1962年(昭和37年)に刊行された哲学入門書の復刻版です。作家であり元外務省主任分析官の佐藤優氏が自著の中で紹介して有名になったとかで、この復刻版には佐藤氏による「復刊によせて」という文章がついています。

佐藤氏はこの本を中学1年生の時に手に取られたそうで。

「この本ならば書いてあることの意味がわかると思い、レジに直行した」

中1で、こんな本を……。

おばさんはもう40をだいぶ過ぎましたが、書いてあることの意味がわからない個所がけっこうありました。

タイトル通り、15人の哲学者の「生涯」「時代背景」「思想」「哲学史における位置づけ」をコンパクトにまとめてあり、また、個別の15人に入る前に哲学史をざっと見渡す「哲学思想史」が置かれ、巻末には「用語解説」があって、哲学の入門書として非常に親切な構成になっています。

第一編「哲学思想史」の、特に「哲学のすすめ」の部分は確かに読みやすく、また、みなぎる啓蒙の気概に胸をつかれます。

戦争に限らず、一般に、人民を不幸な道にさそいこもうとする人々にとっては、批判的精神、自由にものを考える習慣ほどじゃまになるものはあるまい。こういう人たちの眼には、自分でものを考える人間、批判的に考えかつ行動する人間は、「不逞の輩」だとうつるのであろう。 (P72)

だからこそ「哲学する人間」が必要だという著者たちの思い。哲学は決してかび臭い学問ではなく、戦争やその他の害悪から人民を守るための強力な武器なのだという自認。

実際、ソクラテスは「若者をまどわす」という罪で処刑されているのですものね。ある種の為政者にとって、「自分の頭で考える若者」を生み出すというのは許しがたい罪なのです。

その、ソクラテスに始まりサルトルで終わる第二編「世界十五大哲学」。

ソクラテス、プラトン、アリストテレス、という古代ギリシャの三哲人が紹介されたあと、一気に13世紀まで飛んでトマス・アクィナス、デカルト、ロック、ディドロ、カント、ヘーゲル、キルケゴール、マルクスとエンゲルス、チェルヌィシェフスキー、中江兆民、デューイ、そして最後にサルトル

デューイとチェルヌィシェフスキー以外は、一応名前は知っていました。ギリシャ三哲人までは面白いんだけど、その後一気に「何のこっちゃ」になって、ページを繰るのが眠気との戦いに(笑)。

うーん、なんというか、これはこの本が悪いのではなくって、私の好みの問題で、「私が知りたい“哲学”はこういうのとは違うんだけど」と思ってしまうんですよねぇ。

私の思い浮かべる「哲学」と、「学問としての哲学」とは違うんだなぁ、というか。

「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」とか、「人生いかに生くべきか」「“私”とは何か」とか、そういうのが私の好きな「哲学」なんですけど、読んでいるともっとこう「社会論」とか「政治論」みたいな部分が多くて。

ソクラテス達古代ギリシャの哲学者が「自然学者」であったのと同じように、後半の哲学者たちの中にも自然科学分野にまで手を広げている人がいて、かのカント大先生なども「カント=ラプラスの星雲説」と呼ばれる説を唱えて、「宇宙論の進歩にとっては決定的に重要な貢献となっている」そうです。

もともと哲学(Philosophy)の語源は「知を愛する」という言葉であって、特に分野が限定されているわけではない。新明解国語辞典で「哲学」を引くと、「宇宙や人生の根本問題を理性的な思弁によって突き止めようとする学問」と書かれていて、「宇宙」が入ってる以上、この世のすべては「哲学」の対象となりうるわけです。

最初の「哲学のすすめ」の部分では、

例えば、光も、電子その他の物質も、粒子という性質と波動という性質とを共にもっていることがわかったが…… (P58)

と、さらりと量子論に触れていたりもして、著者の哲学者の方々(著者名として表紙には二人しか名前が載っていませんが、実際は三人で書かれたそう)も最新の物理学にまで目配りされていることがうかがえます。

