引き続きカドフェル16巻です。

15巻『ハルイン修道士の告白』は最初からずっと温かい気持ちで落ち着いて読めたのですが、今回は何か不穏な空気が立ちこめていて、「うわぁうわぁ、この先読みたくないなぁ」という感じでページを繰ってました。

「読みたくないなぁ」と言いながら読まずにいられなかったんですけどね(^^;)

『ハルイン』の方は、「18年前の悲劇」を追悼する旅であり、それがどんなに不幸なものでも、また、現在の事件に繋がっていても、やはり「もう起きてしまってそれ自体はどうしようもないこと」でした。

でも今回は違います。現在進行形で事件が起き、主人公の青年が現在進行形で悲劇に巻き込まれていくのです。しかも「異端」の告発を受けて!

背表紙に途中までのあらすじが書いてあるものですから、「えー、この子が告発されちゃうの。えー」ともう最初からドキドキなんですよねぇ。「こんないい子がなんで」と。

物語は、前作から3か月が経った1143年の6月。聖ウィニフレッドの移送祭を目前とした修道院に、カンタベリー大司教の使者にして大聖堂参事会員のジェルベールがやってきます。スティーブン王とモードの内乱に絡んでチェスターへと赴く途上で馬が怪我をし、やむなくシュルーズベリに足止めされることになったのです。

そしてその同じ日、修道院はもう二人の客を迎えました。

と言っても一人は遺体。7年前、聖地エルサレムへ巡礼に出た羊毛商人ウィリアムは、故郷の地を踏む前に息を引き取り、一緒に巡礼についていった徒弟イレーヴの手によってここまで運ばれてきたのでした。

生前は修道院の後援者であったウィリアムは修道院の墓地に眠ることを希望しており、その願いはたやすく聞き入れられるはずだったのですが。

ジェルベールの案内役として滞在中だった助祭のセルロにうっかり昔の話を蒸し返され、厳格な教条主義者ジェルベールに「それは異端の考えではないか?」と疑いを持たれてしまいます。7年間主人とともに巡礼の旅を続けたイレーヴは審問の席に呼ばれ、故人に着せられた嫌疑を無事晴らすことができたのですが。

今度はイレーヴ自身が「異端」の疑いをかけられてしまうのです。

イレーヴはちょっとした罠にはめられたのですが、しかし聖地エルサレムを訪れ、はるか東方の人やものを自分の目で見、色々な知識を吸収した彼は実際に、「そんな話はおかしいのではないか?」という疑問を持ってもいたのです。

それはまず、「幼児洗礼」のこと。

「生まれたばかりの赤ん坊が、あの無力な存在が、洗礼を受けられずに死んだというだけの理由で地獄に落とされるのを見て、アーメンといえるだろうか?」 (P94)

これ、私から見ると非常にもっともな疑問で、「え、この考えでもう異端審問!?」とびっくりしてしまいます。

当時の(というか今でも?)教会によれば、こんな考えは「洗礼」の意義を否定するものであり、また、「無垢な赤ん坊」とか「生まれたばかりで何の罪も犯していない赤子」という言い方は「原罪の否定」になるのですね。

なんだよそれ。

イレーヴは聖アウグスティヌスが言ったという「救われる人間の数は決まっている」という説に対しても「それでは努力の意味がないだろう?」と思うのですが、しかしこれも異端。

人は罪を犯すのを避け、正しく振舞おうと努力することができる、自分の意志によって。そしてその自分の意志こそ神の贈物であって、使うために与えられたものだ。 (P96)

というイレーヴの考えはしごくまっとうなものにしか思えないのだけど。

ジェルベールはご立腹。

それは未熟な頭で疑問を抱いたり、理由づけをしたりすべきことではなく、無条件の信仰心によって受け入れるべきものである。提示された真理を、そのまま信じさえすればよいのだ。 (P49)

