(『断崖』本編の感想はこちら→1巻2巻3巻4巻&5巻

『断崖』4巻の付録「おそ蒔きながら」。晩年のゴンチャロフさんが自作について述べたエッセイです。『断崖』の話が中心とはいうものの『平凡物語』『オブローモフ』のことも当然出てくるので、全部読むまで後回しにしていました。そしてそれは正解でした。ゴンチャロフさんはこの三作はすべて繋がっている、

ここには三つの小説ではなくて、一つの小説しか認めないのである。これらの小説は一本の共通の糸によってつながれ、私の体験したロシア生活の一時代から次の時代への推移という共通な一本の糸で、一つの系統的な思想でつながれ、また私の絵・肖像・場面・小現象などにこれら諸時代の現象が反映していることで互いにつながっている。 (第4巻P293)

とおっしゃっています。

私は三部作の最後の『断崖』から読み始めて1作目『平凡物語』に戻り、2作目『オブローモフ』と進んだのですが(つまり順がおかしかったのですが)、それでもというか、むしろ逆にそうだったからなのか、「時代の移り変わりを背景に変遷していく人々の生き方」「それを見るゴンチャロフさんの思索の流れ」を感じることができました。

田舎から出てきたお坊ちゃんが都会で揉まれて俗物になる『平凡物語』、田舎から出てきてそのまま都会に馴染めずひっそりと死に行く『オブローモフ』、そして田舎へと還る『断崖』。

『平凡物語』が発表されたのが1847年。

『オブローモフ』が1859年。

『断崖』の執筆には腹案から二十年の時間がかかって全編が出版されたのは1869年。

そして自作の解説的なエッセイ『おそ蒔きながら』はその10年後1879年の筆になるそうです。

ゴンチャロフさんは『断崖』のあとは小説をお書きにならなかったようで、『おそ蒔きながら』は「私はもうずっと以前にペンをすて、何一つ新作を発表していない」という一文で始まります。

私の時代は過ぎた、そしてその時代とともに私の作品、つまり作品の寿命も「済んだ」ものと思って、私はこのまま自分の文学活動を終える考えであった。 (P277)

新版を起こす気もない、などと書かれているのですが。

150年経った今も、日本という遠い国でさえも。

読まれているのですよ、ゴンチャロフさん。途中絶版状態になったりもしていますけれど、それでも読まれているのですよ。読んで「面白い」のですもの。

「ただ偉大な名匠の作品が、次の時代に生き残って、歴史的記念物になるにすぎない」、しかし私の作品は忘れられるだろう、というゴンチャロフさんの書きぶりはもちろん大いに謙遜が入っているのでしょうが。

今の読者が、ロシア革命も農奴制も何にも知らない今の日本人の読者が、「面白い」とページを繰っているのを見たら、どんな感慨をお持ちになるのかぁ。うふふ。

さてそれで。

新作を発表しないゴンチャロフさんに対して同時代人は「なんで書かないの?」とか、「これこれこういうテーマで書いてよ」とか、『平凡物語』以下の三部作に関して「ここはこういう意味ですか」「○○のモデルは誰ですか」と色々質問してきたらしい。

そのいちいちに答えるのも大変なので、ここらで一つ私自身の見解を公表しておこう、というので発表されたのがこの『おそ蒔きながら』。

自分の作品について作家があれこれ解説したり注釈したりする、というのはなかなか難しいものですよね。そもそも説明しないと「わかってもらえない」というのは「作品が失敗している」ことだろうし、成功した作品においても読者はあれこれ「創作上の秘密」を知りたがるものだけれど、それは本来「言わぬが花」だと思います。

作家がどんな思いを込め、どう読んでもらいたくて書いたとしても、読者はそれを好きに読んでいいので、作者の思惑とは無関係に読者が感動することも、その逆もある。

作品というのはできあがったとたん作家の手を離れて独自の存在になってしまうものだと思います。

ゴンチャロフさんも

もし読者が私の作品へのこの私の鍵を間違いだと思われたら、むろん自分で自分の鍵を選ばれて差し支えない。 (P281)

とおっしゃっています。

自作について述べる、ということがそのように難しいものであるせいか、小説は大変読みやすくずんずん頁を繰れたのに、『おそ蒔きながら』はなんかちょっとわかりにくい、読みにくい文章でした(^^;)

でも三部作の相関関係、創作の裏側が見えるのは興味深い。

私は『平凡物語』のリザヴェータ→『オブローモフ』のオリガ→『断崖』のヴェーラ、という繋がりを考えていたのですが。

『オブローモフ』をご覧なさい――オリガこそ次の時代のナーヂェンカの変化です。 (P301)

ナーヂェンカ?誰それ(笑)。

ナーヂェンカというのは『平凡物語』の主人公アドゥーエフが最初に夢中になる女の子なんです。彼女も彼に恋してくれるんだけど、新しく伯爵だか公爵だかという立派な男性が現れるとすぐにそっちのがいいと悟って、乗り換えてしまう。

アドゥーエフは「決闘だ!あいつが彼女を盗んだんだ!」といきり立つんだけど、叔父さんに冷ややかに「いや、それはおまえに恋敵以上の魅力がなかっただけだろ。それを恋敵のせいにするなよ」と言われる。

わははは。

『平凡物語』では後半リザヴェータの存在が大きくなって、前半のヒロインであるナーヂェンカのことはすっかり忘れていました。なるほど彼女がオリガへと続いていくのですか。

