『悪霊』の感想の続き。

スタヴローギンは、不思議な主人公である。
彼は、これと言って何もしない。
ペテルブルクやスイスでは色々やっていたようだけれど、故郷の街ではそんなに行動しなくて、「以前にやっていたことの結果としての出来事」しか起こらない。

色々画策して行動して混乱させるのはもっぱらピョートルの仕事である。

でも。
それでもやっぱり、この話の主人公はスタヴローギンなんだろうなぁ。最初、ドストエフスキーがこの話を書いた時は、ピョートルしかいなかったらしく、途中でスタヴローギンが現れて、既に書いていた700〜800枚を破棄してまた一から書き直したそうだ。(すごいなぁ、偉いなぁ。私だったらその700枚に固執しちゃうよ。せっかく書いたのにもったいない、って)

ピョートルだけの話だったら、本当にこれは「集団ヒステリーで空騒ぎして人死にまで出ちゃいました」という喜劇でしかない。
ペテン師に振り回される話でしかない。

スタヴローギンがいるから悲劇になる。
なぜスタヴローギンは悲劇的なんだろう?
「坊やだから」……と書いたけど、「労働の価値」で思い出して、ちょっと橋本さんを繰ってみた。
『宗教なんかこわくない!』
これは1995年に出た、オウム真理教がらみの本だけれど、その中に「生産の空洞化は、いたずらな個人の神秘化を招く」ということが書かれている。
「働くこと、生産することに重きが置かれない」ということは、それだけ現実生活にリアリティがなくなっていくということで、「個人の内面」ばかりに目が向いて、「スピリチュアルばやり」になってしまう。

スタヴローギンはお坊ちゃんで、生活に苦労はしていない。
シャートフは彼に向かって、「あなたが無神論者なのは坊ちゃんだからだ!」と言う。
「神秘化」と「無神論者」じゃ逆なような気がするけど、キリスト教の世界で「個人の内面」に目を向けて「神秘化」すると、かえって「無神論」の方に行ってしまうのかもしれない。

『悪霊』には、「神がいないことを証明するために自殺する」奇妙な無神論者(?)キリーロフ君もいる。
「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、はじめてえられるのです」
「もし神があるとすれば、すべての意志は神のもので、ぼくはその意志から抜け出せない。もしないとすれば、すべての意志はぼくのもので、ぼくは我意を主張する権利がある」

「ぼくの我意の頂点は、自分で自分を殺すことだ」というわけで、彼は自殺するんだけど。

なぜ「我意の主張」が「自殺」に結びつくか、ということはともかく(キリスト教で自殺が禁止されてるからか?)、「もし神がなければすべての意志はぼくのもの」というのは、わからないでもない。
私は最初っからキリスト者ではないので、「私の意志は私のもの」と思っている。運命とか、人智を超えたものとか、あるかもしれないけど、あってもなくても、私は私の人生を精一杯生きるほかにしようはないのである。

『宗教なんかこわくない』の中で、ブッダの話が出てくるが、ブッダという人はそもそも、「自分の人生は自分のものだ」と思った最初の人である。
ブッダが成し遂げた「解脱」というのは「輪廻の輪から抜け出て、“もうこれ以上生まれ変わらない!”と自分の人生を自分で終わらせる」ことだった。

なるほど、「我意の頂点」は「自分で自分を殺すこと」かもしれない。

輪廻という「宇宙の法則」を脱して、「自分の人生は自分のものだ」と思うこと。
それはつまり、「自我の獲得」である。
ブッダの悟りとはそーゆーものなので、本来仏教に「神様=宇宙の法則」はない。

神様がいなくても、自分の頭で考え、自分の足で歩いていける――「自分の人生は自分のもの」ということは、もう2000年も前にブッダが理解した。

なのに神様がいないとなると、キリーロフ君は「狂人」のようになって「ぼくはどうあっても自殺するぞ!」ってことになっちゃうし、ピョートル達“社会主義者”は秩序を壊してやりたい放題。スタヴローギンはわざと非常識なことをやって「自分の力」を確かめる。

なんで神様がいないとそんな右往左往しちゃうのかな。

スタヴローギンは、「自分の力」を確かめるためにわざと醜悪なことをやった。たぶん、醜悪なことに手を染めることが、「生きている実感」を得ることだったんだろう。
まったくお坊ちゃんってのは困ったもんだな、であるけれども、とにかく彼はとことん「理性的」でいたくて、「理性」の上で、「醒めた意識」の上で悪事をも働いて(だからピョートルに『異常な犯罪能力がある』などと言われるんだろう)、自分が「神様」なんていうおとぎ話に惑わされない、「完全に自分の意志」で「自分をコントロール」できることを証明したかったのじゃないか。

良いことをするよりも、悪いことをする方が――それを「悪」と知って「悪」を成す方がより「挑戦的」で、「意識的」だから、スタヴローギンは色々やってみた。
やってみたけど、やっぱり「生きている実感」は得られなかったんだろう。彼は何にも情熱を持てない。
当たり前だ。「自分で自分を完全に制御できる」彼はつまり、「我を忘れる」ことができないんだから。

頭ばっかりで“体”がなくて、観念ばっかりで破綻する。

うーん。
神様は別にいなくてよくて、「自我の確立」は必要だけど、その時に「肉体」とか「労働」をおろそかにして、「自我」を「新しい神様」にしてしまうと、やっぱりおかしくなってしまう……というのがスタヴローギンの悲劇?

書いてて自分でもくらくらしてきた。
オーバーヒートじゃ。


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