つまり迷える子羊は愚かに迷っていればよく、頭など使う必要はないと。

まぁ教義について考えるのは聖職者のやることで、一般庶民が四の五の言うなよ、という時代だったのはわかりますが。各地の宗教的な反乱を実際に知っているジェルベールが過敏になるのも無理からぬことではある、と本文中に説明されていたりもします。

「おまえら下層の人間はそんなこと考えなくていいんだよ!」と権力者が大衆の「知力」を奪おうとするの、決して中世だけの話ではないと思いますが。

で。

イレーヴの異端審問がどうなるか、というハラハラと同時に、イレーヴの勤めていた羊毛商の家で起こった殺人事件の謎解きが絡み。

カドフェルシリーズのことだからイレーヴが不幸になって終わることはあり得ない!と思いつつも最後までハラハラさせられました。殺人事件の真犯人も「え?まさかあの人…」と思ったのかなり終盤になってからだし。

いや、それは私が鈍いだけで、ミステリ好きの方には早くから当たりがつくのかもしれません。容疑者の数は多くないどころかほとんどいないんだからなー。

前巻の主人公ハルイン修道士の名前が出てきたり、前巻では名前だけだったド・クリントン司教が姿を現したり、「シリーズ物」の楽しみもそこかしこ。

クリントン司教、いい人で良かった。

ラドルファス院長やクリントン司教のような人ばかりならねぇ。

もちろんカドフェルは

たとえ名高い聖人であろうと、人間すべてを必然的に死に近づきつつある罪と堕落の権化と見たり、いかに欠陥だらけであろうとこの世を度し難い悪と見なしたりする者には賛成できなかった。 (P29)

という人間。きっとエリス・ピーターズさんご自身がそう考えていらっしゃるのでしょう。

現代のキリスト教では「罪なき赤子」と言っただけで異端視されることはまさかないですよね???

イレーヴの素朴な疑問には「三位一体」に関するものもあって、「父と子は最初どのようにして三つになったんですか?」「依然として三つではなく一つの存在でありながら、同時に同等の三つだなんて、そんなことがなぜありうるんですか?」(P246-247)とアンセルム修道士に尋ねています。

アンセルムは「三つ葉のクローバーみたいなもの」って答えるんですけど、うーん、納得できないよねぇ。

ド・クリントン司教がシュルーズベリに到着するまで修道院の独房で本を読んで勉強するイレーヴ。

そもそも読書が実際に人間を向上させうるものかと真剣に考えていたのである。ましてや、迷路のように入り組んだこれら神学上の著作は、触れたものすべてに曖昧で霞のようにつかみどころのない言葉の衣を着せて、本来わかりやすく明確なものをぼんやり曇らせてしまうだけではないか。 (P247)

教義の解釈ってどんどん重箱の隅をつつくようなことになっていくもんね…。宗教じゃなくても、言葉を重ねれば重ねるほどわからなくなっていくことはある。

今回の事件で鍵を握っているのも実は「本」で、最後の最後、すべての決着がついた時に

かつてそれが東方の、どこかエデッサの向こうの小さな修道院へと戻っていった経緯は、永久にだれも知ることはないだろう。そしてまたいつか、おそらく今後200年も経ってから、人々はそれがエデッサからコヴェントリーの書庫へと旅した経緯を不思議がるかもしれない。だがそれもまた、永久に謎でありつつけることだろう。書物はその著者より長命なものだが、少なくともアイルランドの修道士ダイアーメイドはその名を普及のものとしたのである。 (P370)

と書かれてあって、思わずうるうるしてしまいました。

ホントに、冗談抜きでこのくだり読んでると急に鼻の奥がつーんとして涙出そうに。

時を超える書物――。

はぁ。

読み応えたっぷりの一冊でした。

現代教養文庫版では解説にシュルーズベリ探訪記がついていてさらに楽しめます。修道院もセヴァーン川もセント・ジャイルズ教会も本当にあるんだ。わぁ。

ちょっと行ってみたくなりますね。

現代教養文庫版は図書館でどうぞ。


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