そんなわけで、宝塚雪組公演『夢介千両みやげ』の原作本、大変楽しく読了いたしました。

最初、1995年に刊行された文庫版を借りて読んでいたんですが。

途中で表紙が雪組さんのポスターになっている新版の存在を知り、それがちゃんと図書館にも入っているとわかって、改めてそちらを借り直しました。

が。
表紙が彩風さん&朝月さんじゃなーーーーーーい!
何これ詐欺やん、と思いましたが(笑)、どうもAmazonさん等で出ている宝塚版の書影は「カバー表紙」ではなく、「カバーと同じサイズの帯」っぽい。
Kindle版の表紙は宝塚じゃないし……。
宝塚版が欲しい方はあの帯がなくなる前に購入された方がよろしいかと存じます。

新版には「完全版」という肩書きがついていますが、作品自体は1995年版と同じ。解説が宝塚での上演に言及した新しいものになっているのと、活字が大きくなってページ数が増えているという違いがあります。
(※以下、引用箇所のページ表記は新版のものです)

作者の山手樹一郎さんは1899年(明治32年)のお生まれで、戦前に『桃太郎侍』でヒットを飛ばし、この『夢介千両みやげ』は戦後間もない1948年から49年にかけて「読物と講談」に連載された作品だそう。

雪組公演のプログラムに、作/演出の石田昌也先生が

“戦後GHQの検閲で「仇討物」など血生臭い作品が上演・上映・発刊禁止になった折も「山手樹一郎」の作品は検閲をスルーし、敗戦で傷付いた多くの日本人に夢と希望を与えました。”

と書いておられ、なるほどと思うのですが、この新版の解説によると山手さんは「時代小説で一本立ちしようと決めた時に、時代ユーモア小説を目指そうと思った。そしてそれがやっと板についてきたのが『夢介千両みやげ』の頃だった」と言っておられるそうで、「検閲があったから路線を変えた」というのではなく、もともと目指していた方向性と時代の要請がうまくマッチしたということのよう。

今、2022年に読んでも大変面白かったです。
文章も読みやすく、すいすい読める。
私が時代劇好きのおばちゃんだから、ということはもちろんあるでしょうが、あまりこの手のものを読まない人にもとっつきやすいのではないかな。

何しろこれ、舞台こそ江戸時代だけど、内容はラブコメなんだもの。

雪組さんの感想記事にも書いたけど、改めてストーリーを紹介すると。

主人公夢介は小田原の豪農の跡取り息子。父親から「江戸で道楽修行してこい」と千両を渡され、その往き道で早速名うての道中師“おらんだお銀”に懐を狙われるも、「おもしれえ芝居を見せてもらった」と百両あっさりお銀に献上してしまう。

くれる気の金なんか、だれがもらってやるもんか。そこまで恥をかかされていたんでは、どうにも女のいじがたたない。 (上巻P33)

意地になったお銀はなおも夢介につきまとい、その風変わりな“器の大きさ”にすっかり心を奪われ、江戸へついてきておしかけ女房になってしまう。
大店の道楽息子の総太郎、きんちゃっきりの少年三太、素行の悪い旗本“一つ目のごぜん”とその一味、美人局の清吉などなど、トラブルに巻き込まれるたび五十両百両と惜しげもなく金を振る舞い、八方丸く収めてしまう夢介。

親身に育ててくれた爺やにさえ「牛のようにぼーっとした」と言われてしまうのんびりしたお人好しだけど、その人の良さが女心を引きつけ、お銀はいつもやきもちの焼きどおし。

「夢さんのためにいいおかみさんになる」と誓うお銀なのだけど、何かと邪魔が入り、目潰しだの火玉などといった「昔とった杵柄」を使わざるを得なくなる。そのたび「これではダメだ」と悩み、「夢さんと別れるぐらいならいっそ死のう」と思いつめ……。

果たして二人は無事本物の夫婦として小田原へ戻れるのか――?

