映画『トワイライト・ウォリアーズ~決戦・九龍城砦~』の原作本です。図書館で予約待ちしてやっと手に取り、わくわくしながらページを開いたんですが。

いきなり映画と全然違うーーー!

映画では身分証を得るため大ボスの開く賭け試合に参加していた洛軍、原作ではもともと大ボスの配下。え? どういうこと? 苦労して香港に辿り着いて、どうにかして身分証を手に入れようとしていた青年じゃないの? すでに江湖でその名を知られる有名人って、あまりにキャラクターが違いすぎる

大ボス率いる〈暴力團〉の寵児としてぶいぶい言わしていたのに、ある日突然大ボスに縄張りを荒らされ、直属の手下たちを大勢殺された上に母親までも奪われてしまった洛軍。自身も王九にボコボコにされ、九龍城砦に身を隠す羽目になる。

え? そーゆー?

映画では寡黙で不器用な感じだったのに、原作の洛軍はよく喋るリーダー気質の熱い男で、性格も全然違う。大ボスから理不尽な襲撃を受ける前に十二少と知り合ってるんだけど、その場面では「重く、落ち着いた足取り、淡々とした表情。整った顔立ちは、鋭敏で精悍だ。」(P14)と描写され、十二少の手下に向かって

「同じ江湖に生きる者同士、敵を増やすよりダチを増やしたほうが得じゃないか?」 (P15)

なんて軽口を叩いている。

九龍城砦では藍男(ランナン)という女性とロマンスを繰り広げるし、「なんだこれ?」って感じ。恋愛には奥手で不器用なところは映画の洛軍を彷彿とさせないこともないけど、彼女とのラブストーリーがけっこうなウェイトを占めているの、「思ってたのと違う!」すぎる。

いやー、だって映画のあの流れ、女の入り込む隙なんかないじゃん、女なんて邪魔じゃん。「男の世界」だからいいんじゃん。

まぁ、洛軍と藍男のロマンスはまったくベタベタした感じではなく、カラッと爽やかで不快ではなかったけど、洛軍、藍男、信一が過去に接点を持っていたっていうのはやりすぎな気が。

3人の「実は」という過去も、大ボス親子の関係も、洛軍や十二少の「熱い義兄弟」関係も、ジャンプのヤンキー漫画読んでる感じで、これはこれでエンタメとして楽しく読みはしたけど、映画とはかなり毛色の違う作品でした。

王九もねぇ、「死人のような男の青白い顔は灰色のコートと調和している。重い病気から回復したばかりのように見えた」(P31)って描写で、イメージ全然違うのよ。映画ではあんな「ヒャッハー!」な鈴木雅之だったのに……。元は少林寺の僧侶で、あの叉蛋飯のお店の主人の弟弟子だったらしい。気功の技を使っているので天下一品の味になってるとか、同じ味の叉蛋飯を作ることが王九に打ち勝つための修行になるとか、ほんとに漫画っぽかった。

「日本語版のためのあとがき」の中で作者の余兒さんが『ドラゴンボール』や『ジョジョ』といったタイトルを挙げて、子供の頃から日本の漫画を読んでいたとおっしゃっています。なるほどなぁ。

大ボスは『ドラえもん』の大ファンという設定になっていて、軟禁状態の娘にも『ドラえもん』のビデオだけは見せる。大ボスが『ドラえもん』で一番好きなキャラは「のび太の母」、そして最後、死の淵から大ボスを救ったのも「まだドラえもんの最終回見てないだろ!」という洛軍の言葉。えええ……。

大ボスについてはけっこう深掘りされてるんだけど、龍捲風については次作『龍頭』で描かれるためか、言及も出番も少なく。

映画のような洛軍との因縁があるわけでもなく(少なくとも今作では洛軍が陳占の息子という話は出てこない)、龍兄貴と洛軍の絡みはかなりあっさり。龍兄貴あってこその『トワ・ウォ』だったのに、どうして……。

映像では圧倒的なリアリティを持って迫ってきた九龍城砦の内部描写もあんまりない。映像と文章は違って当たり前だけども、あの狭い空間での超絶アクションが大きな魅力だったのに、そういう「九龍城砦ならでは」という部分はあんまり感じられなかったなぁ。

もうすぐ取り壊される九龍城砦、そこに確かにあった人々の暮らし、悲喜こもごもの日常。流れた時間。そういうものへの愛おしさと惜別の情が映画には色濃く流れていたと思うけど、この原作小説はあくまで「若者の熱い青春物語」という感じでしたね。全体的に明るくて、マフィアの抗争を背景にしてはいるけど、主眼は恋と友情、血と汗と涙の青春模様。

なんか、よくこれをもとにあの脚本を作ったなぁ、と感心してしまいました。続編『龍頭』の内容をも踏まえての脚色なんでしょうけど、よるべない一人ぼっちの洛軍が徐々に九龍城砦の仲間になっていく――映画の設定と展開の方が断然好みです。

とはいえ、龍捲風と陳占の話が描かれる前日譚『龍頭』の内容は気になる。作者の余兒さんが「自分の作品の中の最高傑作」(P395 日本語版のためのあとがき)とおっしゃっている作品、11月の日本語訳の刊行が楽しみです。