『冬の王』3部作完結編『魔女の冬』、やーっと読了しました! はぁ、面白かった。
(1作目『冬の王』の感想はこちら、2作目『塔の少女』の感想はこちら

「チョルト」と呼ばれる精霊の姿が見える少女ワーシャ。故郷を離れ、少年のなりをしてモスクワ大公に仕えるも、女だということがばれ、宿敵コンスタンチン神父から「魔女」呼ばわりされて大公や市民たちからも疑いの目を向けられる。

魔術師カスチェイの手から姪っ子とモスクワを救い、大火事からも救ったものの、そもそもその火事の発端がワーシャ自身だったこともあり、コンスタンチンと市民の手で火あぶりに処せられそうになるワーシャ。
のっけから大ピンチです。
その窮地を救ったのは姉オリガの侍女であるワルワーラと、敵であるはずの“熊”――メドベード。縛ったはずの“熊”を自由にしたのはなんと冬の王マロースカ。ワーシャを救うため“熊”を解放し、引き換えに今度は自分自身の自由を手放したという……。

マロースカ、ほんとに愛が深いなぁ

ワーシャは当然マロースカを探しに行くのですが、マロースカの「自由の奪われ方」が面白い。
檻とか牢屋のようなところに閉じこめられているのかと思いきや、彼は小さな村で幸せそうにしている。彼の存在を信じる、いわば“信徒”に囲まれ、ワーシャの知っている姿よりも若々しくさえ見え。

だれかを永遠に閉じこめておきたければ、逃げたいと思わせないような牢を使うのがいちばんでは? この場所で、この真夜中、人間にはマロースカがみえている。マロースカを恐れ、同じくらい愛してもいる。マロースカは、それ以上の何を望むだろう? これまで長いあいだ生きてきて、それ以上何を望んだだろう。 (P234)

キリスト教の浸透で、人々に忘れ去られつつあるチョルトたち。忘れられることは、すなわち“消える”こと。冬の王マロースカも例外ではなく、その存在は薄れつつある。だからこそ、ワーシャという“見える”少女に首飾りを贈り、彼女の認知によって生きながらえようとした。

ワーシャの記憶をなくし、いわば“全盛期”の状態に閉じこめられたマロースカ。満ち足りて、そこから逃げることはおろか、自身が囚われていると思うことすらない。

すごいなぁ、“熊”賢いなぁ。

ワーシャを見ても思いださない、でも――。
マロースカの記憶を取りもどす方法、ちょっと、「あー」って思ったりもしました。ワーシャもほんとすごいなぁ。それだけマロースカとの絆に自信があるってことだもんなぁ。

ワーシャがマロースカを救い出してる間に“熊”はコンスタンチンと組んでモスクワにペストを流行らせ、やりたい放題。
わざと「市民は神の御加護を望んでいます!」と大規模なミサを挙行しようとするの、えげつなさすぎる。感染症に人混みは御法度だろ!!!(当時はそういう知見はまだなくて、コンスタンチンも知らないのかもしれんけど)

ずっと神に呼びかけていたのに神は何も答えてくれず、翻ってこの悪魔(“熊”)はよく喋る、という述懐がなんとも真理。
神の沈黙に耐え、悪魔の誘惑に耐える者だけが、真の信仰を持つことができる……。
「神などいない」と思っていたのに、セルギイ神父の祈りはちゃんとウプイリ(生ける屍=ゾンビのようなもの)を斥ける。そのことにショックを受けるコンスタンチン。

「神などいない」熊がいうのがきこえた。「あるのは信仰だけだ」 (P370)

“熊”のこの台詞、いいですよねぇ。セルギイ神父の祈りが力を持つのは――彼が奇跡を起こせるのは、「神が存在する」からではなく、「彼の信仰が揺るぎない」から。コンスタンチンがどれだけ呼びかけても神が応えなかったのは、コンスタンチンが心の奥で「ほんとに神なんているのか?」と思っていたからでしょう。「応えてくれない=神はいない」と思ってしまうぐらいの信仰心しか持っていなかったから。

人々に忘れられれば消えてしまうチョルトと同じく、神もまた、人の想いにより存在するものなのでは。

「(神がいるのかいないのか)真実なんてだれにもわからないのさ。人間にも悪魔にも」 (P370)

