2018年1月18日木曜日

『クオーレ』(新潮文庫版)/アミーチス



突然の『クオーレ』です。

以前、『こんな本を読んできた:小学生篇その1』でちょこっと紹介していますが、かつて家にあった講談社版少年少女世界文学全集で読んで以来、ン十年ぶりに読みました。

ずっと「完訳版を読み返してみたいな」と思っていたのですよね。でも『こんな本を~』という記事を書いた時には完訳版を見つけられず、図書館の児童書の棚にあるのはボロボロの古いもので……。

ところが先日、一般書の外国文学の文庫棚にこの『母をたずねて三千里』カバーのものがあるのを見つけ、「おおっ!」と思い借りてきました。

1999年に『MARCO 母をたずねて三千里』というタイトルで公開された映画にあわせ、昭和30年以来の全訳版として、新訳で出版されたそう。


解説で訳者の和田忠彦さんが

むかしぼくが小学生のころ、講談社版の少年少女世界文学全集のなかで「母をたずねて三千里」のアマゾンの密林の描写がこわくてたまらなかったのも(後略) (P503-504)

と書いてらして、「わぁ、訳者さんも同じものを!」とちょっと嬉しかったです。ふふ。

で。

思いっきり『母をたずねて三千里』なカバーなんですが(表紙のみならず、見返し部分にもアニメ画像がカラーで収録されてる)、『クオーレ』は10歳だか12歳だかの男の子が書いた“日記”風の小説で、『母をたずねて~』は学校の先生が「今月のお話」として紹介してくれる挿話として挟まれているにすぎません。

全部で9篇ある「今月のお話」の中では一番長いとはいえ、60ページ程度。本編480ページくらいあるうちの60ページなので……よくこれを一年間52話のアニメにしたよなぁ、と今さらながら感心してしまいます。

子どもの頃、エンリーコの「日記」の方に感動した覚えのある身としてはあまりにマルコな表紙にムズムズしますが、しかしマルコの映画化があったからこそ昭和30年以来(つまり44年ぶり?)の全訳本が出たわけで。

映画公開ありがとう。
新訳での全訳出版ありがとう。


昔読んだ『文学全集』では確か『クオレ~愛の学校~』という邦題だったと思います。「クオレ(CUORE)」というのはイタリア語で「心」の意味だそう。

この本は、とくに九歳から十三歳の小学校の子どもたちに献げられています。ですからタイトルを、『ある三年生の男子生徒の書いたイタリアの公立小学校の一年間の物語』としたっていいかもしれません。 (P11)

という前書きがついていて、解説では「日本の四年生にあたる」「十歳の少年の言葉」と書かれているのですが、本文ではときどき「4年間」みたいに出てきたり、両親に対して「十二年間の感謝」みたいな言葉が出てきたり、主人公エンリーコは結局何歳で何年生なのかがよくわかりません(^^;)

「一年上級」という言葉が出て来るので、「一年生」は「上級下級」の二年間で、だから「三年生」だけど学校は「四年目」なのかな?とも思います。また、同級生の中には病気で学校に上がるのが遅れた14歳のガッローネという少年がいたり、エンリーコより「小さい」子もいるようなので、現在の日本の学制をあてはめても仕方ないのかも。

何しろこの『クオーレ』が出版されたのは1886年。明治の19年です。

日本で小学校令が出されたのがちょうど明治19年。これからやっと近代的な学校教育が始まる、という時期だと思いますし、文芸の世界でも1885年に坪内逍遙『小説神髄』、1886年二葉亭四迷『小説総論』、1887年同じく二葉亭四迷の『浮雲』……と近代小説が誕生する頃合い。

イタリアでは三年前に『ピノキオ』が出版されていたのだとか。

そしてイタリアが「イタリア王国」として統一されたのが1861年。『クオーレ』が世に出たのはその25年後ということになります。

なのでこの『クオーレ』、今読むとかなり「愛国的」な色彩が強くて、毎月の「先生のお話」にも「ロンバルディーアの少年監視兵」「サルデーニャの少年鼓手」といった、“お国のために”戦って傷ついたり死んだりした子どもたちが出てきます。

勇敢な子どもたちと、彼らの犠牲に感謝と賞賛を捧げる大人たち。美談だけど、「子どもがこんな目に遭っちゃいけないんだよ。そんな犠牲を褒めちゃいけないんだ…」という気にもなります(^^;)

新学年が始まってすぐ、担任の先生が

「イタリアの子は、イタリアのなかなら、どこの学校に行っても兄弟に会えるのだということを、わからせてあげてください」 (P24)

