今度宝塚で、朝美絢さん主演で舞台化されると聞いて、「どんなお話だろう」と手に取ってみました。

作者のポール・ギャリコさんは『ハリスおばさん』シリーズや『猫語の教科書』などが有名。『ハリスおばさん』はタイトルは聞いたことがあるけど、読んだことはなく。

どんな作風なのか、あらすじ以外の予備知識なしに読み始めたのですが。

面白かったです!

大きめの活字で300頁ほど、訳文も読みやすく、さくさく読み進めます。
原著は1966年の発表、矢川澄子さんによるこの日本語訳は1976年の刊行で、2006年にちくま文庫に収められました。

1976年というと昭和51年、もう40年以上昔ということになるので、ところどころ言葉遣いが古めかしい感じがしますが、それがまたとてもいい味になっていて、「古き良きファンタジー」世界を堪能できます。

「ひいやりした暗がり」とか「時を同じゅうして」、「風采卑しからぬ」といった表現、最近はあまり使いませんよね? パッとそういう言葉が出てこない。
一つ、「のこんの力」っていうのだけ気になりましたが……「のこんの力をぎりぎりふりしぼって」とあるので、「残った力」という意味でしょうか。

あ、新明解国語辞典(第6版)引いたら載ってました。

のこんの【残んの】(連体)〔雅〕〔「残りの」の変化〕消えないで、まだ残っている。「―月」「―雪」

「のこんの月」って聞いたことある。
ということは、「まだ残っていた力をぎりぎりふりしぼり」という意味なんですね。

で。
お話は、世界中の魔術師が集まる町マジェイアに、アダムと名乗る不思議な青年がやってくるところから始まります。
マジェイアの魔術師名匠組合に入りたいと思い、はるばるストレーン山脈を超えてやってきたアダム。組合に入るためには選考試験を受けねばならず、その受付で彼は、受付係の入れ歯を手も触れずにはずして移動させるという“魔術”を披露します。

そして選考試験では、失敗ばかりでとても合格しそうにないニニアンという魔術師を手伝って、とうていありえない、どこにも隠しておけないようなものをパッと現出させてしまいます。

はい、ここでタイトルの『ほんものの魔法使』という言葉が顔を出してきます。原題は「The Man who was Magic」なんですけど、英語の「Magic」にも「魔術」と「奇術」の両方の意味がありますよね。

マジェイアは「魔術師しか住んでない」、魔術師の魔術師による魔術師のための町なんですけど、実は「魔術」ではなくて「奇術」の町なのです。荒唐無稽な魔法が跋扈する異世界の町ではなく、「種も仕掛けも大あり」の、ふつうの人間たちの町。

シルクハットや燕尾服にはいくつもの隠しポケットがあり、舞台には様々な小道具があり、ショーを盛り上げるための楽隊までいる、それがマジェイアの「魔術」。

ところがアダムが披露した技には「種も仕掛けも」見当たらない。まさか彼は……?

マジェイアを仕切るお偉方は騒然となるんですが、当のアダムは自分の「魔術」とマジェイアの「魔術」が違うものだとはつゆとも思っていないので、危機感もないし、ニニアンに「よけいなことを!」と言われても、何が悪かったのかがわからない。

この、「魔術」に対する互いの認識の食い違い、すれ違いがまず一つ面白くて、しかもとてもうまく描かれています。

常々「種も仕掛けもありません!」と言っている“魔術師”たちが、実際に種も仕掛けもまったくない“魔術”を見たらどんな反応を示すのか。
「妖術使いだ!」「黒魔術だ!」と糾弾し、追い払おうとする理由が、「あんなものが存在したら自分たちはおまんまの食い上げだ!」なのが面白い。

いや、まぁ、みんな「なりわい」として、生活の糧として“魔術師”やってるんだから、種も仕掛けもなく鳩でも万国旗でも人の口の中の入れ歯でも出せちゃう“ほんものの魔法使”が現れたら、“にせもの”は見向きもされない、食いっぱぐれてしまう、という心配はわかるけど、“魔法なんてありえない”と思っている世界で突如“ほんものの魔法”を見せられたら、それを「見せものとして楽しむ」よりは「得体の知れないものとして怯えてしまう」のが普通では。

