2018年4月10日火曜日

『モノに心はあるのか:動物行動学から考える「世界の仕組み」』/森山徹



先日読んだ『脳はなぜ心を作ったのか』に今ひとつ納得できなかったので、もう一冊「心」絡みの本を借りてまいりました。昨年の12月に刊行されたばかりの新潮選書、新聞の書評で存在を知りました。

著者の森山さんは主にダンゴムシの研究をされている方で、『ダンゴムシに心はあるのか』という本も出されています。



ダンゴムシの実験と、「ダンゴムシにも“心”はある」という話は本書にも出てきます。これまでの研究を踏まえて著者がたどり着いた「心の正体」を、平易な文章で、エッセイのような雰囲気でまとめてくださっています。

うん、非常に読みやすかったですし、200ページちょっとの内容、割とすぐ読めてしまったんですが。

予想よりは面白くなかったというか(^^;)

『脳はなぜ心を~』と同じで、納得・共感できる部分はあるけど、全面的に「なるほど心とはそういうものだったのですね!」とまでは思えず。

森山さん、すごくいい人だなぁ、とは思ったし、「世界」や「言語」に関する考え方については共感できる部分が多かったのですが。

「モノに心はあるのか」と問う時、そもまず「モノ」とは何か、「心」とは何か、ということを定義しなくてはいけません。

で、この本の第一章は「世界とは何か」。第二章は「言葉とは何か」。200ページの半分以上がそこに費やされて、第三章でついに「心とは何か」になります。

もちろん、第一章および第二章の中にも「心」の問題は出てきますし、第一章に出てくる「行動決定機構」という言葉は“心の正体”を考えるうえで重要なポイントになっています。

むしろ、機械的な行動決定機構は、有機的な調和によって、「不確かな行動決定機構」となり、行動を作り上げ、私たちを、機械ではない「生きもの」に仕立て上げてくれているのです。 (P57)

私は、「潜在行動決定機構群が心の実体である」と提唱したのです。 (P155)

……って、ここだけ取り出してもよくわからないと思いますけど……全部読んでも人に説明できるほどわかってないですけど……。

とりあえず最初の、57ページの引用部分で重要なのは「不確かな」ってとこですね。言語も世界も、そして私たちが日々「ある」と思って行動している「動機」も、すべては「不確かなもの」。

まず、私たちの言語行為とは、世界の中のモノゴトを言葉で表現することです。それは、モノゴトを言葉という型へはめることでもあります。一方、世界の中のあらゆるモノゴトは、不確かな存在です。なぜなら、既に述べたように、あるモノゴトは、生じた瞬間から滅しはじめ、変質し続ける「時間的に不確かな存在」だからです。また、そのモノゴトは、常に複数の他のモノゴトと共立し、調和する「空間的に不確かな存在」なのです。 (P33)

世界は一秒たりともじっとしていない、不確かに流れゆくもので、でもそれをそのまま不確かな混沌として認識するのは大変なので(というかそれでは“認識できない”ので?)、名前をつけ、区別をして、言葉という道具で切り取り、定形にする。

それは「外側」のモノゴトだけでなく、「内側」もそうで、自分が感じていると思ったこと、望んでいると思ったこと、それこそ「自分の心」についても、本来は不確かなものを「言葉」で「わかりやすい形」にしている。

著者は「マグカップを手にする」という行為を例にあげて、たとえば「コーヒーを飲みたかった」のだとしても、

「コーヒーを飲みたかった」とは、「私はそのときコーヒーを飲みたいだけだった」ということを意味するのではありません。 (P23)

と、「複数でありひとつ」の欲求から、私たちは「不確かなひとつの欲求」をでっち上げるのだというふうにおっしゃいます。

私たちは同時に色々な欲求を持ち、色々な活動を行っていて、その時々、自律的に調整が行われた結果、一つの“行動”“行為”を為している。

その「自律的に調整する」部分に個体差があって、それがその人(に限らずモノ全般に)「個性」を与えている。というか、「個性」を生みだすその仕組みこそが「心」である……みたいな……?

