ちょっと前にご紹介した橋本治さんの『思考論理学』と同じ、『夜中の学校』シリーズの1冊です。

デーモン閣下の講義は1992年1月の4週間。
1992年というとまだ聖飢魔Ⅱはバリバリ現役……どころか、脂ノリノリの時期でしょうか? 1991年の12月に歴代小教典を集めた「愛と虐殺の日々」(リンクは後に発売された完全版)がリリースされてますね。
私がミサに通ってたのは1987年とか88年あたり。

まだ「デーモン小暮閣下」ですし、収録されている写真もお若いっ!
白黒だけど予想よりたくさん写真があって、閣下だけでなく聖飢魔Ⅱ全員でのものも入っています。懐かしい~。

30分×4回の放送ということで、写真込みで90ページというコンパクトな分量。歯磨きしている間に1回分読めるという感じでした。閣下の「語り」、すごく巧くて読みやすいし、あの声で脳内再生余裕(笑)。

本としては薄いけど中身は濃く、本当に閣下、頭が良い人(いや、悪魔か)だと思います。

まず第一講のお題は「音楽から見た文化交流論」

この番組で人類以外のものが講義をするというのは吾輩が初めてらしいので、人類には想像し難い観点から、この社会、この世の中を分析していこうと思う。 (P8)

掴みはOKすぎますね。

文化交流のためにスペインで公演を行った時の話をもとに、真の「文化交流」とは何か、ということを教えてくださいます。
この、「スペインに行っていた」ということを会場のほとんどの人が知らなくて、「全然知られていない。生きるかいもない」(P9)と嘆く閣下(^^;)

なんか、津軽三味線、着物ショー、阿波踊り、そして聖飢魔Ⅱという「日本のエラい人はどういう基準で“日本らしさ”を選んだのだろう」と思うような面子でイベントを行ったそうで、観に来たスペインの人もびっくりしたんじゃないかと思うんだけど、さてスペインで聖飢魔Ⅱのライブは成功したのか?

日本では、あるバンドが、例えばニューヨークでライブをやった、あるいはモスクワでライブをやった、その「やった」ということだけがただ「すごい」と言われて終わってしまって、何をやってきたのか、どういうふうに相手に自分達のメッセージなり文化なりを伝えてきたのか、それを向こうはどういうふうに受けとめ、反応したのか、それがほとんど伝えられていないのが現状だ。 (P13)

もうこの認識だけで「さすが閣下」と思うんですが、スペインでのイベント、宣伝の仕方があまりうまくなく、集まったのは一緒にステージに登場する現地のロックバンドのファンがほとんどという状態。

だからそのバンドと似た傾向の曲はウケるけど、そうじゃない曲ではあんまり盛り上がらない。
うん、まぁ、そうなるよね。

そういう完全アウェイな「文化交流」を経験して、閣下が何を考えて帰ってきたか。

よく、日本人は国際性がないと言われる。じゃあ、国際感覚を持つために、どんなことをすればいいのか。それは、言語を学ぶことでもないし、経済力を示すことでも、もちろんない。自分たちの価値観を押しつけることでも、もちろんない。 (P25)

それは何かと言うと……の後がまた、実に素晴らしいのです。閣下、本当に“善き悪魔”。

30分の公開講義のためにびっしり4枚にわたってレジュメを作ってくるという几帳面さも素敵。第一講、1枚目の1/4しか話してないそうで。いや、すごいな、ほんと。


第二講は「人類の行動に見る善悪論」。まず最初に、閣下の論理の秘密を教えてくださいます。

「○○が悪」だというような断言の仕方とか、これが正義だ、善だ、正しい、誤りだという言い方は、実は使わないのだ。そこに秘密が非常に隠されているのだけれども。 (P31)

「それはお前にとっての正義であって、俺にとっての正義じゃないんだ」 (P36-37)

自分のモノサシは絶対じゃない。だから閣下は「○○が悪」というような決めつけをしない。

昔、閣下の『我は求め訴えたり』を読んだ時も「人間より悪魔の方がずっと善良だな」と思った記憶がありますが、まぁ、それこそ「人間が正義」という価値観も相対的なもので……。人間は自分が人間だから人間をいいものと思うけど、地球にとって人間は「世界の破壊者」(おのれディケイド!)でしかない可能性が高い。

