焚書をテーマにしたブラッドベリの名作、ということは知ってたんだけど読んだことがなくて。

「完全新訳版」というのにつられて買ってしまいました。

うん、なるほど。

鋭い文明批評がちくちく来ます。「壁のテレビ」を“家族”と呼び、本物の人間同士の「会話」が失せてしまった世界、一部のコミック等を覗いて「本」を読むことが禁じられた世界。

1953年に書かれたものとは思えないぐらい、「今」な気がする。

ブラッドベリ自身は「テレビ」よりも「ラジオ」がきっかけでこの作品を書いた、と「訳者あとがき」にあります。カップルで歩いているにも関わらず、片方は小型ラジオのイヤホンを耳に射し、そこから流れてくる音にしか注意を払っていない。一緒にいる人間の存在など、忘れ果てたように……。

一緒に食事をしていてもそれぞれがスマホに夢中で……というような場面を目にすることも多い昨今ですが、小型ラジオが登場した時点でもう、「目の前にいる相手」よりも「電波の向こう」に心を奪われてしまう現象が発生していたんですねぇ。

小型ラジオというか、イヤホンの存在かな。

一つのラジオをみんなで一緒に聞くんじゃなくて、「自分しか聞こえてない」にする道具。便利だけど、周囲と自分とを切り離してしまうもの。

タイトルの『華氏451度』というのは「書物の紙が燃える温度」。摂氏に直すと232.7度らしい。紙が燃えるのって100℃じゃないんだ…(それは水の沸騰温度だ)。

ちょこっとググってみると、新聞紙の発火点が291℃、模造紙は450℃らしいです。本の紙は新聞紙よりも燃えやすいのね。

『華氏451度』の世界では、本を持っている者は家ごと燃やされてしまう。文字通り「ファイアマン」と呼ばれる専門の「昇火士」が密告を受けて本を燃やしに駆けつける。

けれど昇火士の一人であるモンターグはいつからかその現場から本を持ち出して隠すようになってしまった。必ずしもそれを「読む」わけではなくて、でも本や家や、時にその持ち主をも焼いてしまう自分の仕事に疑問を持ち始めていた彼の前に、クラリスという少女が現れる。

他の人間たちと違って、風のささやきや陽のあたたかさに心を傾けることのできる少女。観察し、人と会話することのできるクラリス。

学校へ行かない彼女は「非社交的」というレッテルを貼られ、当局にも家族ごと要注意人物としてマークされているのだけど。

わたしにしてみれば社交的というのは、こういうことをあなたと話すこと。それから、世界がどんな不思議に満ちているか話すこと。いろんな人たちといっしょにいるのは素敵なことだわ。だけど、その人たちを一個所に集めて、話もさせないなんて、社交とはいえないと思うの。 (P51)

と、彼女は言う。「生徒からの質問はなくて教師がずらずらとしゃべっているだけ」、という話には苦笑せざるを得ない。

人は何を話しているわけでもないのよ。(中略)ううん、なんの話もしてないの。いろんな車や服やあちこちの水泳プールの名前を出して、素敵っていうわ。だけど話すことはみんなおなじで、人とちがった話は出てこないの。  (P53-54)

1953年の時点で、もうブラッドベリに「こんな未来」を予測させる芽があったんでしょうか。昭和28年ですよ、まだ。

モンターグの様子がおかしいことに気づいた昇火士の隊長ベイティーは、どうして「昇火士」なんて職業ができたか、なぜ本が焼かれるようになったか、その歴史を説明しだす。

このベイティーの長口舌がまた辛辣なんだけども、本を読むことが禁じられてるにもかかわらず、なぜか彼はいっぱい色んな文学作品をすらすらと引用する。「俺もかつては同じ罠に落ちた」みたいに言っているので、彼も自分の職業に嫌気がさしてこっそり本を読みふけったことがあるのかもしれない。

単に「隊長」というのはある程度の歴史の勉強をさせられて、「こんなに役に立たない」という反面教師として色々覚えさせられるのかもしれないけど。

二十世紀にはいると、フィルムの速度が速くなる。本は短くなる。圧縮される。ダイジェスト、タブロイド。いっさいがっさいがギャグやあっというオチに縮められてしまう。 (P92)

