(※第1巻の感想はこちら
(※以下ネタバレあります。ご注意ください)


1巻の感想記事を書いている時にはもうけっこう読み進んでいたんですが、その後少し停滞して、読了が遅くなってしまいました。

はぁ。

何から書けばいいんだろ。
読みながらずっと「えー」「えー」ばかり言っていた気がします。とにかく太子殿下が気の毒で……。

2巻目は本文が427頁。そのうち170頁までが『第一巻 天官賜福』の続きで、171頁から『第二巻 太子悦神』となります。
日本語訳の巻割りが中途半端になっているだけなのか、原著でも内容の「1巻」と本の体裁の「1巻」がずれているのかわかりませんが、ともかく171頁からは、800年前の、太子殿下の過去のお話になります。

今月から日本語吹き替え版の放送が始まったアニメ二期は『第一巻 天官賜福』の最後までを描くもよう。
なので、アニメを新鮮な気持ちでご覧になりたい方はこの先を読まない方が良いです。


鬼市に赴き、三郎(サンラン)=花城(ホワチョン)と再会した謝憐(シエリェン)。さらに、与君山で出会ったあの「人面疫の少年」とも再会します。鬼たちに殴られているところを助けたもののまた逃げられてしまい、結局三郎の部下が探し出して連れてきてくれるのです。

包帯で顔でぐるぐる巻にし、800年前に根絶したはずの人面疫を患う少年。彼もまた謝憐の過去になんらかの因縁を持つ存在……というか、三郎の分身なのでは?とも思ってたんですが、「仙楽国の人間か?」と問われて「永安」と答えたり、三郎が「必要なら俺が口を割らせる」と言ったりで、二人に関係があるのかないのかがよくわからない。

包帯の下は端正な顔だち、疫病をわずらう以前は秀麗な少年だったろう」という描写からしても、「三郎の子ども時代を写した姿」なのでは、と思ってしまうんですけど。
三郎によると「あいつは鬼であって人じゃない」らしく、800年前に人面疫で亡くなり、少年の姿のまま「鬼(生き霊)」となって存在し続けているということなのかな。「人ではない」なら、与君山で彼のために心を砕き、結局死んでしまった小蛍がだいぶ可哀相だよね。すでに死んでいる男の子のために周囲を敵にまわして……。

包帯の少年がもしも三郎の分身だとしたら、謝憐の周囲に彼を出没させる三郎の意図は何だろう? 謝󠄃憐が800年前の出来事を覚えているかどうか試してるんだろうか? それともあの少年は、どこかで分裂した「もう一人の三郎」だったりするのか。力のない不幸な少年のまま死んだ“彼”と、謝憐のために生きると誓って鬼王にまで上りつめた“彼”。

2巻を最後まで読んでも、残念ながら「包帯の少年」の正体はわかりません。


鬼市は花城の縄張り、花城は鬼市の城主。
でもここは「ただの住処」で「家」じゃない、と言う三郎。謝憐に「違いがあるの?」と尋ねられ、

「もちろんあるよ。家には家族がいる。一人で住む場所は家とは呼ばない」 (P17)

と答える。そしてその答えを聞いて謝憐は

もしそうだとすれば、謝󠄃憐には八百年以上「家」というものがなかったことになる。花城の顔には特にもの寂しい様子はないけれど、自分たちは似た者同士なのかもしれないと思った。 (P17)

と思います。かたや「鬼の王」、かたや三度も飛昇した「神官」。二人ともすでに人間ではないわけで、ともに暮らす「家族」がいないのは当たり前といえば当たり前な気がするけど、『太子悦神』で語られる過去を読んでからこのくだりに戻ると、「嗚呼…」と感慨深くなります。
ともに寝起きしたあのガラクタ道観の方がずっと「家」という感じがする、と三郎が言うのもキュンとくる。そうだよねぇ、宝物だよねぇ、二人で過ごしたあの時間。

素晴らしい宝剣を集めた武器庫に謝憐を案内して、「どれでも好きなものをあげるよ」「何なら全部あげる、建物ごと」と言う三郎。
いつか謝憐に献上するためにせっせと集めていたのかと思うとこれまたキュンキュン。

