今日入っていた予定がキャンセルになったもので、だいぶ前に録画していた『逆襲のシャア』を見た。

私はこれを、公開当時に映画館で見ている。
大学生だった。
その時は、あまり面白いと思えなかった。
むしろ蛇足だ、と思った。
またアムロやシャアに会えるのは嬉しかったんだけど、『Zガンダム』ではアムロと一緒に戦ったシャアがまた敵になって、しかも「なさけない男」に成り下がっているのが嫌だったのだ。

シャアにはずっとかっこいい男でいてほしかった。
負けてほしくなかったんだ。

だから、たぶんテレビでも一回ぐらいは見たはずなのに、ほとんどストーリーを覚えていない。
積極的に「見たい作品」でもなかったのだけれど。

『ガンダムUC』を読んで、その世界が『逆襲のシャア』の3年後で、ロンド・ベル隊や連邦のモビル・スーツ等、色々な設定が「シャアの反乱」をも踏まえているものだから、俄然「どーゆー話だったんだろう」と気になってしまった。

一緒に録画してある劇場版『Z』3部作をとばして、『逆襲のシャア』2時間を一気に鑑賞。

見れば、覚えていることもある。
キーとなるキャラであるニュータイプの少女クェス・パラヤ。この子の名前だけは不思議によく覚えてた。
前に見た時も「いけすかない」奴だったけど、大人になって見ても、やっぱり「いけすかない」。
大人になったらよけいこーゆー小娘は気に入らないな(笑)。
感じすぎるがゆえに、純粋すぎるがゆえに無鉄砲で、わがままで、周囲への気遣いなんてこれっぽっちもない。
なのにハサウェイ(ブライトとミライの息子)もネオ・ジオンの男の子も彼女に恋してしまう。

男って、あーゆーはた迷惑な女の子に振り回されるのが好きなのね。
だから女は絶対に、あーゆー女の子は嫌いなんだ(笑)。

アムロは「ぼくはクェスの父親にはなれない」と言って彼女を突き放し、シャアは彼女のニュータイプとしての力を道具として利用する。

悪いおぢさんだよね、シャア。
クェスが自分に恋してるのをいいことに、うまくそそのかしちゃって。
クェスに対しても、「大人の女」ナナイに対しても、「ずるい男」。
彼が本当に愛し、求めたのはララァだけ。
他の女は、彼にとってはみんなただの道具だ。
でも『逆襲のシャア』で彼は、「ララァは自分の母親になれる女だった」と言う。

母親かよ〜〜〜〜〜。

そのすぐ後にアムロに「なさけない男!」と言われたような気がする。
私も言うぞ、「なさけない男!!」

まぁ、シャアのような才能あふれる革命家は常に孤独で、包み込んでくれる温かい胸が必要なんだろうな、とは思うけど。
自分は優しくないくせにね。
彼が孤独なのは、彼が周囲を見下しているからだ。
誰も自分を理解できるほど賢くないと思ってるから。

シャアは地球に隕石を落として、「核の冬」を起こそうとする。地球の愚民どもを粛正するために。
地球の人間は宇宙にいる人間のことなど知ろうともせず、ただ支配だけをしようとする。
見捨てられた宇宙の難民達がシャアを救世主として「ジーク・ジオン」を叫ぶのはわかる話で、地球連邦のお偉方は実際一年戦争の頃から「自己保身ばかりの腐った連中」だ。

反乱が起きる理由はわかって、でも地球に住んでるのはお偉方だけじゃない。戦争で犠牲になるのは常に「下々の人間」。
「上」を変えられないのは「下」の人間にも責任がある。だから一緒に殺されても仕方ないのだろうか。

そうなのかもしれない。

「上」のやることを、いかなる理由にせよ認めて暮らしている「下」に、全然責任がないとは言えない。

愚かな大衆。

「なら地球の愚民どもを今すぐ賢くしてみせろ!」
と叫ぶシャアの気持ちはわかって、でも――。

哲学的だなぁ、と思う。
本当に、「戦争」を描いてるんだなぁと。
「戦闘」ではなくて、その背後にある、思想を描く映画。
「革命はいつもエリートが起こしてどーのこーの」というアムロのセリフ。
色々考えさせられすぎる。

互いを理解しようとしない人間達の諍いは一年戦争でもグリプス戦役でもシャアの反乱でも終わらなくて、きっと『UC』でも終わらないんだろう。
現実の人間達の諍いも、きっと終わることはないから。

それでも、「人間だってまだ捨てたものじゃない」というのが、あのラストなんだろうな。

つづく