マルクスとエンゲルスなどは、私のイメージでは「共産主義を作った人たち」であって、哲学者というよりは「社会思想家」だと思っていたのですが、じゃあ「思想家」と「哲学者」の違いはなんだと言われると……。

何なんでしょう(汗)。

「思想史」っていうとたぶん宗教も含まれてきますし、自由民権運動家なんかも「思想家」ですよね。

私の思う哲学はそういう「政治的」なのじゃなくて、もっとプライベートなんだけどな……とモヤモヤしていたら。

キルケゴールさんのところでキタ━(゚∀゚)━!!!

まことに、「体系」には、「全世界」がある。しかし、そこには、欠けているものがただひとつある――すなわち「じぶんの魂」が。 (P446)

22歳のキルケゴールは日記に以下のように記したそう。

「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き死にすることが重要なのだ。いわゆる客観的真理などをさがしだしてみたところで、それが私にはなんの役にたつだろう」 (P447)

そうよそうよそうなのよ。私が知りたいのもそれ、私が「哲学」だと思うのもそれよ!と喜び勇んだのもつかの間。

キルケゴールさんの哲学は結局は哲学を否定して、神に――キリスト教に、救いを求めてしまうのだそうだ。

あかんやーん。

がっかり。

まぁね、「私が死ぬ」ということに関していくら思索をめぐらしても、死から逃れられるわけではないわけでね。

社会や政治とは一線を画して、自己の内面をのみ問うのなら、それは「学問」ではなく「信仰」や「信念」の問題になってしまうのでしょう。個別の事例を一般化し、普遍化することが「学問」と呼ばれるものでしょうから。

中江兆民の項で著者たちは

わが国ほど哲学というものの誤解されている国も少ないだろう。哲学といえば、象牙の塔の奥深くにこもった変人の哲学者がやっている、深遠なわけのわからぬものだ、というのが、残念ながら、多くの日本人の常識であった。 (P533)

少なくとも明治時代の前半には、現実の政治に、そしてまた人民の幸福に直結した、もっと生々とした哲学があった。 (P533)

と言っています。自らの哲学の実践のために政治に携わり、その資金のために会社をも興した中江兆民。彼のような哲学者こそ「本物の哲学者」だと。

確かに、世に溢れる「評論家」「理論家」の方々には、「じゃあおまえいっぺん政治家になってみろよ」「経営者になってみろよ」「現場で働いてみろよ」と思うわけなのですが。

うーん、社会を変革するとか人民のより良い幸福とかいうのは、「哲学」というより「政治学」「社会学」の範疇じゃないの???

もちろん人間は社会的生物なので、「この私」を突き詰めようとする時に「他者」のことを考えずには済ませられないし、「“私”の内面」だけを問題にできるっていうのはある程度社会が安定していて、当の本人も生活に多少の余裕がないと無理な気はします。

すぐそばで銃声が聞こえ、日々の糧にも事欠くありさま、足元にはお腹を空かせた子どもが3人も……みたいな状況で、「わたしの魂がー」なんてのんきなことを言っていられるのか。

ある意味、そういう状況でも「宇宙の根源には何があるのだろう」と遠い目をしていられる人こそ「真の哲学者」ではないかと思ったりもしますが。

お釈迦様などは“私”の問題に取り組むために家族を捨て国を捨て民を捨て……。

うん、この「十五大哲学」を読んでてもう一つ思ったことは、「西洋哲学の流れはこれでいいとして、東洋哲学の方はどうなっているんですか?」ということ。

「世界」って銘打ってあるけど「世界」じゃないなぁ、みたいな。

東洋哲学というか「東洋思想史」ということになるとヴェーダや仏教、儒教が出てきてそれこそ「宗教じゃん」という感じもしますが、「唯物論がー」「弁証法がー」という話よりそっちの方が「生きるとは?」というテーマが深そうな気が……。