アダム自身はとても人のよい、悪意とは無縁の優しい青年で、彼が“この世界は魔法に満ちているじゃないか”と語るシーンは感動的です。

彼は町に入ってすぐ、市長の娘ジェインと親しくなり、彼女を“魔術の助手”としても採用するのですが、このジェインに対する描写がまた、ほんとにいいんですよね。著者ギャリコさんの温かさがにじみ出るどころかあふれ出してる。

ジェインは11歳半、いずれは自分も魔術師になりたいと思っているけど、なかなかうまく道具を扱うことができません。両親は兄のピーターばかりを褒めそやし、何かあると全部ジェインのせいにして、「おまえはばかでのろまでおまけにみにくい子だ」などと面と向かって言う始末。

アダムと初めて会った時も、ジェインは「お仕置き」として部屋に閉じこめられていたのです。

ほんとのところ、ジェインは決してばかでものろまでもみにくい子でもない。でも。

人間はしかし、年がら年中ぶきっちょだの見ちゃいられんだの、ぱっとしないだのといわれつづけていると、いつしかなおさら、ありもしないものにつまずいてころんだり、きかれたことにもとんちんかんな答えか、または全然答えが出てこなかったり、自分のすがたのうつっている鏡やショウウインドウのまえを通るのをいやがったりするようになるものだ。 (P30)

いや、ほんと、そうですよね。罵声ばかり浴びせられていたら、自信をなくして、叱られることに怯えて、できるものもできなくなっちゃう。

可哀想なジェインはアダムと出会って、アダムに信頼され、彼の助手を立派に務めることで「ダメな子」の殻を破ります。

主人公のアダムも、ヒロインのジェインもとても魅力的なキャラクターなのですが、この物語をさらに楽しいものにしているのがアダムの相棒、「ものいう犬」のモプシーです。
「この町の“魔術”はおかしいぞ?」と気づくのもモプシーだし、最後の最後、ギリギリのところでアダムに真相を告げるのもモプシー。彼がいなければ、このお話は成り立ちません。

ただ、モプシーの「声」、アダム以外の人間には「言葉」としては聞こえないみたいなんですよね。だからモプシーが特別に「人語を解する犬」なのか、アダムが生まれ持った魔術の才で「犬語を解する」のか、そのあたりはぼやかされてる。
でもだからこそ「モプシーが言ったこと」をアダムがテキトーにごまかしておべんちゃらにしたりできて、面白い。

宝塚の公演ではモプシーをどういうふうに実現するのか、すごく気になりますね~。昔『白夜伝説』で盲目の女の子ミーミルの肩の上にオウム(だったかな?)のお人形が乗って、声だけ別のジェンヌさんがカゲで当ててたことがありましたが。

ストレーン山脈の向こうから来たというアダム。でもマジェイアでは「あれを超えてきた人間なんていない」って信じてもらえなかったりして(『Thunderbolt Fantasy』の殤不患みたい)、果たして山脈の向こうにはアダムのような「ほんものの魔法使」がごろごろいるのでしょうか。奇術ではない、「ただの魔術」があたりまえに存在する世界が、山を越えればあるのか。

最後、アダムとモプシーはマジェイアから消えてしまって、そもそも彼らは実在したのか、この世のものだったのか、とさえ思えてしまいます。
アダムを探して旅立つニニアンはその後彼に会えたのか、ジェインは……。

「割ったタマゴを元通りにできても、タマゴそのものを無から作り出すことはできない。でも鶏はそれをする。草しか食べていない牛が、ミルクを出す。それが“魔法”でなくてなんだろうか?」
――アダムがジェインに説く「世界に満ちる魔法」の話はとても温かく優しく、「君もここ(頭の中)に魔法の箱を持っているんだ」という言葉は、人間が――私たち一人一人が、奇跡的な存在であることを思い出させてくれます。

「そんなのが“魔法”だなんてつまんないよ。ボクにもタマゴを元通りにする方法教えてくれよ!」と、私の中のひねくれた子どもが口をとがらせないこともないですが(笑)。


このお話がどんなふうに“宝塚化”されるのか、そして朝美さんがどんなアダムを見せてくれるのか、とても楽しみです。(チケット取れる気はしない)


※ちくま文庫版は絶版ですが、今度5月に創元推理文庫から復刊されるようです。訳者も矢川澄子さんとなっているので、内容は同じだと思われ。図書館ではなく買って読みたい方は創元の方をどうぞ。


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