(第1巻の感想はこちら、第2巻の感想はこちら、第3巻の感想はこちら

ふはぁ、読み終わっちゃいましたよ、『断崖』。まだ途中に入っていたゴンチャロフさんのエッセイ(?)と解説は読んでないんだけど(自分の感覚でここに感想を書きたいから)、本編読み終わっちゃった。

分量のある面白い作品って、「終わり」が気になるんだけど、でも終わってほしくない気もするんだよね。『SP革命篇』の記事でも書いたことだけど。

見終わってしまうのが惜しい。読み終わってしまうのが惜しい。

そう思える作品に出逢えるのは幸せなことですが♪

さて。3巻でさんざっぱら引っぱった「謎の手紙の主=ヴェーラの恋の相手」はやはり「あの人」でした。

そして「あの人」とヴェーラの仲は破局へと向かっていきます。

煩悶するヴェーラ。恋するヴェーラ。

ちょっと残念でした。

3巻までのクールで知的な彼女が好きだっただけに、「所詮おまえもただの女だったのか」という(笑)。

これまでのライスキーとのやり取りにも「あの人」の入れ知恵があったのかな、とも思っちゃうし。

ヴェーラと「あの人」の議論、結果的に別れることになる相容れない二人の心情は「新しい(と思われている)自由な思想」と「古い(と思われている)地に足の着いた生活」の対決のように見えるのだけど、ゴンチャロフさんが描こうとしたのはそんな単純な「古いしきたりの方がやっぱり優れているんだ」ということではなく、そのようなぶつかり合いを経てこそ「真に新しいより良き生活」が生まれてくるというような、そんなことじゃないのかな。

「祖母=ロシア」という比喩がなされる最後の1行。

タチヤーナ・マルコヴナがただの旧弊なおばあさんでなく、時にはぴしゃりと「古い世間」に平手打ちを食わせるように――古い生活の上に自分なりの生き方・信念を持って新しい時代を生きていこうとするように。

古いものをただ否定するだけではいけない。

新しいものをただ怖がり、忌避するだけでもダメ。

ぶつかり合った中から、自分にとって本当に大切なものは何なのか、それをすくい取る。

『断崖』。象徴的なタイトルは、ライスキーの地所の中の「断崖」、その下でヴェーラと「あの人」が密会を重ね、文字通り「堕ちていく」かどうかの瀬戸際を演じた場所。

「あの人」についていくことが「堕落」なのかどうかは、色々考え方があると思うのだけど。

「永遠に続く愛などない、そんなものは約束できない」と言う「あの人」。それはある意味正直で、誠実な物言いだろう。永遠の愛の約束なんてものが簡単に破られること、その具体例は巷にいくらでも溢れているんだもの。

「未来は約束できない。でも今は愛しているから一緒にいてほしい」

正直すぎる申し出に、ヴェーラは「うん」と言えない。「愛の約束」があてにならないとわかっていても、それを正直に言う男に対して大抵の女は「うん」とは言えないだろう。よほど相手に夢中で、周りのことが何も見えなくなって、「今一緒にいられるなら何だっていい!」と思い込めるぐらい前後不覚になっていないことには。

うん、まぁ、だからやっぱりヴェーラは「賢い」のだろうけれど。そういうふうには夢中になれないという意味で。

そしてだからこそあっけらかんと人間性の真実(“永遠の愛なんて約束できるか”)を口にしてしまう「あの人」に、旧弊な村の住人とはまるで違う「新しい思想の持ち主」に惹かれてしまうのだ。

ヴェーラも「あの人」も、お互いに相手を自分のフィールドに取り込もうと苦心する。なんとかして相手を自分の流儀に屈服させようと。

でももしそれがあっさり成し遂げられるような相手なら、そもそも最初から二人は恋に落ちたりしなかったろう。簡単に手に入らないからこそ、ますます恋い焦がれるのだ。

これはたぶんライスキーにも言えることだろうけど。

ライスキーは自分には不可解なヴェーラに夢中になり、その「謎」が解けたとたん夢から覚める。「謎の女性への熱中」から、「妹への親愛」へところっと切り替わる(そして妹のためにちゃんと苦悩するので、決してライスキーはただのはた迷惑な人ではない)。