扉に寄りかかった花城は、頬を紅潮させて熱中している謝憐を見つめている。 (P29)

良かったねぇ、三郎。ほんと良かったねぇ。(しかしこの後武器庫は焼失してしまう…見てもらった後で良かったねぇ……)

宝剣に目を輝かせる謝憐、「へぇ~」と思うけど、そもそも彼は「武神」なんですよね。あんなのほほんとした穏やかな感じなのに、「神」として飛昇したのも「剣の腕」を見込まれてのことだそうで。
三郎と郎千秋(ランチェンチウ)、二人の剣が一触即発、もし三郎がこのまま剣を振り下ろしたら千秋は間違いなく死ぬ!という状況で、謝憐の実力がついに発揮されます。
何が起こったのか常人には目視もできない凄技、「君がやったのか?」と問われて「これでも一応剣使いなので」(P62)とさらっと答える太子殿下、格好良すぎる~~~!

花冠武神、片手に剣、片手に花。師青玄は花のことは覚えていたが、謝󠄃憐が飛昇した訳は剣の方にあることを忘れていた。 (P63)

アニメ一期第1話で流れた『一花一劍』で歌われる「片手に剣、片手に花」。

片手に剣を握り、もう片方の手に花を持っているのは、「世を滅する力はあれども花を惜しむ心は失わず」という意味だ。 (P260)

剣の腕で飛昇、しかもわずか17歳で、ってすごいですよね、太子殿下。法力以外では弱っちくてとても戦えそうにない可憐な「やさ男」に見えて、実はとんでもない凄腕。凜雪鴉(『Thunderbolt Fantasy』)じゃないんだから!

一手目で郎千秋の重剣を打ち返し、二手目で湾刀厄命を止める。この二手は強力なだけでなく極めて微妙な加減で制御されていたため、刀と剣はどちらも止められはしたが、攻撃した本人に撥ね返されることはなかった。なぜなら、間に入った謝󠄃憐が剣と腕一本で両方の攻撃を受けきったからだ。 (P62)

おかげで剣は粉々に砕け、謝󠄃憐の腕は血まみれに。そしてこの神業を見たことで郎千秋が謝󠄃憐の正体を疑うことになります。

謝憐はもともと仙楽国の太子。そして郎千秋は永安国の太子だったのですが、永安国の祖は仙楽国を滅ぼした反乱軍の頭目、二人の間には浅からぬ因縁があるのです。
そして実は謝憐、かつて「芳心国師」として千秋に剣を教えていたことがあったのですね。目の前で謝憐の剣技を見た千秋は「これは芳心国師の技!」と思ってびっくりする。「間違いなくこの手で殺したはずなのに」と。

えーっと、話せば長いんですが、仮面で素顔を隠した芳心国師、千秋にとっては尊敬する剣の師匠だったのに、最後は裏切って千秋の父皇を殺した逆賊。なので千秋は彼を探し出し、自ら殺して棺桶に入れた……らしい。

その時謝憐はすでに「神官」だった(飛昇した後)ので、まぁ普通に殺しても死なないんやろな、というのはあるんですが、それより何より永安国で起きた大虐殺の真犯人が謝憐って何事???

もちろんそこには何らかの誤解がある、事情がある。そしてなぜかその“事情”をよく知っている三郎、郎千秋に真相を知らしめるべく、謝憐ともども彼を青鬼・戚容(チーロン)のもとに連れて行きます。
戚容って、1巻目の「鬼花嫁」のエピソードで名前だけ出てきた、死体を逆さ吊りにして楽しむ超悪趣味な「鬼」なんですけど、その正体はなんと謝憐の従兄弟! 一方は飛昇して「神」となり、一方は恨みをつのらせ「鬼」となった。もちろん謝憐は彼が四大害の一人になっているなんて思いもよらかったんだけど、従兄弟なので顔もよく似ているし、戚容の方は謝憐のことを「太子従兄(たいしにいさま)」と呼んだりする。

