『マーダーボット・ダイアリー』が面白かったので、またSFを手に取ってみました。

『マーダーボット』もヒューゴー賞&ネビュラ賞&ローカス賞と3つの賞を取っていたのですが、なんとこの『叛逆航路』は英国SF協会賞にクラーク賞、英国幻想文学大賞にも輝き、なんと7冠!

なので2015年に邦訳が刊行された時点で「読みたいリスト」に入れてはいたのですが。

やっと読みました。

うーん、でも、『マーダーボット』の方が好みだったなぁ。
なんかこっちは、表紙やあらすじやタイトルから受ける印象と中身にギャップがありすぎて、「え?これって船の話じゃないよね???」と。

裏表紙のあらすじには
「ブレクは宇宙戦艦のAIであり、その人格を4000人の肉体に転写して共有する生体兵器“属体(アンシラリー)”を操る存在だった」
とあり、主人公ブレクはもともとは戦艦のAI。

こう聞くと、『マーダーボット』の船のAI、「ART」みたいなやつね、と思い、「ART」みたいな超賢い、人間やその辺の下位AIよりずっとずっと優れたAIが人類に叛旗を翻して戦う物語か、人間の操る船との宇宙戦闘なんかもバンバンあるのかな、と思うじゃないですか。

表紙、思いっきり戦艦だし。
タイトル『叛逆航路』だし。

でも読んでみたら全然違う。
裏表紙のあらすじには続きがあって、「ただひとりの属体となって生き延びたブレクは復讐を誓う……」と書いてある。

もともと「戦艦のAI」だったことは間違いがないけれども、現在はマーダーボットのような強化人間体を持つ「1個」の存在で、マーダーボットがステーション等の警備システムをハックして自在に情報を収集し、知覚や行動をマルチに展開していたのとは違い、「後ろに何があるか」さえわからない。

とある事件の際、母艦と属体同士を繋ぐシステムを切られ、

モニタリングしていた追跡データが切断され、二十の体からなるわたしは一瞬にして盲目となり、音も聞こえず、いっさい動けなくなったのだ。そして各分軀(セグメント)は一対の目のみで物を見て、一対の耳のみで音を聞き、動かせるのはひとつの身体のみとなった。 (P142)

という状況になった。

つまり、思考部分がAIで、肉体も強化されているとはいえ、ほぼ普通の人間としてブレクは存在している。
なので、普通に「銀河帝国の皇帝に復讐を誓った強化人間の物語」っぽい。

もとはAIで、記憶も千年単位で持ってるし、ブレクが人間ではないことの意味が終盤重要になってはくるけど、「すべてを牛耳る皇帝」とか「家系による貴族的支配」とか、他の星の植民地的支配、内乱……お話自体はとても古風な感じで、ただ舞台が宇宙スケールになってるだけ、みたいな。

しかも「復讐の旅に出ている現在」と、その復讐の発端となった事件(つまり過去)とを行ったりきたりするので、途中までとても読みにくい。イライラする。
過去の事件が語られきって時制が現在のみになってからはそこそこ面白かったけど、続き(これは三部作の1作目)をぜひ読みたいとは思わないなぁ……。
うーん。
マーダーボットのあのぼっち引きこもりキャラが可愛くて、ボットならではのマルチチャンネルを駆使してのバトルも楽しかっただけに、毛色が違いすぎた。

ただ、「個別性と自我」というテーマは興味深かった。

もともとは一体であるはずの戦艦AIとその属体たち。全部ひっくるめて「わたし」であるはずのもの。
他の「わたし」の行動や記憶、他の「わたし」が見たもの聞いたものすべて、「わたし」の記憶として共有されているはず。

でも、本当にそうか?

属体の一つとして、「1エスク19」という呼び名をもらっていたブレク。彼女(この物語に出て来る帝国では性を区別しない。全員が「彼女」「娘」「妹」と女性形で言及されているが、実際に肉体が女性なのかどうかは判然としない)に固有の「自我」があったのかなかったのか。

個人のアイデンティティとは、さまざまな断片を都合のよい、便利なシナリオでつなぎあわせた虚構にすぎないのではないか? 通常の環境では、それがばれないだけだ。いや、そもそもアイデンティティとは何なのか? (P259)

〈トーレンの正義〉のわたしが1エスクのわたしではないかもしれない、とかすかな可能性に初めて気づいたのは、〈トーレンの正義〉がイックト寺院の殺戮に関する1エスクの記憶の一部を削除した瞬間だった。その瞬間、“わたし”は驚愕した。 (P259)

「トーレンの正義」というのは戦艦の名称で、その属躰であるブレク(1エスク)は自我的には「トーレンの正義」そのものであるはずだった。
けれどもブレクの記憶と「トーレンの正義」との記憶には齟齬が生じる。ブレクがなくしたくないと思う記憶を、「トーレンの正義」は削除する。
そして他の属躰にはない、「歌への固執」がブレクにはある。

たとえその“脳”に当たる部分、“自我”に相当する記憶や情報処理を“1人”として共有していても、肉体という容れ物によって物理的な境界線を引かれていることの意味は重い
そしてそれは、ブレクの復讐の相手、皇帝アナーンダにも大きな問題を引き起こす。アナーンダもまた、複数の肉体に「自我」を転写した存在であるからだ。

同時に複数の場所に存在しうる絶対的支配者。誰か1人が殺されても、影武者ではない本人が複数存在する強み。
けれどももし、1人の「わたし」であるべき皇帝が、複数の肉体であることによって分裂してしまったら

1人の人間の中で起こる葛藤が、複数の「わたし」の間で起こったらどうなるのか? 「わたし」の敵は「わたし」、「わたし」を欺き、記憶や情報を改竄しようとする「わたし」が現れたら。
複数の「わたし」のうち、この「わたし」の味方である「わたし」はどれなのか。
ブレクにとっての「仇」である皇帝は、「皇帝たち」のうちのどれなのか。

『幼年期の終わり』とかニュータイプとか、肉体という檻を超えてわかり合える、意識の共有や一元化によって高次の存在になる、みたいなことが語られたりするけど、「肉体という檻」があることって、やっぱりすごく重要だと思う。
「魂と肉体」ではなくて、肉体込みで1人の人間、一つの自我、一つの存在だと……。


ちなみに原著のタイトルは「ANCILLARY JUSTICE」で、船を思わせる単語は入ってない。「属躰の正義」と訳されてもまったく内容わかんないし、「叛逆航路」も嘘ではない…のか??? 人生を船旅と捉えれば……。


続編では艦船vs艦船の宇宙バトルも出てくるのかな。最寄り図書館になくて取り寄せというところもハードルが高いので、そのうち気が向いたら読む、ぐらいで。