解説の細谷正充さんが「お銀はツンデレでヤンデレ」「そんなキャラクターを戦後すぐに創作していた山手の先見性」と書いてらっしゃるんだけど、一見パッとしない主人公のところに美人でツンデレな女の子が転がり込んできて……っていうの、ほんと少年マンガの王道ラブコメですよねぇ。

なんせお銀は

深川でたくさんの芸者を見てきたばかりだが、(中略)こうしていまお銀をながめていると、ふっくらとした面立ち、女盛りの肉づきしなやかに、顔も姿もこのほうが格段に美人なのである。 (上巻P107)

と、まだ出会って間もない夢介に「これで肩書き付きの女でさえなければ」と思わせるぐらいの器量よし。続篇『夢介めおと旅』の中でも、悪党に「こんな美人にお目にかかるのは初めて」と言われたりしてる。

そんな美人を隣に高いびきかけるんだから、そりゃお銀も意地になるってもんですが。

ちなみにお銀は「二十三の女ざかり」(上巻P8)、夢介は二十五歳。
お銀については「水もしたたる大まるまげのとしま」(上巻P44)などとたびたび「としま」という形容が使われていて、ここだけ「昔の作品」ということを意識させられます。現代では「としま」を褒め言葉で使うことはほとんどないですもんねぇ。

名うての道中師で肝の据わった鉄火女のお銀、悪党相手にも臆せず啖呵を切りますが、捕まって全裸で縛られるくだりもあり(さすがに宝塚では再現されなかった)、その美貌ゆえに悪党に目を付けられることも多く、むしろだからこそ「鉄火」でなければここまで生き抜いてこられなかったんだろうな、と思ったりします。

捕まったお銀を百両出してあっさり引き取ってくる夢介。こうしてあらすじだけ紹介してると「なんでも金で解決かよ」と見えますが、ぼうっとしてるようで決して馬鹿ではない夢介、しょうもない人間のくずと喧嘩しても仕方がない、ってちゃんとわきまえてるんですよね。

駄犬を相手にしてもしようがないし、片ひざ立ちの格好だけはすごそうだが、この駄犬はただほえているだけで、決して飛びついてはこられないことを、ちゃんと知っているからだ。 (上巻P200)
「女を裸にして、あんなまねするのは、人間ではねえ。あれはみんな気ちがいだ。いや、気ちがいよりもっと悪い人間のくずだよ。おらが小判の封印切ってみせたら、あんなにほえついていた犬が、悩みもいじもケロリと忘れて、すぐに尾をふっていたではねえか。こじきより見下げはてた根性だ」 (上巻P204)

そうして悔しさに打ち震えるお銀の肩を優しくさすってやりながら、「気晴らしに湯治でも行くか」って優しい言葉をかけるんですよ。

「あねごさん、あんまりいじになって、わずらいでもされると、おら、やきもちやかれるよりつらい思いしなけりゃなんね。たいせつなお嫁だもんな」 (上巻P205)

うがぁー、もう、惚れてまうやろーっ!
出会う女がみんな夢介に夢中になってしまうのも無理ありません。

自分が殴られても、お銀が掠われても、決して暴力には訴えない夢介なのですが、実は夢介、弱くはないのです。
むしろ強い。
体格はいいし、柔術の心得もあり(だから宝塚版では「あご七」のはずれた顎を入れたりしてる)、何より怪力の持ち主だったりする。
ちょっと手首を捕まえただけで相手は「骨も折れるか」と思うほど、それだけで相手の攻撃を止められるぐらいなんだけど、「生来の怪力」ゆえに「むやみに力を使ってはならない」って母親に戒められていたのですね。

生まれつきの怪力をかたわのように恥じ、人にかくしている夢介だった。力など自慢するものは、男の中でもいちばんくずな男です、子どものころたびたび母親からしかられて(後略) (上巻P60)

いざとなったら怪力があるからそうそう負けないっていうのは「お金」と同じく夢介の強みで、金も腕力もないへたれからすれば「だからお前はのんびりしてられるんだよ」とつい僻みたくなりますが。

きょうだって、けっきょく力は決してなんの役にもたっていなかった。 (上巻P61)
自分の怪力などはやじうまのいい見世物にしかならない。 (上巻P62)

とも書かれてあって、「暴力は解決にならない」を描くためにわざと「実は怪力」設定にされているのかも。
この作品が戦後すぐに発表されていることを思えば、「力はあるが、それを使って揉め事を解決することはない」は重要だなぁと。

だからって「金で解決するのか」「そもそも親の金じゃん」って話もあるけど、たぶん夢介、故郷ではちゃんとまめに畑仕事してるんだろうし、六兵衛爺さんと孫娘のお米を助ける際には、自分で道具を担いで鍋焼きうどん屋やってます。

「おら別に、金で人を助けていい気持ちになっているわけではねえだが、六兵衛じいさんにも、自分で働いたことがねえから、むだな金ばかり使うといわれてきただ。聞けばじいやも、親の金でなにが人助けだ、といっていたってな。たしかにそうかもしれねえ。金ってものをそんなにありがてえものだとは思わねえけんど、やっぱり自分で働いてみなけりゃ、ほんとうの金の値うちはわからねえもんかもしれねえだ」 (下巻P23)

