ドストエフスキーの『未成年』、読了しました。

面白かった!!!

途中までの感想(『未成年』(ドストエフスキー)面白いです!)でも書いたけど、『白痴』よりずっと読みやすくて、楽しめた。

「私は先走りしすぎたようだ」というドストエフスキーお得意のほのめかしにはめられて、どんどんとページを繰ってしまう。
もうほんと、「ああ、もう、さっさと教えてくれ~~~!!!」って感じで。
ついつい後ろの方のページをぱらっと先読みしてしまうこともあった。


このほど復刊された新潮文庫の末尾には、佐藤優さんによる「解説」がついていて、もう1行目に「ドストエフスキーの小説の中では、とりわけ難解だ」って書いてある。

こんなこと書かれたらビビるやん(笑)。

もちろん私も先に「あとがき」や「解説」を読んだのでちょっとビビったんだけど、読んでみるとすごく面白くて、主人公アルカージイの気持ちはよくわかるし、サスペンス仕立てというか、主人公の目には明らかにされていない謎が徐々に解き明かされていくふうになっていて、普通に読める。

『白痴』の方がよほどわけがわからなかった。
『悪霊』の方がよほど難解に感じた。

たぶん、専門家の方々的にはこの『未成年』、難しいんでしょうね。

「この小説でドストエフスキーは何を言いたかったのか?」という問題の立て方をすると、「難解」になるんでしょう。

「小説にすれば数十本の別の作品になるような着想を、ドストエフスキーがこの作品の中に押し込んでいるから」と佐藤さんは書いておられます。

当時のロシアの時代状況、思想背景。ドストエフスキー作品では欠かすことのできない「無神論」「民衆の真理」……。

確かに、アルカージイの実父ヴェルシーロフのぶつ「思想」の部分は、「何のこっちゃ」でよくわからないところが多いんだけど、そーゆーところは適当にとばしてしまえばいいので、「現実に直面して右往左往する青年の成長記」としてだけでも十分に楽しめる。


前にも書いたけど、このアルカージイくんがほんっとに「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の持ち主で。

なんていうか、自分ではちゃんとわかってるつもりで、色々周りの人間を分析したりしてるんだけど、その実何にもわかってなかったりするのよね。

それでヴェルシーロフやその他の人々に思いっきり振り回されて。

一家の世話を何くれとなく焼いているタチヤナ・パーヴロヴナに「このばか!」ってしょっちゅう罵られる。「おまえは何にもわかってないんだから」って。

でもタチヤナも罵るばかりでちっとも教えてあげへんねん。
ほのめかすばっかりで。
そんなにほのめかすぐらいやったらちょっと教えたったらどないなん、って言いたくなる。私も早く知りたいし(笑)。


で、またこの「困った青年」の父親であるヴェルシーロフという人がまた、息子以上に「困ったおじだん」だったりするのだな。

普段は――というか、落ちついてる時(?)は蘊蓄のある、いいことを言ったりして、アルカージイとの「父と子の会話」は面白い。

上巻ではアルカージイが切実に「父親」という存在を求めていて、それに対してヴェルシーロフの返答はいつも肩すかしというか、「アルカージイの言ってほしい言葉」はなかなか出てこない。

でも親子の会話って――親子の関係って、そういうもんだよな、って読んでると思えてくる。

お互いに「相手に対する期待」があって、「親子だからわかるはず」という気持ちもあって、でもやっぱり「別の人間」である以上お互いの本当の心の内というものはそうそうわからなくて、会話が噛み合わなかったりする。


で、ヴェルシーロフは「宿命の女」カテリーナ・ニコラーエヴナのことになるととたんにおかしくなってしまう。

まぁもともと「変人」ではあるんでしょう。自分でも「分身がいるんだ」と言っているくらいだし。

アルカージイの母親であるソーフィヤを「天使」と呼んで、愛しているのも本当なんだけど、でも「宿命の女」カテリーナ・ニコラーエヴナのことを振り切ることができない。

『白痴』のムイシュキン公爵もナスターシャとアグラーヤを同時に愛していたし、ナスターシャ自身、公爵を愛しながらロゴージンを必要としていた。

そういうことって、あると思う。

ヴェルシーロフのこの「二股」のせいで、アルカージイは振り回されるけど、でも「人間にはそういうところがある」のよね。


母を愛しているアルカージイにとって、「父」であるヴェルシーロフに母ソーフィヤを愛してほしいと思うのは当然のことで、そして彼に「自分の父」であってほしいと望むのも当然のことなんだけど。

なんというか、「子どもが親離れする」とか「子どもが父親を乗り越える」とかいうのは、「子どもが親を一人の人間と認める」ということであるような気がする。

幼い頃には「絶対」的な力を持っている「親」が、だんだん「ただの人」になっていく。

嫌な面もたくさん見えてくる。
でも、いい面も悪い面も含めて、「親だって一人の人間」であるということ。

全部ひっくるめてその存在を認めるということ。

前に、香山リカさんが、「親を困らせたい」というような理由で殺人を犯す若者に対して、「親に対する期待が大きすぎる」「親のことはさっさと諦めて、家を出たっていい」みたいなことを書いてらっしゃったんだけど。

親だからって、大人だからって、たいしたことない。

もちろん、「たいしたことある」部分をいっぱい持った大人もいるんだろうけど(笑)。
「“親”だって人間なんだから、いいとこもありゃ悪いとこもあって当たり前」と思うこと。
そういうふうに「親」を見られるようになるっていうのが、「親離れ」ってことじゃないかな。


「親」以外にも、アルカージイは色んな人間関係、賭博や悪党の奸計に振り回される。

自分の殻の中だけで構築されていた彼の「立派な考え」は世の中の「現実」の前に脆くも崩れて、彼はまた新しい思想を自分の中で組み立てていかなければならない。

ドストエフスキーなんで、登場人物も出来事もそれぞれ極端だけど、でも「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を持った若者が現実と格闘しながらだんだんと目を開いていく、っていうのは、「なるほどまさに『未成年』だな」という気がする。

時代状況が違っても、普遍的なことだろうと。


この小説はアルカージイの一人称で書かれているので、他の興味深い登場人物について、「わからないまま」のことも多い。

でもそれもまた、面白いんだな。

色々想像できるし、色々考えさせられる。

そして現実に、他の人が何を考えているかはわからなくて、一生懸命想像するしかない。


ドストエフスキー万歳!