「そんなことができるのも、わたしたちの国が五十年間のたたかいで、三万人のイタリア人を亡くしたおかげなんだ。だからきみたちには、たがいに敬い、なかよくしていく義務がある。けれどもしも、きみたちのなかに、わたしたちの同級生がこの地方の生まれでないからといって、いじめるようななかまがいるとしたら、そのひとは、三色旗がとおるときに、二度と目を上げてみつめる資格などありません」 (P25)

って言うの、感動的でうるうるするし、時々はさまれるエンリーコの両親の言葉も素晴らしくて、「こんな大人ばかりだったら子どもたちは幸せだろうに」と思わされます。

きみの本がきみの武器、きみのクラスがきみの部隊、そして戦場はこの世界全体なのだから、人間の文明こそが勝利というわけだ。ひきょうな兵隊さんになってはだめだよ、エンリーコ。 (P39-40 とうさんより)

あなたたち子どもが、この日に、心から思いをささげなければならないのは、どんなひとたちなのかしら? それは、あなたたち子どもや、赤ちゃんのために亡くなったひとたちなの。 (P47)
だって、その子のために、若さのたのしみや、心静かな老後や、愛情や知恵やいのちを犠牲にしたのですもの。(中略)それくらい、あなたたち子どもは愛されているの! (P48-49 かあさんより)

今読むと「あまりに説教臭い」というか、「道徳的読み物すぎる」と思う部分もあるんですが、子どもの頃の自分がエンリーコの学校生活やお父さんたちのあたたかい眼差しに感動したのも事実で。

エンリーコの通う教室には、「同じ学年」でも年齢の違う子、色々な家庭の子がいて、とても貧しい子や片腕のきかない子、親にいつもぶたれている子なんかも出てきます。

そもそも「学校に行っていない子」「行かせてもらえない子」もいるし、エンリーコとたいして変わらない年の子どもが「昼間は働いて夜学ぶ」夜学の描写もあったりする。

三年がおわればきみは中学にいくし、友だちは働きはじめるだろう。 (P333 とうさんより)

という言葉もあります。
エンリーコが10歳だか12歳だかわからないけど、それぐらいで働き始めるのが当たり前の時代。

これからさきこんな友情を手に入れることはとてもむずかしいだろう。つまり、きみが属している社会以外の人間との友情だ。きみが一つの階級しか知らずに、その社会階級だけで生活する大人になったなら、それは本しか読まない学者といっしょだ。 (P334 とうさんより)

エンリーコはいいとこの子っぽいです。働かずに中学に行くってだけでも当時では「恵まれた」環境だったでしょう。

色んな背景を持った級友たちとの日々の触れあい、厳しくも優しい先生たち、そして愛情深く教育熱心な両親。

あまりに理想的にすぎるし、今の子ども達には「異世界」に映るかも(^^;)
でも、

かわいそうな先生たち! おまけに文句をいいにやってくるおかあさんたちがいる。 (P59)

って箇所で挙げられてる「おかあさんたちの文句」は今とほとんど変わりません。
「うちの子はどうして勉強しないんでしょう?」「どうしてうちの子は優等賞がもらえないの?」「なんで釘を抜いとかないんです?うちの子がズボンひっかけたじゃありませんか」

どうして勉強しないのか……先生の方がお母さんに訊きたいでしょうね。

10月から始まったお話は7月の進級試験で終わり、小学生といえども落第すると進級できないようです。試験に取り組む様子を描写しながらエンリーコは

問題がとけないのは、その子たちのせいだけじゃない。勉強する時間のない子や、かわいそうに、親にかまってもらえない子もいるんだから。 (P483)

と言っています。
「うんうん、ぼくのせいじゃない!」とうなずきながら読んだ子も多かったかも……。

解説によるとこの『クオーレ』、新学年の始まる日にあわせて書店に並び、わずか二か月半の間に40回も版を重ねたそう。子ども自身の目線で綴られた「学校生活の物語」って、当時は画期的だったのでは。

しかも「先生のお話」として学校とは無関係な、でも自分達と同じ「子どもが主人公の物語」も挿入されていて、一粒で二度美味しいみたいな(笑)。

出版からン十年経って、時代も環境も違う日本の子どもだった私も、とても楽しくページを繰ったものなぁ(しみじみ)。


ところで。
『母をたずねて三千里』、久しぶりに読みましたが、行く先々で「ここにはいない」と言われまくる展開、技師のメキネスさん(マルコの母が住み込みで働いている家)は引っ越し魔なんかい!?とツッコミたくなるほどでした。

アニメではかなり幼い感じのマルコ、原作では13歳となっていました。それでも一人でイタリアからアルゼンチンに渡って、「ここにはいない」と言われまくりながら旅を続けるにはまだまだ幼いですけども。


ン十年ぶりの再読、楽しかったです。

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