人間が「悪」なら、その人間に「悪」として退けられる悪魔こそ「善」。

「地球」の話が出たので先に第四講の話をしますけど、第四講「愛と正義の情報操作論」では湾岸戦争の話が出てきます。そう、これ、1992年に行われた講義ですから。

湾岸戦争。1991年。

石油にまみれた水鳥の映像、あんなものはやらせだ、アメリカが戦争をしたがったのはイラクが悪とかそういうことよりも……と解説してくださる閣下。
今でこそ湾岸戦争やその後のイラク戦争の評価は良くない(「大量破壊兵器はなかった」)けど、1992年の1月にもうそんな風に話せちゃう閣下すごい。

で、第四講の最後(ということは全体の最後)に閣下は、戦争や飢餓、その他もろもろの問題は「地球上に50億もの人間がいる」ことに起因しているとおっしゃる。解決するには「20億ほどの人間が死ぬ」か、「全員の生活レベルを江戸時代くらいまで下げる」の二つしかない、と。

「愛で地球を救う」なんて言うなら、本当に「愛」があるなら。

「お前ら、ホントに愛があるんだったら、自分が率先して死ね」と、吾輩は言いたいわけだ。 (P89)

ほんまね……。
引用しないけど、「もし吾輩が辞書に“愛”の定義を書くなら」と語ってらっしゃる部分も素晴らしいです。

早くどちらかの方法を選ばないと、湾岸戦争とかソ連崩壊とか、そんな問題でああだこうだともめているより先に、地球のほうが先に壊れてしまうぞ、ということを、吾輩悪魔から諸君たちに警告を発しておく。そして、諸君たちの愛がいかに素晴らしいものであるかということを、これから数年間、二十世紀末に向かって、たっぷりと見せてもらおうではないか。 (P90)

今は2019年で、21世紀に入ってもう20年近くが経とうとしている。
昔、1991年とか1992年にはみんな、1999年に恐怖の大王が降ってくると思っていたのに。

なんとなく、世界は21世紀までもたないと思っていて、でも21世紀は来て、それどころか21世紀の6分の1がもう終わっちゃってる。
世界の人口は「20億減る」どころか「20億増えて」、70億人を超えたと推計されていて。

それでもまだ世界がこうして存続していることを、「頑張った」とみなすべきなんだろうか。ただただ破滅への道を進んでいると言うべきなのか――。


飛ばした第三講は「体験的比較文化論」
デーモン閣下の世を忍ぶ仮のお姿が「帰国子女」というのはよく知られていることだと思うけれども、4歳から7歳という人格形成期をニューヨークで過ごした閣下。

実はその内側、感性とか価値観、ものの考え方は、アメリカという国でアメリカ人の手によって植えつけられたということを、自分では非常に強く感じているのだ。 (P61)

ということで、色々とこの第三講もなるほどと思うことが多かったのですが、中でも「農耕民族と狩猟民族の違い」というのが非常に納得で、日本では「みんなに合わせる」「長くやってる」ことが高く評価されるのも仕方のない部分あるんだなぁ、と。

そしてそういう島国かつ農耕民族な在り方が大陸かつ狩猟民族の人には理解できない、こっちも向こうがよくわからない、というのもある意味しょうがないことで、でもそういう違いを踏まえて、どういうふうに力を合わせればより良い関係、より良い未来が作れるのか、学び続け、考え続けていくしかない。

人間、ある程度歳を取ってくると、これ高校のときにもっとちゃんと勉強しておけばよかったなあとか、なんで小さいときにピアノを習っておかなかったのかなあとか、そういうことがいろいろ出てくるじゃないか。でもそういうのは、なきゃないでしょうがないことなのだから、それが自分にないから自分はダメなやつなんだというふうに思うのではなくて、それをどうプラスにしていくかが問題だよな。 (P68)

って箇所も読んでてうるうる。
ああ、ほんとになんて善い悪魔なんだ……。