図書館行ったら橋本治さん追悼のミニコーナーができていて、いつもは書庫に入っている古い本が並んでいたので借りてみました。

Amazonさんのリンクを貼ろうと思ったら書誌情報がなく、ピンボケ気味の写真でご容赦。
版元のマドラ出版がもうないので絶版なのはわかるとして、中古も流通してないってことでしょうかね。オルコットさんの古い文庫本でもちゃんと出てきたのに。

で。

表紙の下部にちょろっと「夜中の学校」という文字が見えると思うのですが、この本、1991年から1992年にかけて、テレビ東京で金曜深夜に放送された「夜中の学校」という番組の書き起こしシリーズなのです。

巻末に他のラインナップが載っているのですが。


糸井重里、橋本治、淀川長治、秋元康、野田秀樹、天野祐吉、川崎徹、杉浦日向子、景山民夫、養老孟司、荒俣宏、中沢新一、そしてデーモン閣下!!!

なんという豪華な面子でしょうか。
ちなみにデーモン閣下のものはAmazonさんで中古の出品がありました。


30分の放送枠、一人につき1か月(4週)ということで、「第一講」から「第四講」まで、100ページ。あっという間に読んじゃいました。

面白かった!

全盛期の橋本さんの流れるような文章、放送でしゃべったものがベースになってるから一層「語り」の芸が冴えて、「これこれ、これが読みたかった!」感。

いきなり最初の見出しが

ハゲない男は人間のカスである (P6)

ですからね。
掴みはオッケーにも程があります。

僕にとってみれば、ハゲるっていうことは、苦悩することなんですよ。 (P10)

(ハゲないで顔色を悪くしてる人は)内臓でそのダメージ引き受けてんですね。内臓で苦悩してるもんだから、胃下垂なんかになったりする。 (P19)

思わず吹き出しちゃいましたけども。

第一講のタイトルは「ハゲという題材について」で、橋本さんは「僕もハゲてるんですよ、ほら」と頭を見せた上で、こういう話が続くわけなんですけども、この本全体のタイトルとしては「思考論理学」ってなってるでしょう?

ハゲの話のどの辺が思考論理学なんだよ?って思いますよね。

これは要するに、「ハゲ」という身近な、自分自身の体から出てくるような事柄からも、膨大な思考が展開できるということかと思います。

橋本さんは「もし自分がハゲてなかったらハゲはヤだ、で終わり、ハゲてるから肯定するために色々考える」みたいに言ってらして、根拠なんかなくても説得力があればいいんだ、説得力があれば勝手に他人が根拠を発見してくれる、

「真理は共同作業だ」ってのが、私の生きてく前提ですから。 (P15)

と、「坊主=世を捨てる」ことがなぜ「ハゲ」(剃髪)になるのか、武士の月代はもともとは兜を安定させるためのものだったけど、もう戦なんかなくて兜をかぶる必要性なんかあるとも思えない江戸時代にも存続したのはなぜか、という話にまで広がって、聞いてる方はついうっかり「なるほど」と納得させられてしまう。

戦云々とは関係ないはずの町人にまで月代が広がってたんですから、「大人=ハゲ=苦悩しなければならない」を前提に江戸の文化はあったという……えー、ほんとかよ!?

我が身っていうものが、じつはトータルなものを全部含んでいるものであるんだから、すべての問題は我が身の中に入っていて、これからは「その我が身から、どれだけ問題を引き出せるかが勝負だ」って。 (P25)

「考える」なんて難しい、何をどう考えたらいいかわからない。
そんなことないでしょ?ということをハゲの考察で実践してみせてくださるわけです。


二講目は、「行間の読み方」

見えないものが見える……霊的な話から始まって、紫式部との交霊について。

『窯変源氏物語』の単行本1巻が1991年5月の刊行、橋本さんの「夜中の学校」が放送されたのは1992年の2月なので、まさに執筆の最中。(8巻目が1992年の1月に出ているっぽい。最終14巻は1993年の1月刊)

『窯変源氏』の素晴らしさに、周囲からは「光源氏が憑依した」などと言われてしまうけれど、それを言うなら「(書き手である)紫式部が憑依した」であるべきだし、そもそも「俺はただ光源氏になりきっているだけ」だと。

役作りの非常な努力と、役作りを支えるための膨大な資料、子どもの頃からあれこれ観察して蓄えてきた橋本さん自身の膨大な「この世界のディテール」のストック。それらがあってこそのあの『窯変源氏』なのに、人は簡単に「源氏が憑依してる」と超常現象のように言ってくれる。

考えたら、それってすごく失礼なことだよなぁ。

あるいは、「才能」という言葉。

「私もそんなに努力しなきゃいけないのか、ヤだな」っていうのがあるからさ、「努力しましたねー」て言うよりも「才能がおありになって」と言ってたほうがいいんだよね。 (P37)

うっ。
すいません(平謝り)。

才能というような目に見えないもんは、エンエンと続く具体的な努力の集成ですよ。 (P37)

うっ。

古典における情景描写の大切さ、情景を成り立たせるディテールの大切さ。
ディテールのストックのさっぱりないわたくしとしてはいちいち「うっ」とならずには。

子どもの頃、「ぼーっときれいな花を眺めていた」「そのぼーっとしていた自分を捨てずに取っておいたことが今、源氏物語に活きている」とおっしゃる橋本さん。

どんなものでも結局役に立つんだけど、このストックしたものをどうやって表に出すかっていうことが普通はわかんないから、それで超能力願望とかって方向に行っちゃうんじゃないのかなーって気がするんですよ。 (P41)

