NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第22回に曽我兄弟が登場しました。兄の十郎を演じるのは仮面ライダーリバイスの若林司令官役並びに仮面ライダーアマゾンズの駆除班・フクさん役でお馴染みの田邊和也さん

22回の最後に「坂東を揺るがす曽我事件の始まりである」とナレーションが流れ、田邊さんの活躍が楽しみだなぁ、と思う一方、「曽我事件ってどういう顛末だったっけ?」と気になり。

確か橋本治さんの歌舞伎の本に出てきた……と、本棚を漁って引っ張り出してきました。
実はこの『大江戸歌舞伎はこんなもの』、珍しく読了できなかった本なんですよねぇ。途中で挫折してしまって、だからblogにも感想記事がない。

歌舞伎の――それも現代の歌舞伎ではなく江戸時代の歌舞伎についての本で、ちょっとついて行けなかった(^^;) 橋本さん自らお描きになった挿絵も魅力的で、歌舞伎好きな人にはきっと楽しい本だと思うのですが。


で、肝心の曽我兄弟。
裏表紙の解説に「人気狂言『兵根元曽我』はなぜ何ヶ月も何ヶ月もロングランしたのか??」とある通り、曽我兄弟をモチーフにした演目は江戸で大人気で、一年の半分、正月からの半年間、ずっと「曽我狂言」を上演していたそうです。

1697年(元禄10年)の初代市川團十郎作による『兵根元曽我(つわものこんげんそが)』が大当たりした結果、

1700年代の初頭から明治維新までの百五十年間、江戸の正月は毎年毎年曽我兄弟の物語を演じ続けて来たんです。 (P66)

ひぇーーー、すごいな、曽我兄弟。有名なのは知ってたけど、そこまで流行ったコンテンツだったとは。

なんでそんなに曽我兄弟の話がウケたのか、橋本さんによると、やっぱり彼らが「関東の人」だったことが大きいみたい。
忠臣蔵、荒木又右衛門と曽我兄弟とで「日本三大仇討ち」と呼ばれてるんですけど、忠臣蔵は「赤穂浪士」なので、仇討ちの舞台は江戸のお屋敷でも浪士達は関西の人間、荒木又右衛門は伊賀上野の人。
江戸の人間にとっては曽我兄弟が一番親近感があったってことなんですね。それが証拠に、上方歌舞伎では曽我兄弟のお芝居なんてやってなかったようなので。

曽我兄弟、お兄さんが十郎祐成(すけなり)、弟が五郎時致(ときむね)。数字の順番だけだと五郎の方がお兄さんっぽいけど、そこは逆。
十郎の幼名は一万丸、五郎の方は箱王丸と言ったらしい。
子どもの頃に父河津祐泰工藤祐経に殺されていて、「曽我」というのは母親の再婚相手曽我祐信の姓。「祐」だらけで混乱するけど、父方の祖父にも「祐」がついてて、その名は伊東祐親

そう、大河ドラマを見ている皆さんご存知の、「伊東のじっさま」、小四郎の祖父であり八重さんの父親です。

橋本さんのこの本は2001年に単行本が出ていて、もとになった連載はさらに前、1987年。なのでまだ『鎌倉殿の13人』は影も形もなく、橋本さんは

曽我兄弟の叔母さんが源頼朝の最初の奥さんだっていう話、知ってましたか? (P76)

と書いておられます。いやー、そもそも「曽我兄弟」をよく知りませんよね。

曽我兄弟と鎌倉幕府の創始者・源頼朝とは、ちょっとばかしヘンな因縁があったんですね。曽我兄弟が「極めて高度に政治的な存在」だったから江戸人に人気があったっていうことだってあるんです。 (P76)

で、橋本さんはちょろっとその辺の人間関係を説明してくれるんですけど、頼朝の最初の妻、大河ドラマでは「八重さん」として出てくる女性、ここでは「伊東の辰姫」と紹介されています。

しかし頼朝には志があった。そして各地の土豪には娘がいた。江戸の歌舞伎の方じゃ、源頼朝は「単なる女たらし」ということになっていますから、そこら辺は御賢察下さい。 (P80)

わははは。大河ドラマでは「女たらし」というより「女好き」って感じに描かれてますよね、わははは。

兄弟の祖父である「伊東のじっさま」は頼朝と対立したあげく敗れ、兄弟の仇である工藤祐経の方は頼朝側について出世する。
(※大河ドラマの人物相関図を見ると八重さんの母親は工藤の娘だったりもしますね。そして同じく工藤の娘と“じっさま”の間にできた娘が小四郎や政子の母親で…。うぉぉ、みんな親戚)