問題は新しいタイプ――とか全人類的根本タイプといったようなもの――の発明にあるのではなくて、それが誰々にはどんな風に現れたか、その周囲の生活とどんな風に結びついたか、またその生活がこれらのタイプの上にどんな風に反映したかという点にある。 (P304)

私の作品では(オネーギン以後の時代なので)、ナーヂェンカも、オリガも、――いや、むしろナーヂェンカ・オリガと言ったがよい(というのはこの二人は時期を異にした同じ人物だと私は断言するのだから)――その時代に応じて別々の行いをした。つまりナーヂェンカのお先真っ暗から、勤労・知識・精力――一口に言えば、力――の代表者たるシュトルツとのオリガの意識的結婚へ自然に移って行ったのである。 (P305)

その人間の生きる「時代」というもの。それが、同じ「人物」に自然に違った行動をさせる。

ふううむ。

「時代」の移り変わり=三部作の登場人物達の行動の移り変わり。

この話(『平凡物語』のこと)は――私の著作のうちでは――第一の画廊で、次の二つの画廊またはロシア生活の二つの時代へ移る前室となっていて、ロシア生活のこの二つの時代、つまり『オブローモフ』と『断崖』――または『夢』と『目ざめ』――にぴったりと結びついているのである。 (P301)

『オブローモフ』と『断崖』が『夢』と『目ざめ』というのはなるほどすぎて唸ってしまいます。

彼(ライスキーのこと)はオブローモフ流に眠ってこそいないが、やっと目をさましただけのことで、差し当たり何をなすべきかは知っているだけで、自分ではしていないのである。 (P320)

そうそう、そうでしたね。

領地の管理はお祖母さんに任せっきり、計算書に目も通さないところはオブローモフ譲り。それでいてもう農奴制に立脚した世の中は古いと知ってはいるから、「領地なんか手放したっていいよ」とか「百姓なんか解放してしまいなさい」なんて勝手なことを言う。

しかし全ロシア社会が、そのあらゆる隅々が動揺していたのだから、彼のこの動揺ぶりも、優柔不断さも至極当然である。急激な大転換は、衣替えのようには出来ないで、強者が弱者を圧倒し、発酵の全原子が溶け合って一つになるまでは、行われ得ない。過渡期というものはいつでもそんなものである。 (P326)

いや、まったく、深いですね。

理想と行動というのはそうそう統一されるものじゃないし、社会も個人も新旧善悪色々なものが渦巻いて、そうそうスパっと割り切れるもんじゃないものね。

ゴンチャロフと同時代の人達の中には、なぜヴェーラの相手役としてマルク・ヴォーロホフのような粗暴な人物を持ってきたのか、と非難する人が多かったらしい。

そしてまた彼を「若い世代への侮辱」と取った人も。

私として極端に驚かされたのは、当のヴォーロホフ型の連中は別として、若い世代がヴォーロホフを自分たちに当てつけたものと受け取ったことだ! (P333)

この辺、面白いですね。「新しい思想」を振りかざす者=自分たち、とすぐに受け取ってしまう若い世代。

「思想」だの「自由」だのを振りかざすのは何も若者の特権じゃないでしょ、およそ「信念」を語る時には老いも若きも誰だって「振りかざす」ものじゃないの、というゴンチャロフさんの反論。

言われてみればねぇ。

「問題はヴォーロホフがこれらの概念の意義を取り違え」たことであり、しかし「考えついた虚偽ではなく、彼本来の誠実な錯誤であったればこそ、ヴェーラやその他の連中を錯誤に陥れることが出来たのである」

マルクは決してペテン師ではなかった。ヴェーラに対しても、「永遠の約束なんかできるもんか」と正直に、真摯に向かい合っていた。彼自身は、自分の「思想」や「行動」を「間違ったもの」とは思っていなかった。

それって、大抵の人はそうだよね。

「正しい」と確信は持てないまでも、「より良い」方を選んでると自分では思ってるわけじゃない?

それがはたから「間違ってる」と言われ排斥されたりするのは哀しい話だけども、「絶対的に正しいものはない」にすると本当にヤバい思想の持ち主達も「正しい」になるし……。人間社会そのものをずたずたにするような……うーん、でも「過渡期」において、「新しい正しい思想」は「古い思想に生きる社会」を一時的にずたずたにしてしまうような……。

難しいな。

で。

最後にゴンチャロフさんの「創作の秘密」。というか、「創作」というものに対する考え方。

リアリズムとファンタジーについて。

ただ有るがままの自然と人生を書くのだ、と彼らは言う!だが理想への精進、ファンタジーもまた人間的真実の有機的特質ではないか。自然の真実はただファンタジーによってしか芸術家のものとならないのではないか! (P361)

うんうん、私もそう思います。

ファンタジーだからこそ真実が♪

『断崖』のあと、筆を折る形になったゴンチャロフさん。「これこれの事件を、これこれの生涯を書きなさい」と親切なことを言ってくれる人もいたけれど、私にはそれはできないのだ、とおっしゃっている。

私自身の中に生まれず生長しなかったもの、私の眺めたり観察したりしたことのないもの――そうしたものは私のペンの及ぶところではないのである! (P377)

自分の中から「書きたい!」という思いが湧いてこなければ、書けないものですよね(しみじみ)。

3作というのは数としてはもちろん「少ない」のでしょうが、濃密で豊かな3作。

きっとこれからも読み継がれていくと思いますよ、ゴンチャロフさん。あなたの作品の中には時代や国境を越えた真実が……「ファンタジー」だからこそその「リアルな背景」をまったく知らぬ読者にも伝わる「真実」があります。

素敵な作品をありがとう。