「役に立たない」で色々なことが切り捨てられて、そういう余分を切り捨てて効率よくやっていくのが「大人になること」のようにも思えて、全部「取っておいた」人がそれを素晴らしく使っているのを見ると、「超常現象」のように思えてしまう……。

「取っておける」のも「それを表に出すことができる」のも、やっぱり才能のような気がしてしまうけど、「努力」なんですよね。

「努力」……(遠い目)。

作家っていうのは、行間を読むものなんだもの。霊なんか見なくたっていいんだもん、行間見れば。 (P46)


第三講は「「わからない」という方法論」

これ、後に新書のタイトルになってますよね。2001年に出た『「わからない」という方法』。blog開始以前の著作なので感想記事書いてませんけれども。


「わかんない」「わかんない」って言ってると、「いったい俺は何がわかんないだ?」っていう、問題のありどころを求める理性ってやつがね、パカッと顔を出すんですよ。これがこの方法論の最大の強みね。 (P52)

ということで、この講で取り上げられるのは「ユーゴスラビア問題」。
えーっと、もともと(というか第二次世界大戦前)はユーゴスラビア王国だったのが、戦後「ユーゴスラビア連邦人民共和国」になって、この「夜中の学校」が放送される前年の1991年に「ユーゴスラビア紛争」があって1992年には「ユーゴスラビア連邦共和国」という名前になる。

現在「ユーゴスラビア」という国はもうなくて、「連邦人民共和国」時代を構成していた地域はそれぞれ独立して、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアになっている。(Wikiを参照しました)

橋本さんは図を用いながら当時の、主にセルビアvsクロアチアとなっている状況を説明してくださいます。そもそもなんで「ユーゴスラビア連邦」みたいにくっついてないといけなかったのか、ってところから。

外側に「オーストリア帝国」という大きいものがあったから、対抗上こっちも大きくした、でも……うんぬん。
ロシアが「ソ連」という大きいものになったのも、色々と外側に脅威があって、「自分達もでっかくなっておかないと」ということがあったからだと。

なるほど。

もう「ソ連」はなくて、こちらも同じ1992年に「ロシア連邦」になるんだけれども、相変わらず大きいままなのは外側にアメリカや中国という「大きいもの」があるからなのか。

橋本さんは「連邦=父親」「共和国=子ども」というふうにたとえて、

そこへさらに小さいのがくっついてソビエト共和国連邦っていうのになるっていうふうに、いつも付録がついてるわけね。個として自立してなくて、子供とか女房が込みじゃないと自分がないっていう。このパターンで共通してるってことは、ほんとに、スラブとかあそこらへんの国っていうのは男権世界なんだなと思うの。 (P70)

とおっしゃっています。
「父親」は実はなんでもなかった、でソ連は解体してしまうけど、でも子どもがそれぞれ独立するってことにはならず、ロシアが「父親」にスライドしただけ、みたいになってしまう。

子どもがいれば、「父親」という形で自分が規定される。

「自分」というものがちゃんとあるよりも、「自分の家族」がありさえすれば、そこに「自分」があると思う人はいっぱいいるわけさ。 (P65)

ふぉぉぉ。

この第三講では、橋本さんが「私には民族主義がわからない」っておっしゃっているのも印象深い。
セルビアとクロアチア、対立する二つの勢力の間には必ず「あいまいな境界領域」がある。アラブとイスラエル、とかでもそう。実際には単純にバチッと二つに分かれるわけではなく、境界にはどちらにも属するような「ぐちゃぐちゃ」の部分がある。でもそこは常に「ないことにされる」。

そういう人間(境界にいる人)の立場は、こういう状態の中では黙殺されるわけですよ。で、私は、黙殺されることが一番辛いなと思うわけ。俺はいつも境界にいる人だから、民族問題みたいに「クロアチア人だからセルビア人が許せない」とか「セルビア人だからクロアチア人が許せない」っていう単純な発想が、わかんないの。 (P61)

で、お前はどっちの立場なんだ?賛成か?反対か?


第四講「青春の曲がり角」ではさらに図が大活躍、「図解:青春の曲がり角」になっています。さすがというかなんというか、文字でしか考えられない私としては「この発想はやっぱり努力ではなんともならないのでは」と泣き言を言いたくなります。

頭って、やっぱり「一直線で考えたい」っていうもんだから。文章っていうのが、一本の線でしょ。活字人間って、一本の線をたどることしかやってないから、こういう図解ができないのよ。 (P93)

うわぁん(号泣)。

この図解、本当に面白いし「なるほど」で素晴らしいので、ぜひ図書館等で本を手に取って読んでいただきたいです。

曲がり角の向こうには“青春の記憶”がある。これを別名“ユーミン”と言いますね。ユーミンの歌にあるような青春で、これは「存在しないけど存在するように思える青春の記憶」なんだ。 (P75)

ぶはっ。


この「夜中の学校」、企画は天野祐吉さんと島森路子さん。『広告批評』のお二方です。お二人とも2013年に亡くなられ、そして橋本さんも……。
ラインナップに名前のある杉浦日向子さんや景山民夫さんもすでに鬼籍に入っておられますよね。

1992年は、もう27年も前なのだものなぁ。

デーモン閣下の「悪魔の人間学」もぜひ読まねば。