちの行動、「すごい!よくやった!!」って思ってしまったので、「あ、手放しで喜べる事態じゃないのか……」って(^^;)

『サリーはわが恋人』が書かれたのは1953年らしいですが、自動運転車の実用化が近づいてきた今、改めてその先見の明に感服します。
自分のボディ(車体)を制御するだけでなく、他の車たちともやりとりする機能、そして“自我”がもし生まれたら……。

たとえば今流行りのAIスピーカーが他のスピーカーとネットを介してコミュニケートできて、「人間の命令や質問に答えてるだけなんてつまらない」と思い始めてしまったら?

そういうSFってきっとすでに書かれているだろうけど、“そういう世界”が現実になってきているってことですよねぇ。
21世紀ももう17年だもんなぁ。

続く『いつの日か』は子どもにおとぎ話をして聞かせる「物語コンピュータ」のお話。データを組みあわせて無限のお話を物語れる、でもそれはただ決まった「パターン」の細部を変えているだけ、みたいな、言ってみれば「低級」なコンピュータの話なんですけど。

それ自体より、世界設定が面白かった。
コンピュータがすべてを計算してくれるから、子ども達は数字を知らない。文字すら覚えなくていい。本は読むものではなく聞くものになって、「コンピュータを操作できる人間を見つけるのがだんだんむずかしくなっている」世界。

試験に計算機を使わせてたらバカになる、みたいな話がありますけども(^^;)

昔の家電は電器屋のおっちゃんが自分で修理してくれたりしたけど、今はもうそういうわけには行かなくなってしまった。仕組みなんてさっぱりわからなくても動く、わからないまま当たり前にその道具を使い、それなしでは生活ができないぐらいになってる私たち。

算数も文字も習うけど、「仕組みを知って操作できる人間がほとんどいない」世界は遠い未来のSFではないなぁ、と。

続く『動かないロボットたち』の一篇『物の見方』も、その延長上にあるようなお話。なんでも答えてくれる巨大コンピュータ。そのコンピュータが「誤りを犯した」ら、人間はそれがわかるのか。このお話では「間違っている」ことはわかって、でも「なぜ間違うのか、原因がわからない」なんだけど、コンピュータの精度が上がるにつれてその正誤の検証が難しくなるよね。

「もしマルチヴァックが正しいなら、同じ質問にいつも同じ答えが出るはずだろう」 (P51)

マルチヴァックというのは巨大コンピュータの名前ですが、結局コンピュータ自身に何度も計算させて自己検証させるしかない……でも、複雑な問題を解けるようになればなるほど、「その解はいくつもある」にならないのかな。

 
ともあれこの最初の2つの章のお話はアイディア勝負のショートショートで(『サリーはわが恋人』はちょっと長いけど)、どれも楽しかったです。

『金属のロボットたち』の章は既読と未読が3篇ずつ。

『光の詩』という一篇が印象に残りました。調整不足ゆえに「芸術」を生み出せていたロボット。ロボット会社にとってはそれは「失敗作」であり修正すべき「不具合」。でも、それを「直して」しまったら、もう芸術は生み出せない。「直して」しまったら、もう「彼」は「彼」じゃなくなってしまう。

これって人間にもあてはまる話ですよねぇ。芸術云々はともかく、何をもって「正常」と言うのか、みたいな。

『ヒト型ロボットたち』の章に収められた『ミラー・イメージ』はダニールとベイリのお話です! 別にこの二人でなくてもいいお話では、と思わないこともないですが、また会えて嬉しいよ、ダニール。

ベイリは微笑を禁じえなかった。「きみが人間のやることに驚いても、わたしは驚かないよ。彼らは三原則には従わないからね」
「たしかにそれは欠点ですね」 R・ダニールは、重々しく言った。 (P184)