いちいち“熊”の台詞が洒落ててほんとに。
混沌の精であり、人間にとっては“悪魔”に等しい振る舞いをする“熊”。でも彼は彼なりにコンスタンチン神父を愛し、彼の死を悼む。人の死を悼む心が、“熊”にはある。

マロースカと力を合わせて再び“熊”を縛ったにもかかわらず、ワーシャは“真夜中の精”に「期待外れだ、あんたには失望した」と言われてしまう。
この展開も面白かったなぁ。悪い精霊を懲らしめ、善い(?)精霊と結ばれて、それでめでたしめでたし、とはならない。
そもそも“熊”は本当に悪なのか。

「善悪を判断するのはあなたの仕事じゃない。あなたの仕事は、わたしたちを結束させることよ。わたしたちはひとつなの」 (P448)

これも“真夜中の精”の言葉。真の“勝利”、真の“解決”とは何か――。

物語は、人間とチョルトが力を合わせてタタール人の侵攻からルーシを守るところで終わります。描かれている「クリコヴォの戦い」は実際にあった出来事であり、そこに戦士で修道士のアレクサンドル・ペレスヴェートという人物(本作品ではワーシャの兄)がいたのも史実。チェルベイという名のタタール人兵士と一騎打ちで戦ったのもほんとうのことだそうで。

史実とフィクションとの融合の仕方が見事です。

著者あとがきに

歴史に刻まれたこの戦いの水面下で、聖職者とチョルトがこの国でどのように共存していくかという別の戦いがあったかもしれませんが(後略) (P559)

ロシアにおいては、ふたつの信仰を持つ二重信仰という概念が、二十世紀初頭の革命のころまで根強く残り、東方正教と異教信仰が平和に共存していたのです。 (P559)

と書かれていて、共存できなかったブラッドリーの『アヴァロンの霧』のことを思い出します。アーサー王伝説とキリスト教、地母神信仰を絡めたファンタジー、大好きな作品だけど、あちらは結局土着の信仰は消えていく運命だったので。
神社にもお寺にもお参りする日本人としては、「なぜ“神”が一つだと思うの」なんですけどねぇ…。

チョルトたちのことを「邪悪だ」と言うセルギイに向かって、「人間だって邪悪だ!」と言い返すワーシャ。

「それに善良でもあり、その中間のあらゆる状態でもあります。チョルトも、人間や大地そのものと同じです。賢いときもあれば愚かなときもあり、善良なときもあれば残酷なときもあるのです」 (P479)

その通りですよね。“熊”を悪と断じて檻に閉じ込めても、それは解決にはならない。人間もチョルトも、善にもなれば悪にもなる。諸悪の根源みたいなコンスタンチン神父でさえも、彼は彼なりに「幸せになりたい」と思っていただけで――いや、彼はあまりにも迷惑で影響力が大きすぎたけど……。

人間とチョルト、そしてキリスト教を信じる神父たちが手をたずさえ、「ルーシ」という国を守ることができたわけですが、しかしこれ、奇妙といえば奇妙ですよね。タタール人の方には「神の御加護」がなかったのか。
チョルトたちは「土着の信仰」で、彼らを信奉するルーシの人々がいなくなれば消えてしまう。「ルーシを守ろう」とするのは当たり前だろうし、「彼らの土地」で戦うなら彼らが有利になるのもわかる。ではもし逆にルーシ側がタタールに攻め入ったなら、今度はタタールに根づく「精霊」や「神」が人々と団結してタタールを守るんだろうか。

そしてもし、敵対する国の両方が同じ神を信仰していたなら、神はどちらに味方を――?

作者はタタール人のチェルベイに「これは人間と人間の戦いにすぎない。どちらが勝っても、女たちは嘆き、地面に血が流れる」(P527)と言わせてもいて、チョルトと人間のかけはしになったヒロインや、その身をルーシに捧げたアレクサンドルを「単なる美談」にはしていないんですよね。

ワーシャがルーシを有利にするため力を使ったがために、本来犠牲にならなくてもいい人々が死ぬ描写もあるし、タタール人を苦しめることでワーシャが「残酷な喜び」を感じることもきちんと描かれている。

人間だって邪悪だ。
私だって。


久しぶりのがっつりファンタジー、堪能いたしました。


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