複数の欲求(要素)が有機的に調和し、自律的に行動を決定する、っていうの、ちょっと『脳はなぜ心を~』に出てきた「小びと説」を思い出しますね。脳の中のはたらく小びとたち。それを「私」は統括しているのではなく、「小びとたちが働いた結果」を「自分がやったと錯覚しているだけ」というのが、あっちの本での“心の正体”でした。

「色んな要素が自律的に」というのも、「私の確固たる意志が!」というのとはだいぶ違う“心の正体”ではあります。
で、それは有機的で自律的であることによって“不確か”なものとなり、そこに“個性”が生まれて、

この精神作用の本質を「個性を生み出す仕組み」であると見極めることで、心がヒトだけでなく、動物にも備わる可能性を述べました。 (P155)

になるんですけど、ええ、全然まとめられてませんよね……。詳しく知りたい方はどうぞ本書をお読み下さい。しくしく。

ともあれ。

子どもの頃の著者が、「私は一生覚めない夢を見ているだけなのではないか」「私の外側に世界は本当にあるのか」「私は機械なのではないか」と疑った話は他人とは思えず、くすぐったかったですし、

生きものとしてそれぞれ独自の履歴を持つ私とあなたにとって、共通の意味をもつ状況などあり得ないこと、そして、どんなに共通に見える状況を用意しても、その解釈は決して一致しないということです。 (P137)

っていう著者の考えには大いに共感しました。

言葉の意味は一致しない。私たちは常に意味や動機を“でっち上げて”る。「本当のところ相手が(自分も)何を考えているかはわかりようがない」。

本書では最終的にヒト以外の動物にも、石にも大豆にも“心はある”って話になるんですが、読みながらまたしてもアニメ『BEATLESS』のことを考えてしまいました。

『BEATLESS』に登場する超高性能な自律型ロボットたち。主人公のアラタは彼らを“人間”と同じように扱い、友人のリョウからしつこく「あいつらは機械なんだ!」「心なんてない!ただ模倣しているだけだ!」「形に騙されるな!」となじられるんですが。

人間の“心”だって、その多くは“模倣”なんじゃないでしょうか。

“模倣”することによって色々学んで、感情や意識を育んでいく。オオカミに育てられたら、オオカミのように振る舞うようになる。

様々な入力刺激を処理することによって自律的に行動する高性能ロボットと、私たち人間が脳内でやっていることって、たぶんそんなに違わないよね。っていうか、“そういうふうに”、人間をモデルにしてロボット造ってるんだし。

人間同士だって、相手の“心”なんかわからなくて、表面に現れた“形”から類推&でっち上げるしかない。言葉も表情も、それは外に現れた“形”にすぎず、中身そのものではない。

泣いている子ども型のロボットに手を差し伸べるアラト。ロボットはただ、「こういう状況の時には泣くもの」とプログラミングされたから泣いているに過ぎず、「さびしい」とか「悲しい」という感情を持っているわけではないかもしれない。

でも人間だって、「卒業式で泣かないと~冷たいヒトと言われそう♪」ということがあるわけで、嘘泣きしてたら本当に悲しくなってきたとか、逆に笑顔を作っていると気分も晴れてくるという、“形が先”な部分もある。

人間の“心”を特別視しすぎるのは間違っているのでは……。

 
なんか全然本書の感想になってませんが、「自分の“欲求”とか“意志”というのは存外曖昧で不確かなものだ」という部分が強く印象に残ったんですよね(^^;) 著者の考え方からすれば『BEATLESS』のロボットたちは普通に“心”を持っているとみなされる気がするし。


最後にあとがきから引用。

私は、幼少のころから、何かについて考えるたびに、「私の二重性――何かを考える私と、何かを考える私の根拠を考える私の混在性」を感じます。 (P212)

多重の自分を放し飼いにしておくと、行動の因果関係や自他の境界が緩くなって愉快です。 (P212)

森山さんってなんかホントにいい感じの方ですよね(ちっとも本の感想になってない)。

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