民衆により多くのスポーツを。団体精神を育み、面白さを追求しよう。そうすれば人間、ものを考える必要はなくなる。どうだ?スポーツ組織をつくれ、どんどんつくれ、スーパースーパースポーツ組織を。本にはもっとマンガを入れろ、もっと写真をはさめ。心が吸収する量はどんどん減る。せっかち族が増えてくる。 (P96)

いやー、もうホントにね。

苦笑するしかない。

「本は短くなる」とか「マンガを入れろ」。そして団体精神を育むスポーツ。スポーツも一流になろうと思ったら「自分で考える」ができないとダメだと思うんだけど、日本の根性論とか学校体育なんかはわりと「ものを考えないようにさせる」ためのものっぽいよね。

昇火士が時々本や家を燃やすのはデモンストレーションでしかなくて、いったん方向が定まったら、市民達は自分から本を捨て教養を捨て知識を捨てていった……みたいな話も耳が痛い。痛すぎる。

モンターグの奥さんミルドレッドとその友人たちの描かれ方もすごいし。

ミルドレッドはもちろん夫のことを理解しない。本なんか持ってたら「犯罪者」で、その妻である自分にも危険が及ぶとしか考えられない。

まぁそうだろうなぁ。そういう社会で、それを「当たり前」として育ってきたんだから、「疑問に思え」っていう方が無理で、ミルドレッドは別に極悪人でもなんでもない。モンターグがけっこうずっとミルドレッドのことを案じていて、読んでる方は「“壁のテレビ”の方が大事な女なんかもうほっとけばいいのに」と思ってしまうけど。

ミルドレッドもその友だちも、「子どもなんかめんどくさいから要らない」って言ってて、子どものいるもう一人の友人も、「10日のうち9日を学校に放り込んでるんだから。月に3日我慢すればいいだけ」と説明する。

ラウンジに放りこんで、スイッチをいれればいいんですもの。洗濯とおなじよ。洗濯物を突っこんで、ふたを閉めるだけ。 (P163)

きっとこの世界も少子化なんだろうなぁ。

そういう扱われ方をしている子ども達がどう育っているか、という描写もちょこっと出てきます。

そしてこの世界では戦争が起ころうとしていて。

ミルドレッドの友人の夫は「きのう陸軍に招集された」ところ。でも妻は全然心配なんかしていない。「すぐに帰ってくるわ。だって陸軍がそう言っていたもの」

彼女たちは現実に何が起こっているかに興味がなくて、知ろうともしない。「壁のテレビ」や当局が「そう言っていれば」、それを素直に信じる。「戦争で死んだ人なんてひとりも知らないわよ」と。

そんな、「戦争」なんてまったくピンと来ていないミルドレッド達がどうなるか、っていう最後もなかなかうすら寒くて、他人事とは思えません……。

活字中毒者にとっては悪夢の世界が描かれる本作。本があれば――本さえ読んでいれば、世界が救えるのかどうかそれはわからないけれど。

モンターグに助言を与える「同志」フェーバーがテレビと本とを比較して、

テレビは“現実”だ。即時性があり、ひろがりもある。あれを考えろ、これを考えろと指図して、がなりたてる。それは正しいにちがいない、と思ってしまう。とても正しい気がしてくる。あまりに素早く結論に持ち込んでしまうので、“なにをばかな!”と反論するひまもない。 (P140)

本は“ちょっと待っていなさい”といって閉じてしまえる。人は本にたいして神のようにふるまうことができる。 (P141)

って言っているのはなるほどと思う。

本は閉じることができるし、読むスピードを自分でコントロールできる。わからなければ少し戻ってもう一度ゆっくり読み返したり、逆に先走って結末だけ読んでみることもできる。

テレビ(映像)は勝手に流れてきて、どんどん先へ進んでいく。

もちろん、テレビだって消すことができるんだけども。録画すれば巻き戻しも早送りも一時停止だってできるけど。

でも原則として時間の流れ方を送り手がコントロールしている。

そこが、映像と本との大きな違いだと思う。(この話は以前、『「読む」という行為の時間性・能動性』という記事でも書いてます)


訳者あとがきによると、この新訳版は原稿用紙400枚に満たない分量なのに旧訳版は530枚もあったそうで、おそらくこの新訳版の方がすっきり読みやすくなっていると思われます。翻訳物はどの訳で読むかで印象が変わり、好き嫌いも変わったりするので、初めて読むならこの新訳版がいいかも。

ちょっと図書館で旧訳版借りて比較してみたい、とも思いました。