ヴェーラにとって「あの人」はミライさんにとってのスレッガーさんか、とも思ったのだけど、どう考えてもスレッガーさんの方が男っぷりが上(笑)。「あの人」は「新しい思想の持ち主」に見えて、どっか底が浅いというか、破壊ばかりで何も生まない人っぽい気がする。

ただ「ヴェーラ=ミライさん、あの人=スレッガーさん、ライスキー=ブライトさん、トゥーシン=カムラン氏」と考えるのはけっこう楽しい(笑)。ライスキーとトゥーシンのどっちがブライトでどっちがカムランなのかは難しい問題だけれども(爆)。

トゥーシンというのは、お祖母さんや周囲の人達がヴェーラの婿にもってこいと思っている人物で、本人もヴェーラのことを心から大切に思っていて、ヴェーラと「あの人」との成り行きを聞いてもその心はびくともしない。実直で生活力にも長けた、大変な好人物(だからこそ乙女心は微妙にときめかなかったりするが)。

ヴェーラとトゥーシンの将来のハッピーエンドがあるかも…とほのめかすだけで物語は終わる。

あれだけヴェーラに夢中になっていたライスキーは何だったの?とんびにあぶらげさらわれるの!?って感じやねんけど、それを言ったら1巻ではこの人がヒロインかと思われたソーフィヤはその後何の音沙汰もなく、この物語の主人公がライスキーかどうかさえ今となってはよくわからない(笑)。

狂言回しと言えば狂言回しなのか、ライスキー。

最後にまた突拍子もない行動に出て「自分らしさ」を大いにアピールする彼、それでも「ヴェーラ事件」の前の彼とはすっかり変わってしまっている。芸術家肌の夢想家、相変わらず大成はしそうにないけど(笑)、ふらふらと宙を滑るばかりだった彼の人生には、ヴェーラとマルフィンカ、そしてお祖母さんタチヤーナ・マルコヴナという3人の大切な「家族」、「心の拠り所」、「帰るべき場所」ができた。

ヴェーラ=玉鬘、トゥーシン=髭黒、ライスキー=光源氏、と考えるのも面白いのだけどね。

『源氏物語』の中で、光源氏は養女として育てていた玉鬘(もちろん源氏は下心ありありだった)を髭黒に奪われてしまうのだけど、そのおかげで源氏は生涯玉鬘から「娘としての愛情」を受けることになる。最愛の紫の上に死なれ、女三の宮も寝取られ、「温かい家族」などというものとは無縁だった源氏を、玉鬘は「娘」として、「家族」として、何くれとなく気づかい、世話してくれるのだ。

うっかり「自分の女」にしてしまわなかったからこその、「愛情」。

ライスキーにとってヴェーラは大切な「家族」になったし、ヴェーラも「あの人」との破局と葛藤を経て、ウザかったライスキーを「兄」として受け容れた。相談相手として、支えてくれる相手として。

「男女の愛」だけがハッピーエンドじゃないのよね。

……最後の「タチヤーナ・マルコヴナの秘密」はちょっと、蛇足な感じもしたけれど。時代背景的に、必要なのかな。彼女の強さ、生き方を裏打ちするには。

「許されない恋」がタチヤーナ・マルコヴナやヴェーラを苦しめ、その後の人生を「日陰の身」で過ごさなければならないほど重くのしかかる時代。現代でもやっぱり、男より女の方がその手の「世間の目」から苦しめられる気がするけれど。

一方でライスキーの友人コズローフの細君のように、「世間の目」もへったくれもなく夫を置いて出ていっちゃう女もいるし。

みんなに「おいおい」と思われながら「いい年こいて色キチガイ」を貫くポリーナ・カールポヴナとか。

ドストエフスキーも「なんでこんなに“女”がわかるんだろう?」と思ったけど、ゴンチャロフさんの描く“女”もなかなかのものだった。

というわけで。

ゴンチャロフさんの長編第1作にして出世作という『平凡物語』を図書館で借りてきました。ちらっと解説を見たらゴンチャロフさん、『断崖』には20年の歳月をかけたらしく。

あああ、そうかぁ。それだけの時間をかけて紡がれた物語なのかぁ。

1巻を読んだだけではまったくわからないその後の展開、丁寧な人物描写、何よりタチヤーナ・マルコヴナの魅力♪

楽しませてもらいました!


(『断崖』4巻の付録「おそ蒔きながら」の感想はこちら