曽我兄弟と工藤祐経の対立は、鎌倉新政権対旧土着勢力の対決でもあったんですね。そもそも、工藤祐経が曽我兄弟の父親である河津祐泰を討ったのは、領地争いのもつれだった。土豪の勢力争いに端を発して、曽我兄弟は、鎌倉幕府に敵対する不穏分子にもなった。 (P81)

まさに、大河ドラマ第22回でそんな感じに描かれてましたねぇ。工藤祐経だけでなく、頼朝も許せない!と弟五郎が唾を吐きながら熱弁してた。

江戸の人間が曽我兄弟に親近感を抱いたのは、彼らが同じ関東の人間だったから、ってだけではなく、「幕府に弓引く反体制側の人間」だったからではないか。幕府支配への不満、ストレスを発散させられる物語だったからでは。

とはいえ。

曽我兄弟を表に立てて政治批判をやろうなんていう野暮なことを江戸の人間が考える訳がない。(中略)百五十年間毎年曽我狂言を上演していたのなら、話のスケールが広がって、曽我の五郎・十郎が天下の将軍源頼朝を狙うことになったっていいのに、決してそうはならない。 (P81)

まぁ「そうはしなかった」からこそ、上演禁止にもならず150年の長きにわたって興行できたってことなんでしょうし、文化的に非常に成熟しているのに市民革命が起きなかった「江戸」らしい――日本らしいあり方だなぁ、とも思います。
その一線は越えないが、しかし毎年毎年仇討ち劇を上演し、楽しむ。

彼等は、公然と天下太平を謳歌していて、と同時に、公然と世間に対する欲求不満のウッセキを公言していたということになるでしょう。 (P82)

現実の曽我兄弟が頼朝までをも討とうとしていたのかどうかは諸説あるみたいです(今ざっとWikiを眺めただけの知識)。

Wikiによると仇討ち当時、兄の十郎は22歳、弟五郎は20歳(いずれも数え年)だったそうな。えええ、司令官、22歳の役なの……。
そして歌舞伎ではお兄ちゃんは「女みたいな二枚目」として扱われるらしい。

仇討ちの結果、五郎の方は捕まって打ち首、十郎はその前に切られて死んでいる。江戸の人間にとっては最後まで頑張って打ち首になった弟の方が偉いというか、「主役」で「荒事」。一方お兄ちゃんには「大磯の虎」という恋人(大磯にいた遊女らしい)がいて、彼の役は「ラブシーンを演じる和事役者の領域とされてしまった」(P85)のだとか。

へぇー、へぇー。

大河でも「大磯の虎」さん、登場するのかしら。

ちなみに、曽我兄弟が仇討ちを果たしたのは頼朝主催の「富士の巻狩り」の際で、5月28日のこと。昔は「五月下旬」と言ったらすぐさま「曽我の仇討ち!」と返ってくるぐらい、有名だったらしいのだけど、この「五月下旬」、もちろん旧暦のはずなので、今だとおそらく6月下旬。
仇討ちが描かれるであろう大河ドラマ第23回の放送日が6月12日、旧暦5月14日。三谷さんのことだから、ちゃんとこの辺のスケジュールも考えての脚本進行なんだろうなぁ。

江戸の歌舞伎でも、「毎年正月から曽我狂言」だったけど、正月にやるのは「曽我兄弟と工藤祐経の対面」までで、仇討ちまではやらなかった。なんでやらないかっていうと、「まだ五月じゃないから」。ええっ……。

昔の歌舞伎は別に一公演で話が終わらなくても良かった――というか、むしろ終わらない方が続きを見にまた来てくれるからいい、ぐらいのシステムだったそう。

なので正月に「対面」までやって、その芝居が受けたら「二番目」「三番目」という「続き」が上演されて、それも人気でロングランできたらやっと5月に仇討ちシーンが上演される。そして「二番目」「三番目」に曽我兄弟は出てこない。それどころか、曽我兄弟とはほとんど何の関係もない話が同じタイトルで上演される……。なんでやねーん!

文句を言っても仕方がない。江戸歌舞伎はそういうシステムになっているんです。 (P90)

もっとも、最初に大当たりをとった初代市川團十郎の『兵根元曽我』は5月に上演されたらしいので、仇討ちシーンまでちゃんとやったのではないかなぁ。5月に「5月の仇討ち」をやったからウケたと……。