(『お伽もよう綾にしき』の感想はこちら。『お伽もよう綾にしき ふたたび』第3巻の感想はこちら。5巻の感想はこちら。)

待望の6巻出ました~♡

5巻が出たのが昨年の1月。1年以上ぶりですね。

「この巻はおじゃる様メインです!!!」と帯裏に書いてあるとおり、おじゃる様の過去(竹笛に封印された経緯)を描くお話です。

いやー、おじゃる様ファンとしてはたっぷりおじゃる様が堪能できて、もうそれだけで嬉しい。帯に「!!!」とびっくりマーク3つ付きで宣伝されるほど、やっぱみんなおじゃる様好きですよね! すずも新九郎も大好きだけど、おじゃる様は別格ですよね!!!

戦乱の世にありながら、すず達のいる伊摩の国は領主も領民も穏やかで住みやすい国。もののけであるおじゃる様のこともみんな自然に受け入れています。

けれどある日、前川という武将が「おじゃる様を利用しろ」「なぜもののけに“様”などつけて親しんでいるのか」と言い出します。どうもその武将にはもののけが取り憑いているらしく、新九郎は源八郎とともに前川の屋敷に赴きますが……。

うん、前川さんの言うことも一理あるよね。「もののけ」と一口に言っても人間に害をなすもの、そうではないもの色々いるわけだけど、「悪霊退散!」で護摩を焚いたり、無念の死を遂げた者の祟りを真剣に信じていた時代、強大な力を持った大狐のもののけに「おじゃる様」なんて名付けて可愛がるのはおかしい。

もっと怖れないと!

……いや、前川って人の主張はそういうことじゃないけど(^^;) おじゃる様の実力を知っていたら「親しんでいるのがおかしい」というのは真逆の意味になると思うんだ、普通。「利用しろ」じゃなくて「もっと崇めないと」って方に。

もののけより人間の方が「格上」って一律に思う方がおかしい。

まぁ前川さんには「悪いもののけ」が憑いているので仕方がないですが。最後に「もののけにつけ込まれるものが自分にあった。自分の不覚」とちゃんとおじゃる様に謝るので、前川さんも本来はいい人。伊摩の国ってほんといい人だらけだわ。

おじゃる様を笛に封印した張本人、僧の順恵は『お伽もよう綾にしき ふたたび』2巻の最後にすでに出てきています。徳の高いお坊様だった順恵はあの世で観音様の使いをしています。若返った姿で。

おじゃる様が「あの時は年寄りだったのに」と今回もしつこく突っ込みを入れるのが楽しい。うぷぷ。

おじゃる様の過去、やっぱりうるうるさせられましたねぇ。このシリーズは電車や病院の待ち時間に読んじゃいけないんですよ。ずるずる泣いちゃうから。思い出すために2巻引っ張り出してパラパラしただけでもう泣いてるし。うう、青藻よく頑張ったよぉぉぉ。

で。

2巻の最後で順恵が言ってることと、今回明かされた「封印の経緯」。微妙にズレてる気がしないでもないです。おじゃる様が京を荒らし回っていたから順恵は彼を封印したわけだけど、そういう「悪いもののけ」になる前の、「穏やかで格調高いもののけ」だった頃のことも順恵は知ってることになってる。この6巻では。

2巻の最後では順恵さん、「昔のおまえはずいぶん険しい顔だった」って言ってて、おじゃる様の顔について「良い顔だ。おまえに似合うておる」って言ってるんだよね。

この6巻を読むまでおじゃる様の顔は新九郎の顔を模したものだと思ってて……いや、それだと確かになんでお公家さんなのかが説明できないんだけど、おじゃる様、数百年前にすでにあの顔、あの見た目で、それは当時のとあるお公家さんの姿を模したものだったんです。

新九郎に似てたのはたまたま。

というか、それこそが「お導き」「巡り合わせ」ということなのだろうけど。

最初からすずを助けてくれたおじゃる様、それはおじゃる様が人の慈しみというものをすでに知っていたからで――寂しさを知っていたからで。

うん。

ちょっとだけ「あれ?」って思ったけど、大狐のもののけがなにゆえ「おじゃる様」になったか、全体としてはとても納得。

すももや茶釜といった小もののけがわちゃわちゃしてる冒頭も楽しいし、足を挫いておじゃる様にお姫様抱っこされてるすずは超羨ましいっ。

最後のおじゃる様のお顔もね。

うふふ。

おじゃる様、すずや新九郎たちと一緒にいつまでも幸せでいてほしい。すずや新九郎がいなくなっても、きっときっとその子ども達と……。もののけの寿命ってよくわからないけど、おじゃる様ぐらいの大もののけならきっとまだ数百年はご健在だろうから、すずや新九郎が老いて弱っていくの見るの、きっと辛くて寂しいだろうけど、でもきっと二人の子どもたちや伊摩の国の人達が、おじゃる様を敬い、愛し続けてくれる……。

ひかわさんのお描きになる世界は本当に優しくて、でも強くて、大好きです。



で。

余談ですが。

『お伽もよう綾にしき』には「阿字観」というのが出てきて、いわゆる「1/4スペース」でひかわさんご自身が「フラクタル図形」や「波」を用いて「阿字観」について説明されています。

宇宙という大きなもの。その一部である自分も、雑念を取り払えば一瞬にして「大きなもの」と一体となれる。

6巻ではすずが自分の気持ちを落ち着けるため「阿字観」をします。「阿字観」って、「する」ものなんですね。

「全体の中の自分を意識して すべてはあるべくしてある」

私、6巻読んだあとすぐにヨガ教室(かれこれ10年以上通ってる)行ったんですが、呼吸法のところでいつも「宇宙の“気”を取り込むように」「私は宇宙の法則と一体である。一体であるからして、私に敵対するものは自ずから滅んでいく」みたいなことを先生がおっしゃるんです。

立っている自分の体は天と地を結ぶもの。そして呼吸とともに天地の“良い気”を取り込み、世界と一体化する。

みたいな。

「これって阿字観と一緒じゃん!」と思いながら呼吸法してました。

個と全体。

一にして多、多にして一。

もしかして私もおじゃる様呼べるんじゃ……(そんなことはない)。

同じく「1/4スペース」で「おじゃる様について詳しく描かないと『お伽もよう』シリーズは完成されない」とおっしゃっているひかわさん。まさか、描いたから完成!終わり!じゃないですよね? 完成と完結は違いますよね?

みたびよたびとおじゃる様に――すず達に出会えますように。

【関連記事】
『お伽もよう綾にしき』/ひかわきょうこ
『お伽もよう綾にしき ふたたび』第3巻/ひかわきょうこ
『お伽もよう綾にしき ふたたび』第5巻/ひかわきょうこ
もし宝塚で『お伽もよう綾にしき』をやるとしたら
『彼方から』第1巻/ひかわきょうこ