戚容と謝憐の関係は後半の『太子悦神』部分で詳しく語られるんだけども、戚容の母親は謝憐の母親(仙楽国の皇后)の妹なのです。彼女は若気の至りで悪い男に騙され、駆け落ちして戚容を生んで、でもその悪い男のDVに耐えかねて皇宮に戻った。戚容は父親の血が濃いのか幼い頃から困った乱暴者だったんだけど、母親が早くに亡くなってしまったこともあり、謝憐とは兄弟のようにして育てられた。
小さい頃は「太子兄さま」「太子兄さま」と金魚のふんのように謝憐のあとをついて歩いていたらしい戚容、今では仙楽太子の像を足置きに使い、汚い言葉で謝憐を罵る。

「謝憐! この疫病神が! お前が生まれたことが仙楽国最大の不幸だってのに(後略)」 (P129)
「そいつはそういう人間なんだよ。間違ったことを絶対に見過ごせない聖人君子っぷりで、いつだって自分にはなんの得もないのに余計なことばっかりやって人に損をさせるし、両方にいい顔をしようとして結局どっちからも褒められない」 (P130)

ひどい言われようなんだけど、でもこれ、後半部分を読んだあとではあながち間違いでもない――というかかなり納得の「謝憐評」なんですよねぇ。「正しさ」とは何か、「衆生を救う」とはどういうことか、果たして「全員を救う」なんてことが可能なのか。頁を繰りながら「太子殿下…うう」ってなってしまう。

アニメ一期を見ている時にはまさか太子殿下の過去がこんなに過酷だとは思わなかったよ…。あののほほんとした「ガラクタの神」がまさか。

「ただ、こんなはずじゃなかったって思うんだ」
「ただ、善意でやったことなのにいい結果を得られなかったな。こんなはずじゃなかったんだ」 (P136)

1巻目の、半月関のエピソードで半月も言っていたこと。良かれと思ってしたことが、すべて裏目に出る。ただみんなを救いたかっただけなのに、どこで間違えたのか、どうすれば良かったのか。
半月に問われて、「それは私にもわからない」と答えていた謝憐。いやー、ほんとねぇ、謝憐どうすれば良かったんだろ。

戚容に罵られ煽られ、怒り心頭に発した謝憐が剣を振り下ろすところ(戚容を斬るのかどうかはわからないまま)で「現在」の話は終わり、172頁から過去の話『太子悦神』になります。

17歳で飛昇した謝憐、しかし3年後、「故国を助けようとして」天界を逐われます。そのあらましは1巻目の冒頭で語られていて、「神」となったものが軽々に地上の争いに関わってはならない、謝憐が手を出したことで一層事態がひどくなった、というくだりに「なるほどなぁ」と思ってたんですが。

いや、なるほどどころじゃねぇわ!!!

なんか、本当に読んでてつらくて、「なんで作者さんこんなに謝憐をいじめるの?」「てか、このお話の主題って謝憐と三郎の絆とかじゃなくて“衆生を救うとはどういうことか”なの!?」と思うぐらいです。
仙楽国と永安国。もともとは、永安は仙楽国の一地方でしかなかった。永安が水不足に陥り、苦しんだ住民は首都に直訴に来たり、あるいは単に「避難民」として、豊かな首都へと逃れてくる。
その様子を見た謝憐は「永安に雨を降らせよう」とします。雨を司る神官から宝具を譲り受け、せっせと雨を降らせようとする。でも神様だからって無尽蔵に雨を降らせられるわけではもちろんなく、法力をたくさん必要とするし、どこかに雨をたくさん降らせようとすれば、その分別の場所の雨が少なくなる。

豊かな首都の方も、永安ほどではないけど雨が少なくなっていて、仙楽国すべての領民を豊かに養うことはもうできなくなってきている。
だから、謝憐の父である仙楽国主は苦悩の末に「避難民を救わない」決断をする。もともと父親と折り合いが悪かった謝憐、そんな父を思いきり正論で殴ります。で、母后にやんわりとたしなめられる。

「あなたは太子ではあったけれど、国主になったことはないでしょう。国を治めるということは、あなたが道を修めることとは違うの」 (P333)