お銀をはじめまわりの人間が救われていくのは、やっぱり夢介のこの人柄なんですよねぇ。年下(というかまだ14~15歳の子ども)で、きんちゃっきりという「悪党」でもある三太のことを常に「あにきさん」と呼んで対等に扱うのもそう。

宝塚版でしんみりさせられた「親がなくてどうして生まれてくるもんか」って台詞は原作には出てこなかったけど、

「あのあにきさんも、ふしあわせなあにきさんだもんな。それを、おじいちゃんやお米さんが、いつも親切にしてくれる。人間はみんなお互いっこのようなもんさ」 (上巻P456)

という夢介の言葉があったり、お銀が

「三ちゃんは悪い子じゃない。親なしっ子ってものは、みんなああなんです。人にふみつけにされまい、バカにされまいと鼻っぱしばかり強くなって、そのくせ、ひとりになると陰で泣いている。あたしもそうだった」 (下巻P119)

と言ったり。
巷には戦災孤児が溢れていた時代ですし、夢介の優しさは、作者山手さんの祈りのようなものであったかもしれません。

そうそう、原作最後まで読んでも、やっぱり金さんは出てきませんでした。あれは完全に宝塚の(石田先生の)オリジナルですね。
あと、宝塚では「一つ目のごぜん」がわかりやすく「一つ目」(眼帯をしてる)でしたけど、原作では「本所一つ目に屋敷があった」からそう呼ばれているだけで、別に片目ではありません。

で、この新版がなぜ「完全版」と銘打たれているのかというと、幻の続編『夢介めおと旅』が併録されているから。
1995年版にも収録されていたんだけど、この続編、初出がわからないらしく、山手さんの全集にも収録されず、長らく絶版状態だったそう。1952年から62年にかけて何度か刊行された記録があるということなので、もし書かれたのが1952年とすると『千両みやげ』の3年後の作品。

文庫で170ページほどの中編。『千両みやげ』が800ページくらいあるので、4分の1にも満たないですね。
『千両みやげ』より文章に漢字が多い印象で、「あねごさん」が「姉御さん」、「大まるまげ」も「大丸髷」。
お話は少し「とってつけたよう」というか、『千両みやげ』の方が断然面白いですが、続編で初めて顔を見せる夢介の父、覚右衛門の人となりが興味深いです。

夢介という名も、わしは覚右衛門で、目が覚めていると世の中のあらが見えすぎてうるさい。自然つまらぬ苦労も多くなるから、倅は一生いい夢を見て暮らせるように、夢介にしようと(後略)。 (下巻P322)

名付け方からもう面白い。

夢介は夢介で「おかげで、おらはぼんやりと育ちすぎて、いまだにいい夢ばかり見つづけている」と自覚しているんですから、ほんとになんて“けったいな”親子でしょう。

『千両みやげ』の方でさんざん「話のわかる親父さま」と言われてきた覚右衛門、お銀を連れて帰ってきた夢介を家には入れずに、「三百両も使い残してくるとは何事か。その金で諸国巡礼でもしてこい」と追い返してしまいます。
それで「めおと旅」が始まるわけなんですが、なんで父親がそんな仕打ちに及んだのか、夢介はちゃんと理解していて、「親というのはありがたいものだ」と感謝する。

いくら親が承知しても、田舎は親類中の口がうるさい。いま黙ってお銀を家に入れたら親類中から意地の悪い目で見られるし、お銀も辛かろうし、倅も気まずい思いをしなければならないだろう。(中略)まだ路銀が三百両残っているのを幸い、その金で諸国の神社仏閣をまわって、二人で罪ほろぼしをしてくるがいい。 (下巻P321)

というのが覚右衛門の真意なのです。なるほど。

息子とは会わないけれどもお銀とは言葉を交わし、お銀が「自分は身を退いた方がいいのでしょうか」と尋ねると「そんなことはひとに聞くことじゃない」とたしなめたり。

「あの愚図のどこに見どころがあって、お前さんは惚れてくれたのかね」
「お恥ずかしゅうございます。ただ好きで好きで、どうして好きなのか、自分でもわかりません」 (下巻P318)

というやりとりも良き。
山手さんの作品、他のものも読んでみたくなりました。

実は父が山手樹一郎全集を持っていたらしく、さすが父ちゃん!と思ったんですが。
残念ながらすでに手放した後。
もっと父の本棚の本、色々読んでおけば良かったなぁ。