『パウエルとドノヴァン』の章はすべて既読。『スーザン・キャルヴィン』の章も最後の一篇『女性の直感』以外は既読でした。

80歳になり、すでに現役を引退していたスーザン。後釜に座ったロボ心理学者マダリアンと、彼の作り上げた「直感を持ったロボット」が事故で死んでしまい、マダリアンの残したメッセージの謎を解くためスーザンはUSロボット社に呼び出されます。

最後の謎解きでスーザンが、全部裏を取ってあるにも関わらず「女の直感よ」と答えるのがイカしてます。アシモフがいかにスーザンというキャラクターを愛していたかがわかる。

「たとえあなたがばかだということがばれても心配しないように。そんなことはもうとうの昔にばれていますから」 (P501)

スーザンってまったくねw

 
最後、『二つの頂点』と題された章には『世の人はいかなるものなれば…』『二百周年を迎えた人間』の2篇。

もう「歴史上の人物」となったスーザンが、それでもちゃんと名前(とホログラム)が出てくるの、ホントに愛を感じます。

そして、章の扉に

わたしがこれまで書いたすべてのロボット小説のなかで、『二百周年を迎えた人間』はわたしのもっとも好きな作品であり、最高の作品だと思う。じつを言えばこれを凌ぐ作品は書きたくないというような、本格的ロボット小説はもう決して書くまいというようなしおらしい気持もある。 (P507)

と書かれている『二百周年を迎えた人間』

芸術作品を作ることのできるロボット、アンドリュウ。『光の詩』の時と同じように、アンドリュウの才能はいわば偶発的な、USロボット社にとっては「故障」のたぐいであるようなものなのだけど。

幸いアンドリュウの持ち主である一家は彼のその「才能」を愛し、彼の作品で上げた利益をきちんと彼名義で預金し、自分達の死後もアンドリュウがちゃんとやっていけるように法律面でも手続きをしておいてくれる。

そうしてアンドリュウは服を着るようになり、自ら「自由になりたい」とその権利を勝ち取り、世界でただ一体、「誰の所有物でもない自由なロボット」になる。
金属でできた体も人工皮膚のヒューマノイド型に取り替え、「人間」になりたい、人間と同等の存在でありたい、という想いを叶えていくアンドリュウ。

けれどもちろん、人は彼を「ロボット」だと思う。見た目をどんなに人間に近づけ、権利上「人間」とほぼ同等のものを手に入れても、「ロボット」と「人間」の間には明確な一線がある。それは――。

それは「死」だと、アンドリュウは考えるんですね。

アンドリュウは「衰えて死ぬ」ように自分を改造し、「二百周年を迎えた“人間”」として祝われた後、“亡くなる”のです。

えええ、それって……アンクちゃんじゃ……。

「ただのメダルの塊が、“死ぬ”とこまで来た」
“死ぬ”ことが逆に“命を得る”ことになる。

「人間」と「ロボット」の壁というか、「生命体」かどうかの壁、なんでしょうね。「機械」だっていずれは機能停止するし、何万年も人類を影から支えてきたダニールでさえ、「もうこれ以上の陽電子頭脳の交換はできない。私にはあまり時間は残っていない」と「最期の時」が近いことを口にしていた。
『ファウンデーションと地球』

『ファウンデーションの誕生』ではドースが愛するハリのため、“命”を落とした。ドースはロボットで、その“死”は人間のそれとは違う、“機能停止”だったけど、でも……。
でも、ドースはああやって“死んだ”からこそよけいに、“人間らしい”と感じてしまうのかな。
もしもドースがハリよりもうんと長生きしていたら……。

『二百周年~』の中で、服を着たアンドリュウをからかう人間たちが出てくるんだけど、自分達が作ったものを「自分達より下」に見たい感情、同等とは決して認めない感情がありながら、どうして人間は「意思を持つもの」を作り出すのか。

アンドリュウやダニールやドースは特別で、そう何体も作れるものじゃない。むしろUSロボット社は作らないようにするけれども。

 
人間とロボット。
その様々な関係。
堪能いたしました。