そう思うのは私が東洋人だからでしょうか。

とはいえ「十五大哲学者」のエピソードには「へぇー」と思わされることもあり。

たとえばソクラテスの項。

自分の主張を正しいと見せかけるデマゴーグの横行と、目さきの利益にまどわされて右に左にと動揺する市民大衆の政治上の無定見 (P197)

うーん、ソクラテス時代のアテナイも現代も、あんまり変わらないような気がしますね(^^;)

「無知の知」を唱えたソクラテス。一般の人がわかりきっていると考えていた「正義」「勇気」等について問答していた彼は、さしずめ「アテナイ白熱教室」……。

また、アリストテレスの時代、アカデメイアの天文学は地動説一歩手前まで進んでいたそうなのです。けれどアリストテレスのせいでその後長く「天動説」が支配的になってしまったのだとか。

天文学ではアカデメイア(プラトン設立)のそれが、生物学ではリュケイオン(アリストテレス設立)のそれが、伝承され、後世の研究の出発点となっていたならば、科学の発展史はまったく変ったものになっていただろうが!(P261)

天文学の分野では「反動的(退化的)」な説を唱えてしまったアリストテレスだけど、生物学(主として動物学)ではすぐれた業績を残していたそうで、けれどその遺産は引き継がれることなく、長い間かえりみられなかったと。

このあたりの「歴史のif」は面白いですね。

哲学の巨人として有名なカントさん、日本でも明治期以降ひろくその哲学が流布し、

「デカンショ節」については、「デ」はデカルト、「カ」はカント、「ショ」はショーペンハウアーの略であるという解釈さえ生れた。 (P393)

そうです。

マジか!!!(笑)

今Wikipediaさん見たらホントにその説が載っています。えー、「デカンショ」って「どっこいしょ」みたいな掛け声じゃないのぉ。

まぁ、それほどデカルトやカントが流行っていたということなんでしょうね。

カントほど日本の倫理教育、従って修身教育に利用された哲学者はいないであろう。 (P393)

とも書かれています。カントの「実践理性批判」の「実践」って、「道徳」のことだったんですねぇ。知らなかった。

以前、古典新訳文庫版の『純粋理性批判』第1巻を読みましたが……、2巻目以降を手に取れませんでした、はい……。

最後がサルトルですが、サルトルは1980年に亡くなっているので、この本が書かれた1962年にはまだまだ健在。「最近のサルトルによれば…」という言及が出てきて、「うわぁ、歴史上の偉人じゃなくて現在進行形なんだ!」と妙な感心をしてしまいます。

「純粋な私」を内在させ、しかも、「純粋な私」によって超越されるところの「意識」は、「ノエマ」であり、超越する方の「純粋な私」は「ノエシス」である。 (P587)

しかしサルトルさん、何言ってるのかさっぱりわからない(笑)。

私が生まれる前に書かれた本で、参考文献も「昭和10年」とか出てきてびびりますが、文章は決して読みにくくはなく、むしろわかりやすいと感じます。ただ、説明される哲学者の哲学そのものがわかりにくいだけで。

最後の用語解説でも、【悟性】の項に、

(英語のUnderstandingの訳語なのであるから)「理解力」とでも訳せばわかりよかったろうが、明治時代以来「悟性」という何のことかわからぬ言葉が用いられている。 (P614)

と書くなど、なかなかユーモアがあります。

「哲学には独特の言葉遣いが多くて、自分たちも初学者の頃苦労した」と用語解説の冒頭に述べてらっしゃいますから、きっと著者の皆さんも「なんだよ、悟性ってUnderstandingだったのかよ」と思ったのでしょう。思ったに違いない!

哲学に興味はあるけどどこから手をつけたらいいかわからないという人、自分の悩み・考えに近い哲学者は誰だろう?という人には良い道しるべになる本だと思います。


キルケゴール君、近いと思ったのになぁ……。