このお母さんの言葉がすべてなんですよね。父の苦悩や葛藤も知らず正論でぶん殴る息子、「それができたら苦労はしない」という解決法を得意げにまくし立てる息子…「おまえを見てるだけでイライラする」と言われても仕方ない。
「喉が渇いた人が二人いるのに水が一杯しかない、どちらに水を与えるか」という問題を出された時に、「もう一杯水を持ってきます」と朗らかに答えた若き謝憐。「神」となっても、「水をもう一杯」は簡単なことではない。その「もう一杯」がないからこその難題なのに、「自分ならいつでも、どこからでも、水を用意できる」と思っている。そして、「自分なら二人ともを救える」と。

見捨てられた永安人たちは反旗を翻し、同じ仙楽国の人間の間で戦争になってしまいます。避難民が増えることで首都の住民の間に緊張が生まれ、ささいなこと(犬がいなくなった→やつらが盗んで喰ったに違いない)をきっかけに双方の不満が爆発する……ああ、ほんとに人間ってやつはぁぁぁ。

「太子」である謝憐は首都側の人間として戦い、千人もの永安人を殺す。
なんせ「武神」ですからね。彼のいる軍隊はとりあえず負けない。でも永安人はしぶとく、決着はつかない上に、首都側にあの恐ろしい「人面疫」が発生、人々は「仙楽太子」の功徳を疑い始める
「神ならさっさと解決してくれよ」「結局何もできないのか」「そりゃあんたは死なないし、痛くもかゆくもないだろうよ」……。

いやはや、作者さんの人間観がすごい。悲しいかな、これが人間なのよね。

謝憐の師である国師の台詞がまたすごいんです。

「早すぎました。早すぎましたね」
「私があなたにあまり早く飛昇すべきではないと言った理由が、これでわかりましたか?それは、あなたの国民がまだ死に絶えていないからですよ」 (P282)

これを言わせる作者、墨香銅臭さんがほんとすごい。
「私の国民」「私の領地」と言ってしまう謝憐、すでに「神」であるはずの存在が、俗世での立場・身分を忘れられずにいる。ただ単に「17歳という若さ」が「早すぎる」だけでなく、「あなたの国民がまだ死に絶えてないから」と謝憐の“弱さ”を喝破する国師。

「まさか、双方が悔い改めて心を入れ替え、和解して再び一つの国に戻るのをまだ待っているのですか?」 (P410)

と、さらに追い討ちをかける。
国師も仙楽国に仕えている人だろうに、「もはや仙楽国の命運は断たれた」と冷静に見きわめているのですよねぇ。謝憐は永安を見捨てなかった、でも十分な水を与えることもできず、彼らを中途半端に生き延びさせたことで事態を悪化させた。

国師に詰られて、謝憐は

(本当に不思議だ。私が人を助けるのも守るのも、すべてあの人たちが死に値するほどの罪を犯したわけではない無辜の民だからだ。私がしてきたことは全部、一つ一つ真剣に考えて悩んだ末の選択なのに、(中略)どうしてこんなにも……失敗しているように聞こえるんだ?) (P410)

と思います。
若くて、恵まれた環境に生まれた「聖人君子」、やっぱりあまりに世間知らずなのだなぁ、という気がしますが(「何も悪いことはしてない無辜の民だから助ける」って、逆に言えば「悪い奴は殺されて当然」ってことだし)、じゃあ謝憐はどうすれば良かったのか。

永安の民の窮状など放っておくべきだったの? 日々「仙楽太子」に届けられる供物と祈り、大勢(たいせい)に影響しない細々とした願いだけ叶えて、水不足で死んでいく者たちのことなど見てみぬふりをしていれば良かったのか。
『天官賜福』の中の「神様」は別に全知全能じゃない。
すべての人間を救うことなどできない。

はぁぁぁぁぁぁ。
それなら「神」って何?って思っちゃうよねぇ。どれだけ祈っても自然災害には勝てず、ただそこに生まれたというだけで国王からも見捨てられ、苦しみながら死んでいくしかないのだとしたら。
「今さら和解して一つの国に戻ることなどない」というくだりもねぇ。現実の諸々を想起して、考えこんでしまう。


……仙楽国の内乱の話だけですっかり長くなってしまいました。“三郎”と思しき子どもの話はまた別の記事で。




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